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私の昭和歌謡

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昭和は遠くなりにけり(おばあちゃんがいつも「明治は遠くなりにけり」って言ってたっけ)私も歳をとったもんだ。 でも、昭和歌謡を聞けば、そこに私の青春がよみがえるの。 だから、昭和人…
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2023年11月の記事一覧

私の昭和歌謡62 君をのせて 1971

私の昭和歌謡62 君をのせて 1971

夜の海渡る舟人君をのせ夢もむなしいこの世界

ジュリーーーーー!!と叫んだ樹木希林さんも亡くなった。
ああ、昭和は本当に遠くなってしまった。

タイガース時代はアイドルだったから、ジュリーが結婚なんてことになったら大騒ぎだったろう。でも、ソロになってから、ピーナッツの伊藤エミさんと結婚して、だいぶ経って、女優の田中裕子さんと再婚した。

もうその頃は、憧れのジュリーではなく、十分な歌唱力と演技力の

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私の昭和歌謡61  津軽海峡・冬景色 1977

私の昭和歌謡61  津軽海峡・冬景色 1977

19歳。津軽海峡・冬景色演歌も変わるさゆりの歌で

石川さゆりは、花の中三トリオ、森昌子・山口百恵・桜田淳子の影に隠れて、なかなか人気が出なかった。

あきらめず、二葉百合子のもとで基礎から学び直している。民謡や日舞などもこの時期に身につけたという。

私は、この時期のさゆりちゃんは、すごい胆力だと思う。はっきり言って、花の中三トリオより顔も歌もはるかに優れていた。

それが、売れなかったからとは

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私の昭和歌謡60  旅の宿 1972

私の昭和歌謡60  旅の宿 1972

湯上がりに浴衣の君はと歌われて胸ときめかす昭和の女

私は吉田拓郎が人気の頃は、ほとんど彼に興味がなかった。ボブ・ディランの音楽に興味がないのと同じ理由だ。

中学3年生のとき、PPM(ピーター、ポール&マリー)のカバーグループを作ってミニコンサートをやった。

募ったグループが、レッドツェッペリンをやった時は、「下手だなぁ。もっとシャウトしろよ」と思ったりした。

でも、吉田拓郎の「旅の宿」を弾

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私の昭和歌謡59  風 1969

私の昭和歌謡59  風 1969

アイドルの笑顔はなかく消えてゆくコントラバスの鼓動と共に

シューベルツの「風」の話になると、

「加藤和彦は負けた、このメロディーにはまいった、と思っただろうなぁ」

と、主人はいつも言う。

そりゃあ、売れるってことならね。私は加藤和彦のメロウな旋律とギターが好きだ。歌声喫茶で歌うような、こんな歌ww

とはいえ、テレビに登場すると一緒に歌った。はしだのりひこの舌ったらずの歌い方が嫌いだった。

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私の昭和歌謡58   心の旅  1973

私の昭和歌謡58  心の旅 1973

今夜だけ明日の朝には汽車の中愛の終わりは心の旅へ

17歳。この歌に一目惚れ。

たぶん、🎵ああ、と歌った後、🎵だからこんやだけはー(ドドレミソラシドシー )と、限りなくオクターブ上がっていくメロディーに胸を貫かれたんだと思う。

次に、ヴォーカルの甘い声と、それにかぶせるハモリのコーラスが何ともオシャレだった。

主旋は、財津和夫じゃなく、甘い声の姫野達也だった。ナイスチョイスww

小中学

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私の昭和歌謡57   関白宣言 1979

私の昭和歌謡57  関白宣言 1979

雨宿り関白宣言失脚と日本の愛のかたちをうたう

私の主人は、19歳で同級生と “呼び屋”を立ちあげて、地域のホールにタレントを呼んでいた。

さだまさしは呼んだことがない。彼は自前のさだ企画だったので、少々面倒だったのだ。当時はプロモーション活動なのだ。

オペラ3万円チケットなのに、コンサートは三千円。
満員だとしてもコンサートは儲からない。これが結論だ。

さて、主人は、さだまさしが嫌いだ。歌

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私の昭和歌謡56   心もよう 1970

私の昭和歌謡56 心もよう 1970

青いペン白い便箋用意して相手のいない恋文綴る

私のラジカセ好きは、中学生からずっと続いている。

今はCDもなくなって配信の時代。すごい進歩だ。
形のない曲だけがすぐに聴ける。買える。
お気に入りのプレイリストをPCやスマホに作れる。

でも。私はラジカセが好きなんです。笑ってください。

中学生までは、叔母のレコードを聴かせてもらったり、近くのレコード店で、「これ、かけて‼️」と頼んで、どうに

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私の昭和歌謡55 ちょっとお茶でもw  ゴジラ-1.0に怒り狂う主人の話

