見出し画像

#40【劇評・絶賛】猿若祭二月大歌舞伎・夜の部(後編)

毎日寒いですがお変わりなくお過ごしでしょうか。
前も書きましたがくらたは寒いのが大嫌いです。どれだけ暑い時でも冬を恋しく思ったことは一度もありません。冬早く終われ。
とうとう日付をまたがずに更新できたかと思ったら、0:00とな……!!!ガーン!!まあいいや。またいだ時間は限りなく圧縮できましたから。

今回は中編はなく、この後編でおわりです。

連獅子

「今月のメイン」の重圧

今月のすべての演目の中で一番の注目は、なんといっても中村長三郎丈の初役・仔獅子でしょう!親獅子が勘九郎さん、狂言は橋之助さんに歌昇さん。
イヤホンガイドの特別対談の中で勘九郎さんが「勘太郎が仔獅子を演じた時は僕も親獅子初役だったんですけど、誰も観ていないの。みんな仔獅子を見ている」と笑い話でおっしゃっていましたが、さもそうずさもありなん。

これだけの期待を背負うのですから、歌舞伎役者の家に生まれるというのは、華やかでありながらも、大変な重圧が伴います。

後日また書こうと思っていますが、舞台『中村仲蔵』では、歌舞伎における血筋を頂点としたヒエラルキー構造や、楽屋での「なぶり」(パワハラ・セクハラ)などがシビアに描かれています。もし現実に今あるのならば、ハラスメントは正していく必要があるとくらたも思います。
また仲蔵が背中で示したとおり血筋でない役者が名題に昇進していくことは実際にあり、くらたが鶴松さんについてくどくどと語ったように観る者の心を打つエンタテイメントであることも事実です。
ただ、だからと言って「血筋なんて古臭い」とけなすこともまた極端なことだと思います。生まれた時から芸術性の高いものに囲まれて、舞台上では幼少期から厳しくしつけられ観客の目にさらされ、舞台の外では蝶よ花よと大切にされる、そういう特殊な環境でしか育たない無垢な芸術性は確かにあると感じています。

毎度おなじみ内田樹先生からの引用。失われたイノセンスは決して回復しません。だからこそ、取り扱い注意なものとして丁重に扱う必要があるとくらたも思います。

「このようなひどいものを二度と書くな。もう筆を折れ」と天に代わって筆誅を加えることが日本文化のためだと、刺すような評言を弄する人もいる。理屈は正しい。でも、その評言が適切なものであった場合でも、書き手が受ける傷は深い。それによって、その書き手はそれ以後ある種の主題を忌避するようになったり、ある種の文体を使えなくなり、何よりも、ある種のイノセンスを失う。

内田樹の研究室『(あまり)書評を書かない理由』2020/10/9

連獅子ってなんだ?

遅くなりました、連獅子とはどのような演目か、チラシから引用します。

【連獅子】大切に受け継がれてきた舞踊の大作
 文殊菩薩が住む、霊地清涼山。その麓の石橋に、狂言師の右近と左近が手獅子を携えて現れます。石橋の由来や、文殊菩薩の使いである霊獣の獅子は仔獅子を谷底へ蹴落とし、自力で這い上がってきた子だけを育てるという故事を踊って見せます。やがて満開の牡丹の花に戯れ遊ぶと、親獅子の精と仔獅子の精が現れ…。
 能の「石橋」をもとにした長唄の人気舞踊。前半は、厳しくも温かい親獅子の情愛や谷を這い上がる仔獅子の懸命さ、そして試練を乗り越えた喜びを分かち合う様子が描かれます。後半では、獅子の親子の勇壮な毛振りを披露します。中村屋が大切に演じてきた舞踊の名作にご期待ください。

猿若祭二月大歌舞伎チラシから引用

親獅子と仔獅子の舞踊劇。獅子は百獣の王、牡丹は百花の王でよく取り合わせられるそうです。獅子は文殊菩薩を乗せる獣でもあります。イメージの連想が何重にも連なって、奥行きがあって美しいです。

