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私の昭和歌謡53 世界の国からこんにちは 1967

こんにちは元気な日本はどこへやら涙にむせぶ太陽の塔


大阪万博1970年。私は中学2年生。
祖父に連れられて万博へ行った。

祖父、叔母、従兄弟、私、妹。
この小旅行は、家族と一緒の安心感と、父母がいない開放感で、かなりのアドレナリンが出ていた。

この旅行で、私は祖父という人間を少し知った。

まず祖父は旅行へ行く時、財布しか持たない。行った先で下着を買う。これが発覚したのは(叔母は知っていた)そごうデパートだった。

祖父はパンツやトランクスなどをはかない。サルマタなのだ。(これもこの時知った)そのサルマタが、置いていなかった。

祖父は不機嫌に「天下のそごうがなんじゃい!猿股を置いてないとは。」と言って、歩き去った。私たちはついていった。
(あとで叔母が、どこからかゲットしたらしい。)

その後、喫茶店に入った。今と違って、マクドナルドもスターバックスも、そういうのは全くない。コーヒー紅茶は、喫茶店なのだ。そしてその喫茶店は子供は入ってはいけない場所だった。

そこで、祖父は、皆に「何にする?」など聞かないw
(私のダンナも聞かないところが昔の男だ)

コーヒーが皆に配られると、自分のにはクリームを断り、叔母と子供達には多めに入れるように言った。

そして飲み方のレクチャーが始まった。
砂糖は入れなくてはいけないらしいww そして、砂糖を入れてかき混ぜたスプーンはカップの向こう側に置いて、ソーサーを持って飲むのだ。

以来、私はこの飲み方が染み付いていて、若い頃は大変に窮屈だった。だから、結婚して初めて、コーヒーを楽しみ開放感を味わった。大きなマグカップで、砂糖抜きで牛乳を入れて飲んでいる。

この2つが万博の思い出だ。悲しいけれど、重要な中身の思い出は全くない。ごめんなさい、おじいちゃん。

さて、テーマ曲の「世界の国からこんにちは」はテレビで大宣伝のように流れた。こんな元気な歌に乗って、1970年の万博は活気あふれていた。

2023年の今思えばです。中学生にわかるはずもない。
それが、今回の万博の噂は「いったい開催できるのか?」である。

きっとこの数十年間の不況のせいだ。こんなに続いたら、さすがに元気な日本の面影も浮かばない。

1970大阪万博のテーマ
「世界の国からこんにちは」
「こんにちは」という挨拶、呼びかけをしつこいほどに繰り返す。

1番
三波春夫が「こんにちは」と歌うと、子供達が「こんにちは」と歌う。
だから、私は三波春夫のヴァージョンが好きだ。

2番
ちょっと広がる世界は三波さんだけで歌う。

3番
また子供との応答が聞こえる。ますます子どもの声が愛おしく感じる。

歌詞は10年ぐらい前に亡くなった詩人島田陽子さんのもの。私はこの詩しか知らない。でもこの一つだって、記念すべき1970万博のテーマ曲として残されれば立派なものだ。

彼女は1番から3番を🎵 握手をしよう 🎵という言葉でしめくくっている。

中学生の私はもちろん握手は知っていたけれど、自分がしたことは一度もなかった。大人になってからは、政治家の街頭演説に近づくと向こうから握手してきた。だから、私にとっては握手は未だ普通の常識ではない。

握手をしようっていうイベントなんだ。
これはもう、大変なイベントだと思っていた。

「上を向いて歩こう」の作曲者、中村八大のメロディーはシンプルだ。
2025万博も、この曲をリメイクするだけでいいのに、と思う。

日本人は、元気がいい、活気があるものは、昭和に置いてきてしまったんだな。

太陽の塔がむせび泣いてる。


2025万博キャラでいじくってみた


【参考資料】




【前回記事】


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