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卒業論文『資本主義はなぜ生きづらいのか:ガルブレイス、フロム、國分功一郎の思想から』

お久しぶりです、Kodaiです。

今回のnoteでは、大学時代に卒業論文として書いた『資本主義はなぜ生きづらいのか:ガルブレイス、フロム、國分功一郎の思想から』の全文を投稿しようと思います。

この論文は、社会的に意味があるからなどというよりは、僕自身が生きる中で感じてきた「生きづらさ」を言語化し、学士論文という形でまとめたものです。

なぜ投稿に至ったかというと、最初に投稿したnote「大学4年秋、進路の決まってない僕が、とりあえずシリコンバレーに行った話。」が思いのほか多くの人に読んでもらえ、偶発的ないい出会いがあったからです。

不登校、高校中退を経験し、社会のレールを外れたことで、「普通」に対する幾らかの違和感を感じてきました。高卒認定を取得し、大学へ入学できましたが、コロナが直球し、夢描いていたキャンパスライフは送れませんでした。そんな中、学生時代は、人生を豊かにするため、とてつもない量の本を、領域問わず、読み散らかしました。すると、自分が抱えていた問題意識は、多くの先人方も抱いており、様々な方法で、対処方法が説明されていました。

僕は、自身が抱くコンプレックスに対して、本や学問からの学びを通して自分の考え方、物事の解釈、世の中への見方を変えることで、それを克服しようと向き合ってきました。本論文は、この取り組みの変遷を文章に表現したものです。

お時間ある際に、最後まで読んでいただけますと嬉しいです。
感想なども送っていただけると、非常に喜びます。

なお、本論文は、一人の大学生が書いた「学士論文」であることをご了承いたただきたいです。学術的な作法に則れていない箇所も多々あるかと思います。今後、一度社会に出てから、専門性を高めるべく大学院へ歩みたい、と考えています。本論文を読んで、おすすめの研究室・人などいましたら、お聞きしたいです。補足にはなりますが、昨年度、慶應大学大学院経済研究科を社会思想史専攻(研究としては、カール・マルクスの疎外論を計画していました。)で受験しましたが、落ちてしまいました。現在、研究内容、進学先を探し中です。


以下、卒業論文の全文です。投稿にあたり、一部修正済み。

資本主義はなぜ生きづらいのか

ーー ガルブレイス、フロム、國分の思想から ーー


梗概

 なぜ我々は生きづらさを感じるのか、どうすれば幸せになれるのだろうかという疑問から、ガルブレイス、フロム、國分功一郎の思想を中心に、資本主義社会が孕む、生きづらさをもたらす要因について考察する。 第1章では、 現代に至るまでの資本主義の変遷を辿り、そして、その社会システムが持つ性質を述べる。 第2章では、 ガルブレイスの「依存効果」、フロムの「もつこと」、そして國分功一郎の「疎外」という三つの概念を取り上げ、現代人の抱える生きづらさを解明する。 第3章では、 世界一幸福な国フィンランドの人々へのインタビューから、生きづらさを脱却し幸せになるための考察を行う。結論として、資本主義のシステムそれ⾃体がもつ問題点を示すと同時に、生きづらさから脱却し幸せになるためには、 私たちが何を幸せと感じるかという、 ゆたかさの再定義を行う必要があるということを示した。


はじめに

 「なんだか生きづらい」とずっと感じていた。この違和感を払拭しようと社会学や経済学を学んでみると、どうやら「資本主義」というものにいくらかの原因があるように思えた。この社会システムに対する漠然とした違和感が本論文の原点である。
 日本で生活をしていると、漠然とした「生きづらさ」を感じないだろうか。うまく表現できないが、どこかしんどい。そもそも月に20万円弱を稼ぐために、なぜ毎日8時間、週40時間も働かなければならないのだろうか。年金や老後の資金不足のために、なぜ70歳まで働かなきゃいけないのだろうか。また、どこか周囲の人間が競争相手のように思えてしまう。「あの子よりも優れたい」「僕の方が幸せだ」 。そんな風に学歴や経歴、身につけているもののブランド、行った場所、容姿を武器に、私たちは無意識のうちに競争心を燃やしている。
 そして、大多数を意味する「普通」に収まるために努力をしければならない。しかし、SNSを見て「彼みたいになりたい」と羨む時の他人は、普通とは違う生活を送っている。そんな矛盾と共に生きていくのがしんどい。「宝くじが当たったら」「朝、他人となって目が覚めたら」 、そんな空想をすることがいつしか趣味となってしまった。将来のことを考えると、期待感よりもお金の不安がつきまとう。お金がなく、見た目がいけておらず、性格が曲がっている中年男性を「男性弱者」と小馬鹿にするも、私たちの毎日乗る満員電車の向かう先は彼らである。数年前までは「あんなふうになりたくない」という思いを胸に努力していたのに、数年経つと「こんなはずではなかった」というようになってしまうのだろうか。就活をして、「好きなこと」は何かと聞かれた時、自分が何にも熱中していないのだと気づいてしまった。どんな人生を送りたいか、なんて分からない。親の心配はZ世代の価値観とは違う。そう思うことにしよう。私たちはまだ若者だ。きっとまだ、人生を変える大きなチャンスに出会えるはずである。そう信じて、今日もこの「生きづらさ」には、一旦蓋をしておこう。
 日本は戦後、とてつもない経済成長をし、「ゆたかな」になった。「失われた30年」と呼ばれるが、世界を見渡してみると、先進国として、ものやサービスが充実し、「ゆたかな」国だと思える。貧困、地震、政治の裏金、企業の倒産等、日々ニュースでは多くの社会問題が取り上げられているが、私は特に困ることなく生きられている。それにも関わらず、この「生きづらさ」はなんなのだろうか。
 私は「生きづらさ」に大学 4 年間かけて格闘してきたが、本論文では、「生きづらさ」から脱却して幸せになるための手がかりを見出そうとしてきた過程をまとめた。第1章では、資本主義の変遷を辿り、その社会システムが持つ性質を考察する。第2章では、ガルブレイスの「依存効果」、フロムの「もつこと」、そして國分功一郎の「疎外」という三つの概念を取り上げ、現代人の生きづらさを解明する。第3章では、世界一幸福な国と言われるフィンランドの人々へのインタビューを通して、生きづらさを脱却し幸せになるための考察を行う。結論として、生きづらさから脱却し幸せになるためには、私たちが何を幸せと感じるか、ゆたかさの再定義を行う必要があるということを示した。


第1章 資本主義とは何か

第1節 資本主義の起源

 はじめに、経済人類学者ジェイソン・ヒッケル(2023)の文章を引用する。

わたしたちは資本主義という言葉に敏感だ。資本主義については誰もが強い感情を抱いていて、好悪のどちらであれ、もっともな理由がある。しかし資本主義をどう思っていたとしても、それがどのようなもので、どのように機能するかをはっきり見定めることが重要だ。(p.27)

