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言の葉

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これまでに投稿した作品のなかから、一部を抜粋してまとめています。ときどき更新するので、よかったらのぞいてみてください。
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2019年9月の記事一覧

二人、滑っていく星の下で

 目が合えば、スーツを着た女の人は足早に去っていった。雨足が強くなっていく。公園の芝は水を吸い、街灯の白い光で淡くきらめいていた。ベンチに腰掛けたまま上げていた顔を下ろしたら、胸がひざにくっついて。重たい頭。こみ上げてくる胃液。また吐いた。吐いて、雨に濡れた手の甲で口元を拭えば、肌がぬるり。口からアルコールが蒸発していくような気がした。

 ちらつく。こずえの下に溶けていった黒い背中が。彼女の手に

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子どもを産んではいけない


一 出産というものに初めて違和感を覚えたのは、私が中学生の頃でした。あなたが産まれたときです。

 風が吹けば田んぼに緑の波が立ち、昼間は蝉の声が、夜はクビキリギスの声がする、そんな夏のことです。当時二十代後半だった叔母が、元気な赤ちゃんを、あなたを産み、私の家にやってきたんです。

 あなたを抱く叔母と、その隣に立つ旦那さん、叔母より一回り年上の私の父、そして母。大人たちはみんな破顔していまし

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君の小説が読みたい

 一度だけ、同人誌に小説を載せたことがある。

 主語を取り除き、比喩は用いず、心理描写も物語性も捨てて、主人公の言動と情景、あるいは光景だけで綴った、ひとひらの掌編。それが、同人誌文学賞という、地方の小さな賞に選ばれた。選ばれたといっても、審査員特別賞だから、賞金は出ない。文芸誌に掲載されるわけでもない。ただのおまけ。これからも励んでくださいという意味合いしかない。

 一人のおじいちゃんに気に

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ゆきえのうた

 縁側に立てば、歌声が響いてきました。地面に刺さった朝日のあいだを縫っていく、歌詞のない、ラで満ちた歌。高く澄んでいて。小鳥の鳴き声と、きれいに混ざり合っています。

 となりの家に目をやれば、庭先に幼い女の子が立っていました。クリーム色のパジャマは薄く、足元は水色のサンダルで。冷たい風がひゅうひゅう吹けば、生け垣といっしょに、その長い髪が揺れました。光を吸った髪の毛は、きらきら薄赤くて。

 か

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青女

 花柄の傘を閉じれば、雪がさらさら散らばって。あずまやのベンチに腰かければ、食い込んでくる木の冷たさ。息をそっと吐き出せば、宵を照らす街灯の光に撫で回されて。真っ白に。深雪に落とした足跡が、ふらりふらりと続いています。

 目を伏せれば、コートの上を、大粒の雪が滑っていって。足元にこぼれて、溜まる雪白。凍った音が聞こえてきます。しんしんしんしん、鳴っています。裸の枝から白銀が散れば、重い音。

 

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希望なんて持っちゃだめ

「希望を持て」

 病院のベッドでおじさんに手を握られたとき、わたしは心のなかで舌打ちしました。この人も結局、ほかの人と同じなんだって。

 希望という絵の具で、現実を塗りたくるよう強いてくる大人たち。目の前にあるものを汚すよう諭してくる大人たち。なぜ。どうして。わたしにとってあるのはただ、この一瞬だけ。今、この瞳に映っているものだけ。それがすべてなのに、なのにどうして、前向きに物事を考えろなんて

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