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ブロークン・フラワーズ:存在の耐えられないアンニュイさと、5人の個性的な女性

ブロークン・フラワーズ:存在の耐えられないアンニュイさと、5人の個性的な女性

ビル・マーレイの『ブロークン・フラワーズ』(2005, Broken Flowers)。これはジム・ジャームッシュ監督の映画なのだが、ビル・マーレイが出ていると、なんだかビル・マーレイの映画になってしまう、といま書いて気づいた。かれはこの映画での演技が完璧だったので、引退しようかと思ったほどだという。

本当はこれは、ジャームッシュのもともとの作風と、ビル・マーレイという存在が、ぴったりマッチして

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恋人よ帰れ、わが胸に:あくどい世間に利用されていたお人好しが、スーパーマンになるとき

恋人よ帰れ、わが胸に:あくどい世間に利用されていたお人好しが、スーパーマンになるとき

今年の1月から2月にかけて、シネマテーク・フランセーズでビリー・ワイルダー監督の特集をしていたので、別の特集の合間を縫って、ちょいちょい見に行っていた。

ワイルダーは、バディ・ムーヴィー、つまり男性二人の対照的なコンビの映画を、よく撮った。男性と女性の関係の話も、いろいろヴァリエーションがあって面白いが、今日はバディ・ムーヴィーの話。

そのひとつである、『恋人よ帰れ!この胸に』(The For

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恋はデジャ・ブ:自分の箱から出るための方法

恋はデジャ・ブ:自分の箱から出るための方法

フランスのユーゴ・ゲランHugo Gélinという若い映画監督が、影響されたといっていたので、ハロルド・ライミス監督の1993年の映画『恋はデジャ・ブ』(Groundhog Day) を観た。

2月2日の、日本でいえば啓蟄、節分は、アメリカではグラウンドホッグ・デイという。グラウンドホッグつまりウッドチャックは、マーモットの一種、まあネズミかモグラみたいな動物である。2月2日にグラウンドホッグが

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ジェーン・フォンダと5人の男たち

ジェーン・フォンダと5人の男たち

英国映画協会(BFI, British Film Institute)のイベントで、ジェーン・フォンダ本人のトーク。本人がくるというので、行ってみたいと思っていたが、このイベントはずいぶん前から、売り切れだった。しかし、当日別のチケットを買うためBFIのサイトへ行くと、急に1席空いていたので、速攻で取った。誰かがキャンセルした席なのだろう。ラッキー。

女優ジェーン・フォンダのことは、いろいろに説

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ある女流作家の罪と罰:他人のアイデンティティをまとっていますが、何か?

ある女流作家の罪と罰:他人のアイデンティティをまとっていますが、何か?

『ある女流作家の罪と罰』(Can you ever forgive me?)のポスターを、よく見かけるようになった。最近ロンドンの映画館で、一般公開されるようになったのだ。この映画は、ロンドン・フィルム・フェスティバルの、目玉作品のひとつだった。

フィルム・フェスティバルの映画は、なんとなく選んで観ても、どれも驚くような面白さだったが、特別な余興(headline gala)であったこの映画は、

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グリーンブック:自分は黒人っぽくも白人っぽくもない。自分は何者なんだろう?

グリーンブック:自分は黒人っぽくも白人っぽくもない。自分は何者なんだろう?

三歳のときすでに教会でピアノを弾いていたという、ドン・シャーリー。世間は黒人のピアニストを受け入れる準備ができていない、と言われ、コンサートピアニストになることを、あきらめた。

いやいやながら、ナイトクラブのジャズ・ピアニストになった。

シャーリーは深い文学的教養と博士号をもつ天才で、ハイソで誇り高い人間だった。実話である。

1962年、ライブツアーをしたシャーリーは、白人の運転手をやとった

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運び屋:八十八歳のクリント・イーストウッドの、自分の物語の再創造

運び屋:八十八歳のクリント・イーストウッドの、自分の物語の再創造

パリにいたときそのポスターを、よだれが出そうになりながらながめていたイーストウッドの『運び屋』を、ついに観にいくことができた。アメリカ映画ならロンドンでも観ることができるからと、ガマンしていたのだ。名作『グラン・トリノ』と同じ脚本家の作品で、レオ・シャープという実在の人物の話を、脚色したものだ。

とはいえ、この映画の場合、実話がどのように脚色されているかと考えたり比較したりすることには、ほとんど

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Mid 90's:スマホのかわりにスケボーとヒップホップがあった頃

Mid 90's:スマホのかわりにスケボーとヒップホップがあった頃

コメディアンというのはだいたい、じつはシリアスなひとが多い。人間の性格は複雑であるので、どういうひとがコミックでどういうひとがシリアスなのかということを、二分できるわけではないのだが。

ひとを笑わせるという行為は、究極の演技であるから、頭を使わなければできない。チャップリンのように、道化の演技そのものによって、人間性のペーソスやモラルを最大限に表現していれば、芸術表現の魂はそこに円熟していくだろ

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