ジェイソン・ヒッケル(2023)『資本主義の次に来る世界』野中⾹⽅⼦訳、東洋経済新報社

 資本主義の起源を巡る議論は、今も続いている。『資本主義の歴史』の中で歴史学者ユルゲン・コッカ(2018)は、「さまざまな見解があるのは、一つには、用いられる資本主義の概念が異なるからであり、また一つには、社会・経済の現実において明確な画期が現れることは稀だ、という事実にもよる」(p.35)と述べている。
 コッカは、資本主義の顕現がマイノリティ現象であり、全体として経済と社会は非資本主義的な諸原理に従って機能していたという事実を認めた上で、その起源として、中国漢王朝(紀元前206年~紀元後220年)の官吏国家や、古代ローマ帝政期(紀元前1世紀~紀元後5 世紀)を取り上げる。このように、コッカは、資本主義の概念がまだ用いられておらず、それが意味するものがごく小さい端緒に、その始まりを見出している。
 一方、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)は、資本主義の起源を、「将来が現在よりも良くなる」とする進歩という考え方のもと、およそ15世紀の西ヨーロッパに見出した。『サピエンス全史』の中で、資本主義が次第に、その機能を説明する経済学説を超えるような存在になっていったとして以下のように述べる。

今や一つの倫理体系であり、どう振る舞うべきか、どう子供を教育するべきか、果てはどう考えるべきかさえ示す一連の教えまでもが、資本主義に含まれる。資本主義の第一の原則は、経済成長は至高の善である、あるいは、少なくとも至高の善に代わるものであるということだ。なぜなら、正義や自由やさらには幸福まで、すべてが経済成長に左右されるからだ。 (p.139)

ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)『サピエンス全史(下)─⽂明の構造と⼈類の幸福』柴⽥裕之訳
河出書房新社

 マルクス研究者である的場昭弘(2022)は、精神の革命を資本主義の起源だと考え、その始まりを19世紀のヨーロッパに見出す。そして「資本主義とは何か」という問いに対し、マックス・ウェーバーの思想を取り上げ、それまで世界を支配した商業社会との違いを次のように説明する。

では、資本主義的精神とは何かといえば勤勉を蓄積という精神です。贅沢と怠惰が支配的だったそれまでの社会に対して、資本主義はそれとは逆に、労働することと蓄積することを自己目的化するようになったといいます。これを植えつけたのがプロテスタントの精神だとするなら、資本主義は西欧でしか生まれなかったというのはうなずけます。 (p.22)

的場昭弘(2022)『資本主義全史』SB 新書

 資本主義の起源には、コッカが述べているように、資本主義という概念をどう捉えるかによって様々な見解が存在する。しかし、多くの学者のあいだで、資本主義の特徴が「永続的な成長を軸にしていること」であるという意見は一致しているようだ。以下は、ヒッケル(2023)の言葉である。

……資本主義イコール市場ではない。市場は何千年にもわたって、さまざまな時代や場所に存在したが、資本主義が誕生したのはわずか500年前だ。資本主義の特徴は、市場の存在ではなく、永続的な成長を軸にしていることだ。事実、資本主義は史上初の、拡張主義的な経済システムであり、常にますます多くの資源と労働を商品生産の回路に取り込む。資本の目的は、余剰価値の抽出と蓄積であるため、資源と労働をできるだけ安く手に入れなくてはならない。 (p.47)

『資本主義の次に来る世界』


第2節 資本主義の変遷

 では、資本主義はどのように拡大したのだろうか。的場(2022)がいう「精神の革命」、つまり、勤勉と節約の精神を生み出したのは、16世紀の宗教革命である。ほぼ時を同じくして、重商主義政策により、国家が貿易を独占し、世界中から金銀を集め始めた。この国家政策による促進が15世紀半ばに展開する大航海時代をもたらした。こうして、精神的な変化と同時に、物質的な変化がもたらされたのである。「宗教改革とほぼ同時期に始まった大航海時代は、ヨーロッパが資本主義へと踏み出す大きな力」 (p.26)となった、と的場は述べる。
 西洋よりも経済、社会ともに発展していたアジアで、資本主義が生まれなかった理由を、専制支配が続いてしまったことにある、と的場は考える。そしてマルクスの次の文章を引用する(pp.64-65) 。

この牧歌的な村落共同体が、たとえ無害なものに見えようとも、いつも東洋的専制主義の確固たる基礎をつくってきたこと、それらが人間精神を可能な範囲に押し込め、迷信の無抵抗な道具にし、伝統的規則に従属させ、あらゆる偉大さや歴史的エネルギーを奪いとってしまったことを、我々は忘れてはいけない。(「イギリスのインド支配の将来の結果」 『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1853年6月25日、『マルクス=エンゲルス全集』九巻、大内兵衛・細川募六訳、大月書店より)」

『資本主義全史』

 一方で、西洋では1750年代に始まった産業革命により、資本主義を更に発展させていった。この革命は機械技術の革命であると同時に、石炭や水を利用したエネルギー変換における革命でもあった。そして更に、産業革命は何よりもまず第二次農業革命であった、とハラリ(2016)は述べる。

過去二〇〇年間に、工業生産方式は農業の大黒柱になった。以前は筋肉の力で行なわれていた作業、あるいはまったく行なわれていなかった作業を、トラクターのような機械がこなし始めた。人工肥料や業務用殺虫剤、多種多様な合成ホルモンや薬剤のおかげで、農地も動物たちも生産性が大幅に上がった。冷蔵庫や船舶、航空機によって、農産物を何か月も貯蔵したり、地球の裏側まで素早く安価に輸送したりできるようになった。(p.172)

『サピエンス全史(下)─⽂明の構造と⼈類の幸福』

 家畜は痛みや苦しみを感じる生き物と見なされることがなくなり、動植物までもが機械化されていった。

今日こうした動物たちは、工場のような施設で大量生産されることが多い。その身体は産業の必要性に応じて形作られる。彼らは巨大な製造ラインの歯車として一生を送り、その生存期間の長さと質は、企業の損益によって決まる。(p.173)