私の昭和歌謡55 ちょっとお茶でもw ゴジラ-1.0に怒り狂う主人の話

七十年。昭和・平成・令和へと絶好調のゴジラの人気

ずっと昭和歌謡の連載をしてきたので、今回は、ちょっとお茶でも飲んで語りましょうか。

週末、IMAXシアターで「ゴジラ-1.0」を観た。
主人の運転で片道50分。

「ゴジラ-1.0」を映画館で観ようと主人が考えて、主人が予約をした。いつも、相談はないw

映画館のあるモールで食事をする。いつも、さぼてん!主人は迷わないw
その後、有隣堂で本を見

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私の昭和歌謡54 鉄腕アトム 1963

私の昭和歌謡54 鉄腕アトム 1963

憧れのアトムの時代今となり人の劣化を日々日々思ふ

わが町内の、わが組のこと。

私が嫁いだとき15軒ほどだったのが、今は7軒。3軒は数年前に代替わりで若い夫婦になった。

町内の役と商店会の役は、嫁の私がやっている。

それが、わが夫の配慮だと思ってあげることにした。ホントは会合とか嫌いなんだ。わかってる。でも、やればできる(なんか息子に言ってるみたいw)ってわかっている。

毎年、納会をやって

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私の昭和歌謡53 世界の国からこんにちは 1967

私の昭和歌謡53 世界の国からこんにちは 1967

こんにちは元気な日本はどこへやら涙にむせぶ太陽の塔

大阪万博1970年。私は中学2年生。
祖父に連れられて万博へ行った。

祖父、叔母、従兄弟、私、妹。
この小旅行は、家族と一緒の安心感と、父母がいない開放感で、かなりのアドレナリンが出ていた。

この旅行で、私は祖父という人間を少し知った。

まず祖父は旅行へ行く時、財布しか持たない。行った先で下着を買う。これが発覚したのは(叔母は知っていた)

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私の昭和歌謡52 戦争を知らない子供たち 1970

私の昭和歌謡52 戦争を知らない子供たち 1970

戦争を知らない子供も今はもう戦争知らない老人の群れ

これは北山修が詩を書いて、加藤和彦に曲をつけてもらおうと渡して断られた歌。結局、杉田二郎が曲をつけて、大阪万博ホールのコンサートで歌って、それから杉田二郎がずっと歌い続けている。

北山修77歳。杉田二郎76歳。

🎵 若すぎるからと 許されないなら
髪も毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ 🎵

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私の昭和歌謡51 スーダラ節 1961

私の昭和歌謡51 スーダラ節 1961

お呼びでない?こりゃまた失礼くり返す傍若無人な無責任男

植木等は、昭和人をものすごく楽しませてくれた男だ。

当時のポスターを眺めるだけで、無責任男のお茶目ぶりが伝わってくるはずだ。ポスターの彼は、いつも豪快に笑っている。

真っ白い歯がガバッと開いた口から輝いている。皆がうなづき、納得してしまう申し分ない笑顔だ。

クレイジーキャッツが出演する「シャボン玉ホリデー」は、すごく楽しみだった。

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私の昭和歌謡50 こまっちゃうナ 1966 

私の昭和歌謡50 こまっちゃうナ 1966 

15歳こまっちゃうナで大ヒット第2次ブームはアクション歌謡

かわいい!
🎵こまっちゃうナーァ デイトにさそわれてー
どおっしようおーォ まだまだ早いかしーら🎵

この歌のメロディーは、さすがの遠藤実だ。作詞もだから、一体感といったら、驚くほど。そして、このはじまりのフレーズを歌うのが大好きだった私。10歳。おしゃまさん。

「こまっちゃう」という日本語のイントネーションがそのまま生かされてい

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