途中、静寂の中太鼓が「トントン」と鳴らして、鼓が間を置いてから「カーン」と鳴らす場面があったのですが、これは谷の上の牡丹の雨露が、「トントン」とはねて、谷底に「カーン」と落ちる場面を表現しているのだそうです。なんて繊細なんだ!!言われなきゃわからないけど言われたら確かにそう!イヤホンガイドはマストアイテムです。

よく一門の父と子で演じられる、大切な通過儀礼的な演目です。市川猿之助さん・團子さん、中村勘九郎さん・勘太郎さん、尾上菊之助さん・丑之助さんと、近年よく演じられています。團十郎さんと新之助さんはやったのかしら、くらたは歌舞伎ファンで卒論では外郎売までとりあげたくせに團十郎家には疎くて……すみません。
なお、今回の拵えは、中村屋の銀杏紋にちなんだうすい黄色の着付け。袴は深草色で裏地がきれいなレモンイエローでした。手元にあるブロマイドを見ると(歌舞伎ブロマイド収集もくらたの趣味)、勘太郎さんのときも同じ。いっぽう、市川猿之助さん・團子さんのときはまた違った拵えでした。お家によって異なるのですね。

I can't stop this feeling ! 再び

長三郎さんの踊りは、勢いがあって元気いっぱい。打点をしっかり打ち、キレがいい。所作台をしっかり踏んで、いい音が鳴ります。獣を表す鋭い動きも素晴らしい。
なんと立派!すばらしい!がんばれ!!!

前回も書きましたが、初めて大役を任された役者に大向こうがかかる、この場面は本当に感動的です。勘太郎さん・長三郎さんはよちよち歩きの時から舞台に出ていますから、大向こうがかかることは初めてではありません。
しかし、連獅子ですよ、一人前の歌舞伎役者への第一歩ですよ。
仔獅子の拵えで花道七三で毛振り―巴という振り方だそうです―しっかりと厳しい表情で目をつむり立派に毛を振っている…!
あの、密着ドキュメントでいつもひょうきんでかわいらしい長三郎さんが、七之助が初役・乳母政岡だった『伽羅先代萩』の鶴千代役で舞台上で居眠りをした長三郎さんが!!!
これはいけません、涙腺崩壊です。
心なしか、大向こうさんもちょっと感極まったようなかすれ声。
よけい泣けるじゃないか。

勘九郎さんの厳しく温かい親獅子

くらたのPC、親獅子と打つと「おやじ氏」と出る……「勘九郎さんの厳しく温かいおやじ氏」って、あながち間違ってない。ぷぷ。

失礼しました。
親子そろっての毛振りも見ごたえがありました。最初はちゃんとそろって、長三郎さんがよく付いて行っているなあという感じだったのですが、途中から勘九郎さんのスピードがギュインと上がって長三郎さんを置き去りにしました。なんという圧倒的パフォーマンス!!

故・勘三郎さんと若かりし日の七之助さんが演じた時の映像をテレビで見ましたが、そのときもうまく毛振りができない七之助さんを、勘三郎さんは厳しく置き去りにしました。七之助さんはそのころ舞台に立つことに迷いがあったような文脈だったと思います。それに対する勘三郎さんの残酷なまでの厳しさが印象に残っています。
しかし、今回の勘九郎さんと長三郎さんの連獅子では、確かに勘九郎さんは長三郎さんを置き去りにはしますが、残酷さは全く感じられず、むしろ温かい印象を受けました。

イヤホンガイドで勘九郎さんが、「父の舞台に間に合わなかった方のためにも魂を込めて演じる」とおっしゃっていました。その「魂」は、もちろん随所に現れていましたが、この圧倒的パフォーマンスにいちばん象徴されている気がしました。