『サピエンス全史(下)─⽂明の構造と⼈類の幸福』

 つまり「ホモ・サピエンスが人間至上主義の宗教によって神のような地位に祭り上げられた」(p.172)のだ。この時期に、資本家と労働者の階級が形成されたと言われている。労働者は時間で区切られた労働力を商品化し、それぞれ分業された仕事をこなすようになった。このように18世紀の産業革命は、多くの社会的、経済的、技術的変革をもたらし、資本主義の歴史における重要な転換点であった。
 19 世紀初めには、機械によって職場を追われた人々が機械を打ち壊す運動(ラッダイト運動)が起きた。貧富の差が現れ、貧困が社会問題として大きくなり始めた時期であった。更に資本主義の改革の必要性を訴えた人々の中から、社会主義や共産主義を主張する人々が現れ始めた。一方で、資本主義国家は帝国主義と結びつき、世界規模での市場拡大と資源獲得を目指していった。アフリカ人を奴隷とする動きは止まらず、植民地化は加速していった。ハラリは資本主義のこの欠点を次のように表現する。

自由市場資本主義は、利益が公正な方法で得られることも、公正な方法で分配されることも保証できない。それどころか、人々は利益と生産を増やすことに取り憑かれ、その邪魔になりそうなものは目に入らなくなる。成長が至高の善となり、それ以外の倫理的な考慮というたかが完全に外れると、いとも簡単に大惨事につながりうる。(p.159)

『サピエンス全史(下)─⽂明の構造と⼈類の幸福』

 20世紀には2度の世界大戦と経済危機が資本主義の変化を促した。特に1929年の世界恐慌は、政府の経済介入と福祉国家の必要性を感じさせ、自由市場資本主義に警鐘を鳴らした。第二次世界大戦後には、世界は資本主義陣営と社会主義陣営に分かれた。資本主義や市場経済の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指した社会主義は一時、世界の常識になるかと思われた。
 1989年のベルリンの壁の崩壊、それに続くソ連の崩壊は、資本主義の勝利を世界に知らせるものとなった。21 世紀の現在、世界は更に経済的に相互依存するようになっている。グローバル化と共に、インターネットとデジタル技術の普及による情報革命は、産業構造と労働市場に大きな変革もたらした。あらゆる領域で大規模な変化が日々起きている。一方で、環境問題や経済格差の拡大など、資本主義の持続可能性に関する多くの問題が日々議論されている。


第3節 欲望の資本主義

 現代の資本主義経済は、経済成長を生むために絶えず生産と消費を増大させる。ハラリ(2016)は、新しい種類の価値体系が登場したという。ますます多くの製品やサービスの消費を好ましいと見なす消費主義だ。表裏一体である資本主義と消費主義の価値体系を体現している人々を、彼は以下のように分析する。

この新しい価値体系も楽園を約束するが、その条件は、富める者が強欲であり続け、さらにお金を儲けるために時間を使い、一般大衆が自らの渇望と感情にしたい放題にさせ、ますます多くを買うことだ。これは、信参者が求められたことを実際にやっている、史上最初の宗教だ。だが、引き換えに本当に楽園が手に入ると、どうしてわかるのか?それは、テレビで見たからだ。 (p.181)

『サピエンス全史(下)─⽂明の構造と⼈類の幸福』

 インターネットの世界中への普及は消費主義を更に加速させた。そしてSNSは承認欲求を満たすように人々を刺激する。このような SNS の作⽤について、フェイスブック初代社⻑ショーン・パーカーは次のような⾔葉を残している。

アプリ開発者の思考プロセスはこうだ。「最⼤限にユーザーの時間や注意を奪うためにはどうすべきか?」そのためには写真や投稿に対して「いいね」やコメントがつくことでユーザーの脳に少量のドーパミンを分泌させることが必要だ。⼈の⼼理の「脆弱性」を利⽤しているのだ。(丸山、2022、p.190)

 欲望が満たされてしまえば、新たな欲望を作り出す。「やめられない、止まらない、欲望が欲望を生む世界」。そんなフレーズの元、『欲望の資本主義─ルールが変わる時』のなかで、さまざまな分野の専門家が現代社会を分析している。経済学者トーマス・セドラチェクは「黄金の天井」説を唱え、日本が既に資本主義の終着点に到達していると述べる。

もうすべて手に入れた。誰も欲しがらないものを作っても意味がないから、そんなに働かなくてもいい。一度きりの人生なのに、誰も欲しがらない物を作るラットレースを走り続けるのは馬鹿げたことです。……経済が成長しないのは、これ以上成長する必要がないからなんですから。 (丸山、2017、p.98)

丸山俊一、NHK「欲望の資本主義」制作班(2017)『欲望の資本主義─ルールが変わる時』東洋経済新報社

 しかし人間はラットレースを走り続ける。「格差社会」を描いた、フランスの経済学者トマ・ピケティ著『21世紀の資本』 (2014)は世界中でベストセラーになり、映画化にも至った。ピケティは大量のデータを分析した結果、「資本収益率(r)はつねに経済成長率(g)より大きいという不等式が成り立つ」と主張する。つまり「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」という教えの裏付けをしてしまったのである。経済成長を善だと考え、資本主義を自由にすれば、格差はますます拡大してしまう。労働者が働くよりも、資本家が資本を増やす方が楽であり、効果的であるのだ。
 資本主義が孕む問題は格差だけではない。政治学者白井聡は、フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』の解説のなかで、資本主義を単なる経済システムとみなすことに警鐘を鳴らす。それは「経済的なものであるだけでなく、社会全般の在り方を規定し、人間の意識・思考・欲望といった人間性そのものにも影響を与える」と述べ、このシステムの持つ問題点を次のように続ける。

そのような愚味に終止符を打たねばならない。なぜなら……人種差別・再生産の危機・環境危機・民主主義の危機といった現代において深刻化し続ける危機のすべては、資本主義の内在的メカニズム、すなわち無限の資本蓄積をめざすという宿命的な衝動に究極的には根差すものであるからである。より具体的に言えば、世界中(とりわけ欧米)で噴出する人種間の軋轢、壊滅的な少子化の進行、地球温暖化、ポピユリズムの流行等々といった危機的現象は、近代資本主義システムの発展の帰結にほかならない。 (フレイザー、2023、p.286)

ナンシー・フレイザー(2023)『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』江⼝泰⼦訳、ちくま新書

 セドラチェクは、資本主義を皮肉った寓話を取り上げ、このシステムの問題点を述べる。

⽜飼いが⽜から⽜乳を搾って暮らしていたが、ある⽇突然、⽜乳が出なくなった。⽜飼いが⽜を打ち据え「⽜乳を出せ」と迫ると、⽜はこう答えるのです。「私はあなたにすべての乳を与えてきた。しかし、⼊れ物に⽳が開いていたり、腐らせたりして、無駄にしてきた。なのに私を責めるのか」。搾った⽜乳をいかに有効に使うかは牛の問題ではなく、私たちの問題なのです。……資本主義の危機は、資本主義から私たちが得るものがなくなったのではなく、私たちがもらいすぎたことに問題があるのではないでしょうか。(丸山、2017、pp.228-229)

