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言の葉

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これまでに投稿した作品のなかから、一部を抜粋してまとめています。ときどき更新するので、よかったらのぞいてみてください。
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#散文詩

子どもを産んではいけない


一 出産というものに初めて違和感を覚えたのは、私が中学生の頃でした。あなたが産まれたときです。

 風が吹けば田んぼに緑の波が立ち、昼間は蝉の声が、夜はクビキリギスの声がする、そんな夏のことです。当時二十代後半だった叔母が、元気な赤ちゃんを、あなたを産み、私の家にやってきたんです。

 あなたを抱く叔母と、その隣に立つ旦那さん、叔母より一回り年上の私の父、そして母。大人たちはみんな破顔していまし

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べったり

 詰まりかけのシンクが、流れていかない薄い水が言うんです。何かを見ようとしている目、その目の焦点は合わないものだと。曖昧な視線だけがその何かを見ようとしていると。まっすぐな目玉に何も感じないのは、その目が恣意と概念と乱交しているから。それを見せびらかしながらも平気でいるから。虚ろに輝く、色のべったりと塗られた瞳だけが何かを映そうとしている。だから震えるくらい、そうした目に指を入れたくなるんだって。

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真実

 真実はその一切を簒奪された。今や目玉の好みが真実を騙り、可能性の半身が影武者として真実を演じている。死を逃れた真実は流浪の身となった。同じように流れている肉の目に真実は映らない。仮に真実がその名を訊かれ、本当の音を口にしようものなら、せせら笑いと嘘つきが響く。怒声が石という衛兵を駆り立てるだろう。偽りの君主による圧政。こぶしに残っていたわずかな自由さえ、完全に奪われてしまった。けれど肉は気づかな

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恵風

 凍っていた土がほどけ、雨は絡まるようになり、自然の体臭を、大気は風で絡げ始めた。
 においと一緒に運ばれていく意識は、どこまでも遠くへと流れていく。
 孤独は切符だ。
 あの、弱くて強い風に乗るための。
 肉体を阻むこの無限の距離でさえ、孤独を破ることはできない。
 踏みにじられては転がっていく、淡くて小さな花びらと共に。
 足では決して向かうことのできない、あの深い緑と大木の根元まで。
 大気

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 目を閉じて、街をさまよっていた。こう言うと人は嗤うが、確かに歩き回っていたのだ。足は街であり、腕は空であった。星は薄い布団をかけて、まばたきすることなく眠っていた。雨のにおいがした。雨。濡れたいと思いながら、靴底をぐちゅぐちゅ言わせていたが、しずくが落ちてくることはなかった。月が遠くで布団を濡らしていた。人々はうつむいていた。あるいは光る手元を見つめていた。喋っていた。誰も彼も、足が速かった。私

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 頭のなかに、影という名の雪が降り積もっていた。真っ白い三つの音が。そう、影の音は三つ。二つではない。だが最初は知らなかった。私は二つの音で呼んでいた。時間は過ぎていった。次第に影は、土と小石と混ざり合い、濁り、その形を失っていった。私は影を呼んだ。だが影は答えなかった。答えぬまま、頭のなかの地面と一つになっていった。のどから確かに声は出た。だが腕は伸びなかった。伸ばせなかったのだ。そんな私に向か

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所有

 一切には、眼前の存在すべてには、悲しみの色がこんなにも濃くへばりついている。どれほど腕を伸ばし、指を絡ませようとも、あらゆるものは消失していく。瞬間瞬間存在は、孕んだ死を産み落とし、この目玉に見せつけてくる。そのまみれた体液の滴る音は、地獄の響きそのもので、空も水も草木も肉も、振りほどけない滅びのにおいをまとっている。消えていくからこそ、なくなってしまうからこそ美しいんだとはどうしても言えない。

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お話

 ずっと疑問だった。なぜ人は、僕と話してくれないんだろうって。逆にどうして空は、月は、草は、雨は、犬は、鳥は、蚊は、宵は、石は、いつまでもいつまでも、眠っているときでさえ、話しかけてくるんだろうって。もう何年も感じ続けて、夜、暗闇のなかであの死を、あのすべての滅びを、絶対的なものを強烈に意識させられたとき、やっと分かった。僕は人間ではないんだと。そうではなくて、空で、月で、草で、雨で、犬で、鳥で、

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トマト仕事

 青いトマトを、赤く熟させる仕事をしていた。

 手にしたトマトは硬くって、指が青ざめるほどひんやりとしていた。それを地面に落とし、拾い上げてはまた落とす。砂や緑やコンクリートに触れた部分は、少しずつ少しずつ、色の温度が上がっては、まぶしくやわやわになっていく。

 あっちのもお願いと言われて、やせた水の流れに肌を浸し、両手で持ち上げれば、今にも形がなくなってしまうんじゃないかってほど、ぶよぶよに

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