シロート観客は同年代の役者が好き

狂言部分は昔はよく寝ちゃってたのですが(すみません!)、最近若手が演じるようになって面白く観られるようになりました。狂言の場面は古式ゆかしい形式に則って演じられるので、それを若手役者が演じているのを見ると「これぞ芸の継承だなあ」と思うのですよね。
くらたが、自分は永遠にシロート観客だなあと思うのは、そうやって若手役者に関心を惹かれることです。若い人が研鑽の途上にある我が身をさらす、その健気さと未来に開かれた可能性に心を惹かれます
くらたは、主に中村屋(勘九郎さん・七之助さん・鶴松さん)と澤瀉屋(猿之助さん・團子さん)推しです。しかし、やはり本物の通の方々にとっては、この面々はまだまだ若手。その域にはまだまだ遠く及びません。

インタースコアについて

イヤホンガイドで七之助さんは、「お客様への感謝の気持ちをお返ししたい」とおっしゃっていました。なんじゃいな、こちらはすばらしいパフォーマンスを見せていただいて、拍手したり応援したりさせていただいているのに、演者さんも「お返ししたい」とは。
くらたが中村屋さんを好きなのは、故・勘三郎さんが大事にされた観客との関係の在り方を、勘九郎さん・七之助さんも大切に受け継いでいらっしゃるからです。若かりし頃の七之助さんが親友・松本潤さんのファンあしらいの真似をしたら勘三郎さんに「松本さんには松本さんの流儀があるだろう、でもお前は歌舞伎役者だ。」とこっぴどく叱られた、と以前テレビで語っていらっしゃいました。ここに書いていて改めて思いましたが、くらた中村屋のテレビすごい観てる。そしてそのすべてくらたの記憶でありソースが示せない……すみません。

なんというか、これは先日態度の悪いおっさんのエピソードとともに書いた「インタースコア」の話だなあと思いました。

宇多丸さんのラジオ「アフター6ジャンクション」で藤村シシンさんが出演されたとき、他者同士が影響を与え合ってよりよいクリエイティビティが発揮される場面を「生態系がグルングルンに回っている」という表現をしたことがありました(宇内アナの登場曜日で、高校演劇「されど、ブヨは尻で鳴く。」に関するリスナーメールが来た話のとき……もう音源も情報も残っておらず、ソースがワヤワヤですみません)。宇多丸さんは同じことを「高速増殖炉」と呼んでいました

我らが内田樹先生も同じようなことを書いておられます。

おそらく、人間の知的能力というのは、なにかを「けなす」時に活性化するのであろう。
しかし、その反対の、なにかを「たたえる」時にもそれなりに知的能力が活性化するということはあまり知られていない。
(略)
芸術家も哲学者も「ほめられると舞い上がり、けなされるといじける」という点において凡夫に少しも変らない。
そして、私たちが彼らに求める唯一のことは、彼らがその才能を最大限度まで開花させ、それによって私たちの世界に少しでも多くの美と知恵と愉悦とをもたらすことである。

だとすれば、どうしてクリエイターたちを「ほめまくり、それによって世界を豊かにする」という戦略を批評家たちが回避するのか、私は訝しむのである。
(略)
私はほめたたえることを通じてクリエイターを勇気づけ、その生産性を高めることは批評家としての重要な仕事のひとつだと思っているのだが、共感して下さる方はあまりいない。

内田樹の研究室『ヨイショ批評宣言』2005/1/31

ようするに、褒めたり称えたり拍手したり応援したりすることによって、先方は才能を最大限度まで開花させ、世界に美と知恵と愉悦をもたらしてくださる。「グルングルンに回る生態系」といい、「インタースコア(相互記譜)」といい、世の知的先達はなんとみんなおなじことをおっしゃっているのです。
さらにウチダ先生によれば、ほめた者の知的能力まで賦活されるとな……!

くらたのやってることは間違いじゃなかった!
これからも、どんどん他者を褒めて、生態系を回して、インタースコアして、自分の知的能力を賦活しよう!と思ったのでした。
みなさまもよろしければ、ぜひ。


この記事が参加している募集

沼落ちnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?