『欲望の資本主義─ルールが変わる時』

 やめられない、止まらない、欲望が欲望を生む世界。そう丸山が言うように、現在の資本主義は欲望が全ての中心を担っている。


第4節 資本主義は私たちをゆたかにしたのか

 では、経済成長、または、資本主義は私たちをゆたかにしたのだろうか。この問いに対して、ハラリ(2016)は次のように述べる。

これまで私たちは、健康や食事、富など、おおむね物質的要因の産物であるかのように幸福を論じてきた。より豊かで健康になれば、人々はより幸せにもなるはずだ、と。だがこれは、本当にそれほど自明なことなのか?哲学者や聖職者、詩人たちは、幸福の性質について何千年も思案を重ねてきた。そしてその多くが、社会的、倫理的、精神的要因も物質的な条件と同じように、幸福に重大な影響を与えるという結論に達した。 (pp.218-219)

『サピエンス全史(下)─⽂明の構造と⼈類の幸福』

 そして幸福は客観的な条件、すなわち富や健康にそれほど左右されないと結論する。「幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる」(p.222) 。この前提にたった上で、ハラリはマスメディアと広告産業が人々の幸福度を下げている指摘する。

もしあなたが五〇〇〇年前の小さな村落で暮らす一八歳の青年だったら、自分はなかなか器量が良いと思っていただろう。というのも、村には他に男性が五〇人ほどしかおらず、その大半は年老いて傷跡や皺の刻まれた人たちか、まだほんの子供だったからだ。だが、あなたが現代のティーンエイジャーだとしたら、自分に満足できない可能性がはるかに高い。同じ学校の生徒は醜い連中だったとしても、あなたの比較の対象は彼らではなく、テレビやフェイスブックや巨大な屋外広告で四六時中目にする映画スターや運動選手、スーパーモデルだからだ。(p.224)

『サピエンス全史(下)─⽂明の構造と⼈類の幸福』

 本稿の目的は「資本主義はなぜ生きづらいのか」という問いに答えを出すことである。第1章では、資本主義の起源から現在に至るまでの歴史を追い、そのシステムの性質がどのように人々に影響を与えているのかについて考察した。ヒッケルが指摘するように、「それがどのようなもので、どのように機能するかをはっきり見定める」上で、本稿の目的は果たされるであろう。これまで見てきたように、資本主義の下での過度な経済成長は、私たちをゆたかにしたとは言えないかもしれない。
 では、資本主義のどのような性質が、人々の「生きづらさ」をもたらしているのだろうか。第2章では主に3人の思想家を取り上げて、資本主義がなぜ生きづらいのか、という問いへ向き合いたい。人を生きづらくさせている資本主義の特質を取り上げたい。


第2章 生きづらさとは何か

第1節 ガルブレイスの「依存効果」

 はじめにガルブレイスという人物について述べていく。ジョン・ケネス・ガルブレイスは1908年にカナダで生まれた。彼は30年間ほどアメリカ経済学の中心であるハーバード大学で経済学の教授を勤めた。彼の名がこれほど前に知られているのは、彼の著作による。多くのベストセラーを世に送り出し、とくに『不確実性の時代』、『ゆたかな社会』等は、国境を越え日本を初め、大衆に読まれた。20世紀アメリカを代表する「経済学の巨人」と評される。彼の代表作『ゆたかな社会』は「アメリカの貧困」に着目した。特に彼が指摘した「そもそも経済成長とは何のためなのか」という問いは、現代資本主義における根本を問うものであり、彼の鋭い言葉に多くの人が惹き付けられた。
 『ゆたかな社会』の中で、ガルブレイス(2006)は経済学の通説である消費者主権の考えに反論する。消費者主権とは「経済システムは消費者に奉仕するものであって、その消費者が経済を最終的に支配する」という考えである。

現実の世界では、欲望をつくり出す手だてが生産の過程に内蔵されている。そして、こうした欲望は、流行とか、社会的野心とか、あるいはまた単なる模倣によって、いっそうの支持を得ている。人は、他の人がすることをし、他の人が持つものを持つべきだ、というわけである。消費需要を生み出す源泉のうちで最も重要かつ明白なものは、製品を作る側の広告と販売術である。まず財をつくり、それから市場をつくるのだ。 (pp.5-6)

ジョン・K・ガルブレイス(2006)『ゆたかな社会 決定版』鈴⽊哲太郎訳、岩波書店

 このように生産者優位の市場が出来上がっていることを指摘する。このことは、所得が増えるに比例して、人々は必需性の高いものから、低いものへと消費対象をシフトさせていくことを意味する。必需性の高いものは、既に充分手にしているものであるから、それへの効用は低い。一方、そこからシフトしていくものは、新たなものが多く、欲望が刺激される。そこで生産者が広告力で現実の需要を作り出すのだ。しかし果たして、これは「ゆたかな社会」だといえるのだろうか。この問いをガルブレイス(2006)は投げかけているのである。

ゆたかになっていくにつれて、本来的には必需性の低いものが、欲しいものになっていく。これが所得の増加分、消費の増加分を吸収していく。産業としてみるならば、人が生きるために必需度の高い物は生産量がのびず、必需度の低いものが、大きく生産量を増加させる可能性がある。 (p.104)

『ゆたかな社会 決定版』

 こうした現実を見れば、消費社会において広告がもつ役割の大きさは明白だ。しかし、この広告のあり方をガルブレイスは批判する。

個人の欲望が重要であるというのならば、その欲望はその個人自体から生まれるものでなければならない。個人のためにわざわざ作り上げられたような欲望は重要であるとはいえない。欲望を満足させるところの生産過程によって作り上げられるような欲望はもってのほかである。……もし⽣産が欲望を作り出すとしたら、欲望を満足させるものとして⽣産を弁護することはできない。(p.200)

『ゆたかな社会 決定版』

 こうした「欲望は欲望を満足させる過程に依存する」ということを、彼は「依存効果」と呼び、消費が生産に、需要が供給に依存していると述べた。

社会がゆたかになるにつれて、欲望を満足させる過程が同時に欲望をつくり出していく程度が次第に⼤きくなる。これが受動的におこなわれることもある。すなわち、生産の増大に対応する消費の増大は、示唆や見栄を通じて欲望をつくり出すように作用する。……⽣産者が積極的に、宣伝や販売術によって欲望をつくり出そうとすることもある。このようにして欲望は生産に依存するようになる。(p.206)

『ゆたかな社会 決定版』

 私たちは、それ自体の必要という観念を見出すことをしなくなってしまった。消費が個人の欲望から行われる行為ではなくなり、体裁を保つための社会的な行為へと移行していった。

社会は高い生活水準を生み出す能力を高く買っているので、個人はその所有物を標準にして社会から評価される。社会の生産能力を強調する価値体系によって消費意欲はさらに助長される。生産が多くなればなるほど、体裁を保つために所有しなければならない物も多くなる。(p.202)

