潮時
吉本ばななが昨日、このふた文字の漢字のタイトルのnoteをあげていた。
私は有料会員じゃないから、最初の一節ぐらいしか読めていないけれど。
“潮時”
ここ最近の私の心の中にあった、言葉で表し難い侘しさはここから来ていたのかと何故かふと、ビビッときて、急に綴り始めたのが今である。
夏の終わりが近づいてきて、次の季節に向けて夏の果物はしなり始め、木々の葉も花も色を変えつつある。
夏の初めから1ヶ月と半分ほどを日本の南国、沖縄の離島で住み込みで働いて、今は大分県の別府市で温泉に入りながら夏の疲れを癒しているところだ。
ヤモリの鳴き声や潮の満ち引きの仕組みさえろくに知らなかった私が。
内地から来た人間だ、と一目で分かってしまうような肌の白さと無駄に小綺麗に装おっていた着衣、耳元で虫の羽の音がブーンと聞こえればたちまち悲鳴を上げながら走っていったこの私が。
今ではまるで違う人間を見るかのように、その時の自分を振り返る。
肌の焼け具合を潮の満ち引きで表すとしたら、間違いなく満潮というところだろう。等しく、私の心も様々な人との出会いで今、大いに満たされている。
ただ、甲元ヒロトに「答えはきっと奥の方、心のずっーと奥の方」と訴えかけられてしまったら、満たされている表面の奥は乾き切っている、干潮だ。と答えてしまうかもしれない。
「私たち、そろそろ潮時じゃない」
このセリフはいたるドラマのワンシーンで使いまわされてきたセリフで、幾度となく耳にしてきた。
だが私たちはそのセリフのせいで”潮時”という言葉の本当の意味を履き違えてしまっているのかもしれない。
そこで”潮時”の本当の意味を知るべくWikipedia様の知恵を拝借させてもらう。
やはり、勘違いしていた。
“潮時”って、「終わり」とか「引き際」の意味で用いるものだとばかり思っていた。
ただ、逆で考えると、ちょうどいい時期や転機や好機、いわいるチャンスというものは何かの「終わり」の時によく現れるモノだと感じる。
「おわりははじまりの始まり」逆も然りで、
「はじまりはおわりの始まり」
人々は知らない間にこのふたつを繰り返しながら生きているんだと感じる。
この夏の私はどちらかでいえば、
「おわりははじまりの始まり」な、気がしている。
今にも割れて砕け落ちてしまいそうな瓶に花を差したって、瓶のことばかりが気掛かりで花の美しさに魅入る事ができない。
瓶が割れてしまえば、花は水を失って、すぐに枯れ死んでしまう。その死体をドライフラワーとしてなんの疑念も無く部屋に飾る人もいるだろうが私はまだ、潤った水分を保ったままの花を見ていたいと思うのだ。
住み込みで働かせていただいてた宿屋の人たちや島の人たちとの別れ、ヤモリの鳴き声さえ知らなかった自分との別れ、元恋人との別れ
別れがあるだけ、何故か強くなった気持ちになる。そしてそれはあながち間違いじゃなくて、現に強くなっていくんだと思う。
今の私はきっと、相当タフだ。
嗚呼そうか。「私たちそろそろ潮時かもね」というセリフを1番最初に作った人は、もしかして、うんと深い意味で書いたのかもしれないね。
相手を応援する気持ちだったり、言葉以上の愛が込められているのかもしれない。
旅をする前の私は、割れそうな花瓶に「どう応急処置をしよう」「どうしよう、どうしよう」とばかり思っていた。
だけど、もうそんな迷いも無用だ。
今、おわりがはじまりのチャイムを鳴らしてくれている。
次の、はじまりのおわりまで、このタフな気持ちのまま突き進んでいけばきっと大丈夫だろう。
そしてこのまま旅をし続けてみよう。
そうしたらもしかしたら、いつかきっと、ふいに
とても頑丈な花瓶に出会えるかもしれないからね
愛を込めて
「私たち、ちょうど潮時だね」
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