『ゆたかな社会 決定版』

 この指摘は、ガルブレイスの理論の中でも重要な点であろう。果たして、私たちの本来的な欲望とは何なのだろうか。


第2節 フロムの「もつこと」

 エーリッヒ・フロムは1900年にフランクフルトにて、ユダヤ人の両親の元に生まれた。ドイツを代表する社会心理学者、精神分析家である。代表作『自由からの逃走』は、自由を手に入れた近代人が強い権威に従属してしまうという大衆心理を分析した。フロムは「現代資本主義の本質をいち早く見抜き、人間を疎外し不幸にするその病理に厳しい警告を発していた」(岸見、2022、p.7)。現代は、フロムが予言していた通りのことが起きていると、岸見一郎はフロムの評伝のなかで指摘する。

人間は資本主義社会の中で、「消費人」、「組織人」として目に見えるものであれ見えないものであれ、あらゆる種類の権威に従い、それどころか自らがそのような権威に従っていること自体にすら気づいていない。本当の「自分」を持たず、「ひと」の顔色を窺い「ひと」の意見に従い、「自分」の人生を生きられなくなってしまっている。戦争による人類滅亡の危機もいよいよその度を増している。(p.7)

岸見一郎(2022)『エーリッヒ・フロム─孤独を恐れずに自由に生きる』講談社現代新書

 フロムは、近代人が「幸福であるための単に手段でしかないものを、人生の究極の目的と取り違えてしまっている」(p.114)と指摘した。著書『生きるということ』(2000)の中では、「人間がいかに生きるべきか」への答えとして、「あること」指向の生き方こそ目指すべきものであると主張した。
 フロムは、もはや経済活動が人間のためではなく、市場の体制維持のためのものとなっていると指摘する。産業社会で私たちは消費という行為を強いられており、モノに執着している。モノを所有しているのではなく、モノに支配されているとも言える。「近代⼈は多くのモノを〈所有〉しており、多くのモノを使ってはいるが、ほとんどまったく〈存在〉していない」(p.210)という。
 では、「もつこと(to Have、所有)」とは、なんであろうか。翻訳者の堀江宗正は次のように解説する。「所有指向とは所有することに執着し、それなしでは⽣きてゆけないような状態である」(p.260)。「もつこと」においては、財産、知識、健康、社会的地位、権⼒等を持つことこそが、幸せに繋がると考えられる。お金はあればあるほどよく、知識は量を最重視する。その知識の量は、かけた時間の多さに依存し、読んだ本の冊数、受けた授業の数に比例する。故に、そこでの人々は際限のない欲望に振り回されることになる。終わりのない欲望を満たそうとし続ける生活は「もつこと」指向の生き方である。

今日では、保存ではなく消費が強調され、買い物は〈使い捨て〉の買い物となった。買ったものが車であれ、服であれ、小道具であれ、それをしばらく使ったあとは飽きてしまって、〈古い〉ものを処分し、最新型を買うことを熱望する。取得→一時的所持と使用→放棄(あるいは、できればよりよい型との有利な交換)→新たな取得、が消費者的な買い物の悪循環を構成するのであって、今日の標語はまさに「新しいものは美しい!」となりうるだろう。 (フロム、2020、pp.105-106)

エーリッヒ・フロム(2020)『⽣きるということ 新装版』佐野哲郎訳、紀伊国屋書店

 フロム(2000)は、現代社会の多くの人が陥っているこの生き方を批判し、人間本来の「あること」を⽬指す。「 〈あること〉は、自己中心性と利己心を捨てることを要求する」(p.127)それは、 「もつこと」 、つまり、 「あらざること」を減らすことにより現れる。言い換えると、執着からの脱却を必要とする。受動的ではなく能動的に、消費だけでなく生産もする。関根宏朗(2009)は「『私的所有』を『止揚』しながら、『人間的な感覚や特性』としての『態度』を『対象』へと示すこと」(p.31)が「あること」への道だと考える。「もつこと」は、⽬の前のモノそれ⾃体を重視する在り⽅ではないだろうか。⾝の回りのモノ・行為、ひとつひとつに能動的に向き合う。そして「もつこと」への執着を減らす。 そんな主体性が求められる。
 フロムは一貫して、目の前のモノそれ⾃体の価値に目を向ける。例えば、お金は本当に最優先事項なのだろうか。お金自体には全く価値がない。それは社会が⽣み出した虚構の価値にすぎない。たくさんのお金があって、たくさんのモノの所有を何故私たちは目指すのだろうか。それは、資本主義社会の元で作られた価値観にすぎないのではないか。お金があるとモノが買える。では、そのモノは本当に必要なのだろうか。周囲の人々に自慢したいだけではないのか。自慢が可能なのも、社会を構成する人々に虚構の価値観が備わっているからであろう。
 よりよく生きるためには、自分たちが持つ、環境によって作られた価値観を⼀度疑い、本当の価値を求める必要がある。「何ものにも執着せず、何ものにも束縛されず、変化を恐れず、たえず成⻑すること」 (フロム、2020、p.277)が「あること」指向の生き方には必要なのだ。 経済成長至上主義ではいけない、と岸見(2022)は警告する。

経済を優先するような社会では、人生の目的は経済であり、人間ではない。このような社会では、より多く生産することが目的とされ、その対価として、より多くの消費が許される。だが、本来人生の目的は「人間自身」、「自分自身であること」でなければならない。その目的に達するための条件は、人間が自分自身のために存在しているということだ。(p.116)

『エーリッヒ・フロム─孤独を恐れずに自由に生きる』

 幸福であるための単に手段でしかないものを人生の目的と取り違えてはいけないのである。


第3節 國分功一郎の「疎外」

 哲学者國分功一郎(2022)は『暇と退屈の倫理学』のなかで、現代社会の消費文化における暇と退屈の問題点を指摘した。國分は資本主義を次のように批判する。

資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。 (pp.28-29)

國分功⼀郎(2022)『暇と退屈の倫理学』新潮⽂庫

 労働者は、暇の中で退屈を恐れる。暇を何に使えば良いか分からない人々は、「与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る」(p.29)。そうして暇は搾取されていく。では「ゆたかさ」とは何なのだろうか。國分は「人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない」(p.168)と述べ、贅沢を慎み、必要なものを必要な分しか持たない状態を批判する。

必要なものが必要な分しかない状態は、リスクが極めて大きい状態である。何かのアクシデントで必要な物が損壊してしまえば、すぐに必要のラインを下回ってしまう。だから必要なものが必要な分しかない状態では、あらゆるアクシデントを排して、必死で現状を維持しなければならない。これは豊かさからはほど遠い状態である。つまり、必要なものが必要な分しかない状態では、人は豊かさを感じることができない。必要を超えた支出があってはじめて人は豊かさを感じられるのだ。(p.168)

『暇と退屈の倫理学』

 さらに、社会学者・哲学者ボードリヤールを取り上げ、浪費と消費の区別に注目する。浪費にはどこかに限界がある。 「浪費は必要を超えた支出であるから贅沢の条件である。そして贅沢は豊かな生活に欠かせない」(p.169) 。一方、消費には限界がなく、消費を通して人々は満足感を得ることが出来ない。

なぜか?消費の対象が物ではないからである。人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。ボードリヤールは、消費とは「観念論的な行為」であると言っている。消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。(p.170)

『暇と退屈の倫理学』

 記号や観念の受け取りには限界がなく、それらを対象とした消費は決して終わることがない。さらに広告に煽られ、消費を過剰に求めるが、本当に満たしたい欲求が分からずにいる状態を國分は「疎外」と呼んでいる。一般的に疎外とは「人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のこと」を指し、労働者の疎外がよく語られる。「労働者は、資本家から劣悪な労働条件・労働環境を強制され、人間としての本来の姿を失っているとされた」(p.190)。これに対し國分は、終わりなき消費をつづける現代人の疎外について述べている。

たしかに、ある意味で消費者は消費を強制されている。広告で煽られ、消費のゲームに参入することを強いられている。しかし、それは資本家が金にものを言わせて労働者に劣悪な条件で働かせる場合の強制とは異なっている。消費者は自分で自分たちを追い詰めるサイクルを必死で回し続けている。人間がだれかに蝕まれるのではなく、人間が自分で自分を蝕むのが消費社会における疎外であるのだ。(p.190)

『暇と退屈の倫理学』

 そしてさらに、あらゆる人間に対して「本来的」な姿が強制される。

疎外された状態は人に「何か違う」「人間はこのような状態にあるべきではない」という気持ちを起こさせる。ここまではよい。ところがここから人は、「なぜかと言えば、人間はそもそもはこうでなかったからだ」とか「人間は本来はこれこれであったはずだ」などと考え始める。 (p.192)

『暇と退屈の倫理学』

 人々は「本来」の姿を強制され、どうしてもそうなれない人は、人間にあらざる者として排除されることになってしまう。

たとえば、「健康に働けることが人間の本来の姿だ」という本来性のイメージが受け入れられたなら、さまざまな理由から、「健康」を享受できない人間は非人間として扱われることになる。これほどおぞましいことはない。 (p.193)

『暇と退屈の倫理学』

 消費社会の中で、戦略的に作り出された欲望に対し欠乏感を感じ、退屈を感じている人間は、「何か違う」と違和感は感じるものの、「本来的なもの」のイメージに固執してしまう。正解の分からないまま、不正解のみ突きつけられた人間は、「疎外」、つまり「本来の姿を喪失した非人間的な状態」に陥ってしまう。
 私たちが持つ、作為のある欲望は、そもそも満たされないものであるのだ。つまり、私たちは、ありふれた物やサービスの選択の自由はあるものの、消費という行為は強制されており、「ゆたかさ」を欠乏させられる状態に陥っているのだ。少なくとも先進国では、物質的には裕福になったはずなのに、「疎外」に陥ってしまう。物質的には裕福になり、暇を得たはずだ。しかし「暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない」(p.29)これは、ある種の「貧困」とも言えるのではないだろうか。


第4節 「ゆたかな社会」での貧困

 第1章では、資本主義の誕生から現在に至るまでの歴史を追う中で、資本主義はそもそも幸福のために動いていない、ということを明らかにした。第 2 章でも取り上げたように、「ゆたかさ」について、伊東光晴(2016)によれば、ガルブレイスも次のように言及している。

通念は、生産の増大は、人々の欲望を充足してくれると考えた。だが生産の増大は、欲望水準を引き上げ、欲望をみたすということはない。次から次へと新商品が市場にあらわれ、それが人々の欲望を刺激していく。それが人々をみたされない気持ちにしてゆく。……買っても買ってもみたされない“精神的窮乏“が広まりだす。かつての貧しい社会での貧困は、空腹に代表される物質的窮乏であつた。それにかわって「ゆたかな社会」での貧困は、精神的窮乏である。(p.107)

伊東光晴(2016)『ガルブレイス─アメリカ資本主義との格闘』岩波新書

 物質的な「ゆたかさ」を手にした現代では、新たな貧困、「精神的窮乏」が誕生した。以前は存在しなかった欲望が生み出され、消費者は「精神的窮乏」を感じるように、欲望を刺激される。これがガルブレイスの指摘する「依存効果」であった。お金や権力、権威を「持つこと」に意識が向いてしまう。そのように「暇」を楽しめない私たちは、幸福感を感じられなくなっていく。私が資本主義の中で感じた「生きづらさ」は、資本主義それ自体が、目指す先を幸福に向けていないということにあるようだ。ヒッケル(2023)は次のように述べている。資本主義の成長志向のシステムは、人間のニーズを満たすのではなく、『満たさないようにすること』が目的なのだ、と。
 では、「ゆたかな社会」において、「生きづらさ」から脱却し、ゆたかになるにはどうすればよいのだろうか。第3章では、現代の「ゆたかさ」を測る指標、GDPなどの指標に着目し、その中の幸福度ランキングで1位をとっているフィンランドからヒントを得る試みをしてみよう。


第3章 いかにして生きづらさから脱却するのか

第1節 ゆたかさの再定義

 資本主義という経済システムの中では、産業の生産が増え続けること、つまり、GDP(国内総生産)が上がり続けることが、人々を幸福にするために重要であると考えられてきた。しかし、サイモン・クズネッツがGDPという指標をアメリカ議会で紹介した1930年代から1世紀近く経った今、その状況は変わり始めている。

世界有数の経済学者の間でも、成長主義はイデオロギーとしての力を失い始めている。2008年、フランス政府はGDP以外の方法で成功を定義するために、ハイレベルの委員会を設立した。同じ年、OECDとEUは「Beyond GDP」キャンペーンを開始した。その一環で、ノーベル賞受賞者のジョセフ・スティグリッツとアマルティア・センは、「暮らしの質の測り間違いIGDPはなぜ無意味なのか」と題した報告書を発表した。その中で、彼らはクズネッツの訴えを取り上げ、GDPを過信すると社会と生態系に起きていることが見えなくなる、と論じた。この報告書を受けてOECDは、住宅、仕事、教育、健康、幸福などの福祉指標を組み入れた新しい指標「ベターライフ・インデックス」(BLI)を発表した。 (ヒッケル、2023、p.206)

『資本主義の次に来る世界』

 このように、「ゆたかさ」の再定義により、代替指標は急速に増えている。とりわけ、社会と環境を考慮した「ISEW」(持続可能経済福祉指標)と「GPI」(真の進歩指標)等は、注目を浴びている。
 その中でも、世界幸福度報告(World Happiness Report)の主観的幸福度指標(人生の評価)による幸福度ランキングで、フィンランドは一位をとっている。本章ではフィンランドからヒントを得る試みをしてみる。日本、フィンランドの人々へのインタビューを通して、それぞれの国民が持つ幸福感を比較し、私たちが生きづらさから脱却するための糸口を探してみたい。ゆたかさを目指す上で重要な要素とは何なのだろうか。


第2節 フィンランドと日本の人々の幸福感比較

 フィンランド人大学生3名、日本人大学生3名を対象として、日本における生きづらさを解消するためのヒントを得ることを目的に、インタビュー調査を行った。偶然にも、経済産業省の主催する海外派遣プログラムへ採択され、2023年11月にフィンランドを訪れる機会があったので、その際に親しくなった友人に話を聞くことができた。
 インタビュー対象者の属性は下記の表1に記載した。6名をA~Fで呼称する。また、フィンランドの人々へ対するインタビューは英語で行われたが、ここではその内容を日本語訳で示す。インタビューは、以下の質問項目に基づき、半構造化面接法で行われた。

①「幸せ」とはなんだと思うか。
②お金や将来、生き方などに関することで、「生きづらさ」を感じることはあるか。
③国や社会の「ゆたかさ」ってなんだと思うか。
④(フィンランド人のみ)世界一幸福な国だと言われる理由にはどのようなものがあると思うか。

 インタビューの実施にあたり、協力者には、卒業論文の研究テーマとして、「資本主義はなぜ生きづらいのか」という問いを掲げていること、そして対象者のもつ幸福に関する価値観に興味があることを伝えた。

 以下、質問項目を中心に、インタビューの結果を報告する。まず内容をまとめ、次いで具体的な発言を例示する。フィンランドの3名に共通する回答として、現状に満足しているという点がある。「幸せ」や「ゆたかさ」に対して深く考えておらず、明確な答えをもってはいないものの、現状への満足感を3名が口を揃えて発していた。一方、日本の学生の中には、大きな不満足を訴えるものもいた。以下は、「②お金や将来、生き方などに関することで、「生きづらさ」を感じることはあるか」に関する回答の一例である。

B:今には満足しているよ。ただ、未来に関して、就活があるから心配はあるかな。けど、日々「生きづらさ」のようなものを感じることはそんなにない。

D: (生き方の)価値観がひとつしかないことがしんどい。自分がやりたい道、やりたい姿は明確にあるけど、世間では正解ではないよね、と見られることが多い。そのギャップが苦しい。女性の場合は30歳までに結婚とか。幻想だとは思うんだけど。

 フィンランドの人々は、大学まで全ての教育費の無償化、柔軟な働き方、豊富な福利厚生を背景に、人によって様々な生き方を選択している。インタビューの中で、「32歳の大学生がいることも普通だよ」と語る者もいた。岩竹美加子(2022)は、フィンランドの特徴を次のように述べている。「住居や保育、教育、労働、休暇、医療など生活全体のクオリティと安全性が高い。さらに、自分自身の時間を生き、自分らしく生きていける社会でもある」(p.225)。一方、日本には「同調圧力」という概念があり、人々は、「ウチ」と「ソト」の意識を持っている。
 また、フィンランドの人々にした質問「④世界一幸福な国だと言われる理由にはどのようなものがあると思うか」からは面白い学びがあった。

A:世界幸福度ランキングの指標通り、僕らはゆたかだと思うよ。教育費とかね。ただ、医療システムには問題点が多いと思うよ。僕らはインフルエンザで病院に行くことはないし、大抵は自分でどうにか治すしかないって考えている。高齢者、緊急時は優先してもらえるけど、病院に人が足りてないんだ。

 労働力が足りていないとも見える医療システムには、労働は義務ではないことや、働き方や労働時間の影響があるだろう。岩竹によれば「フィンランド憲法が市民の義務としているのは、納税義務と国防義務である」(p.50)。フィンランドはデパートにもあまり店員がいない。労働時間は少なく、今も尚、短縮しようという動きが進んでいる。「2020年8月に、サンナ・マリン首相は社民党の政策として3年以内に給料を下げることなく1日6時間、週4 日労働を具体化することを提言した」(p.46)。このようにフィンランドは、生き方・働き方が実に多様である。この政策により、医療現場などでは悪影響が出ていることもあるかもしれない。

地位や職位に対する執着がないことも、フィンランドでの働き方の特徴だと思う。現在は68歳が最終的なリタイアの年齢で再就職というシステムはなく、天下りもない。いつまでも働き続けるより、仕事を離れて自由時間を楽しみたい、違う人生を始めたいという希望の方が強い。また、キャリアの途中でまったく異なる領域に鞍替えすることも珍しくない。日本では70代、80代になっても高い地位に執着する人が多いこととは対照的だ。(p.51)

岩竹美加子(2022)『フィンランドはなぜ「世界⼀幸せな国」になったのか』幻冬舎新書

 計6名の学生へのインタビューから、対象者の価値観を比較し、日本における生きづらさを解消するためのヒントを考えてみた。その結果、フィンランドの人々には「現状に満足している」と考える人々がいて、幸せや不幸などに関してそもそもあまり考えてない傾向がある、ということが示された。その背景として、フィンランドの人々の生き方が多様であり、社会が同じ生き方を他人に強制する価値観を備えてないことがわかった。
 世界一幸福な国と呼称されるフィンランドは、ウェルビーイングの国である。フィンランドの特徴として、「幸福の測定」では「自分の意見(考え)をもつことができる教育」と「(国民が)自分の時間をもつことができていること」(鶴見・藤井・馬奈木、2021、pp.68-72)をあげている。時間的な余裕は精神的な余裕につながる。また、フィンランドは自然に囲まれていて、人との繋がりを感じられる。過度なフィンランド崇拝には注意すべきだが、本稿で報告した以外にも、この国の良さは多いのだろう。

第3節 ゆたかになるために

 生きづらさを解消し、ゆたかさを目指す上で必要な要素とはなんなのであろうか。欲望の増大を目的とし、幸福を軽視している資本主義という社会システムの中で、私たちはどう生きればよいのだろうか。これらの問いを考えるためには、ゆたかさを再定義する必要がある。これまでの資本主義では経済成長を至上のものとし、GDPの増大が善いものと考えられてきた。その認識をシフトさせ、目指す先を再考するべきだ。そのためには、ゆたかさを測る新たな指標も必要となるだろう。
 第3章では、幸福度ランキングという1つの指標で、6年連続で1位を取っているフィンランドに着目した。そこに住む人々の価値観から得られたのは、「現状への満足感」、「時間的、精神的余裕」、そして、「自分の意見(考え)をもつことができる教育」である。この価値観の裏付けとして、教育、医療・介護制度、デジタル化、働き方等、政府による政策面が手厚いことが明らかとなった。
 しかし、同時に他国を参考にしすぎることもすべきではない、と警告したい。世界一の幸福度を持つ国フィンランドは、その素晴らしさ故に、過剰に評価されすぎている風潮もあるのではないだろうか。日本は、経済の停滞や低賃金、信頼度の低い政治政府、そして、少子高齢化、環境汚染等、非常に多くの問題を抱えている。課題意識を抱き、物質的にゆたかになり、暇な私たちは常に何かに打ち込もうとしてしまう。理想を求めすぎなのではないだろうか。よりよい⽣活、よりよい社会といった理想の姿を望み、努力した結果、私たちは、なにごとにも満⾜できなくなってしまった。私たちは同じ過ちを繰り返そうとしているのかもしれない。過去の歴史から学び、過ちを減らすと同時に、暇を上手く楽しむ力が重要なのではないだろうか。私たちが生きづらさを解消し、ゆたかになるための解決策は、もしかしたら、私たちの頭の中にあるのかもしれない。


おわりに

 私は自分のコンプレックスに対して、本や学問からの学びを通して自分の考え方、物事の解釈、世の中の見方を変えることで、それを克服しようと向き合ってきた。本稿では、この取り組みの変遷を文章に表現した。そのため、アカデミックな論文とはいえない箇所もあることだろう。
 私の取り組みは、弱者の逃げとも言えるかもしれない。資本主義という大きな概念そのものを疑い、肌で感じた「生きづらさ」という違和感を解消するために、生存戦略として、解釈や頭の中を変える。もしかしたら、この取り組みは資本主義からの逃亡なのではないだろうか。学校や社会という競走の場で、市場に散財する欲望を満たすために働き続ける。私たち労働者に託された役割とは、「普通」を演じることである。与えられたものを深く考えず、自分の意思を極力控える。それがこの社会では「優秀」な生き方とされている。しかし、現在では、この秩序が乱れ、多くの問題が生じているのではないだろうか。少なくとも、私は22年間生きる中で、この社会に苦しみ、脱落した人々を多く知っている。
 この資本主義社会には、優秀ではない、普通を演じられない人々への配慮が足りない。それら人々は、低学歴、肉体労働、年金受給者、3K、3B、精神障害、弱者男性等、まるで敗者のようなレッテルの数々を貼られ、差別のようなものも受ける。既に競争する競技が決まっている中で、ただ適性がないだけかもしれないというのに。
 私は資本主義に代わる社会システムを構築したい。社会主義、共産主義は負けてしまった。私はまだ知識が足りないから、マルクスのような天才を待ちながら、資本主義の中を生きることしか出来ない。今までは、社会に対する自分の解釈を変えて、自分が輝ける環境を探すことしか出来なかった。しかし、これから社会へと巣立つ上で、資本主義に反旗を翻すことを志としよう。それが次なるライフステージにおけるミッションだ。そのためには、ある程度、息を潜め、この社会で勝者になるしかない。勝者となった上で、多くの「弱者」と呼ばれる人々の生きづらさを払拭し、ゆたかになるエコシステムを築きあげたい。そして、社会の価値観のパラダイムシフトを起こす一翼を担うことを目標とする。
 日本は現在、未曾有の危機にある。少子高齢化はその代表例である。そして、経済の破綻、戦争、自然災害、感染症など枚挙にいとまがない。しかし、きっと大丈夫だ。数年、数十年麻痺しようと、日本社会は必ず復興できる。そう信じることにしている。だから、私は将来の不安を悲観するのではなく、楽観的な未来を思い描く。若者は、そのように生きるべきだ。最後に、好きな言葉のひとつを引用して、本論文を締めくくることにする。
「バットエンドはない、僕達は途中だ」 (ピース 又吉直樹) 。


文 献

伊東光晴(2016)『ガルブレイス─アメリカ資本主義との格闘』岩波新書

岩竹美加子(2022)『フィンランドはなぜ「世界⼀幸せな国」になったのか』幻冬舎新書

ヴェーバー、マックス(1989)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫

カリス、ヨルゴス、ポールソン、スーザン、ダリサ、ジャコモ、& デマリア、フェデリコ(2021)『なぜ、脱成⻑なのか─分断・格差・気候変動を乗り越える』上原裕美⼦、保科京⼦訳、NHK 出版

ガルブレイス、ジョン・K(2006)『ゆたかな社会 決定版』鈴⽊哲太郎訳、岩波書店

岸見一郎(2022)『エーリッヒ・フロム─孤独を恐れずに自由に生きる』講談社現代新書

鴻上尚史、佐藤直樹(2020)『同調圧力─日本社会はなぜ息苦しいのか』講談社現代新書

國分功⼀郎(2022)『暇と退屈の倫理学』新潮⽂庫

コッカ、ユルゲン(2018)『資本主義の歴史─起源・拡⼤・現在』山井敏章訳、⼈⽂書院

小宮山康朗(2006) 「 「DP 神話」を超えて─「豊かさ」を伝えるための新たなアプローチ」『放送研究と調査』NHK放送文化研究所、pp.42-59

スミス、アダム(2013)『道徳感情論』高哲男訳、講談社学術文庫

スミス、アダム(2020)『国富論』高哲男訳、講談社学術文庫

関根宏朗(2009)「エーリッヒ・フロム「自己実現」論の再構成 ─「持つこと」と「在ること」の連関に注目して」『教育学研究』76、pp.334−346

袖川芳之(2020)「欲望の構造分析によるガルブレイスの“依存効果”の再検討」The Faculty of Economics and Business Administration Journal, KUAS, Vol.1,March 2020、pp.59−7426

袖川芳之(2016)「幸福感と消費の未来」経済社会学会 第51回全国大会共通論題発表論文経済社会学会年報 Vol.38 pp11-24

鶴見哲也、藤井秀道、⾺奈木俊介(2021)『幸福の測定:ウェルビーイングを理解する』中央経済社

中村淳彦(2015)『女子大生風俗嬢─若者貧困大国・日本のリアル』朝日新聞出版

中村淳彦(2019)『東京貧困女子。─彼女たちはなぜ躓いたのか』東洋経済新報社

根井雅弘(2021)『今こそ読みたいガルブレイス』インターナショナル新書

ハラリ、ユヴァル・ノア(2016)『サピエンス全史(下)─⽂明の構造と⼈類の幸福』柴⽥裕之訳、河出書房新社

ヒッケル、ジェイソン(2023)『資本主義の次に来る世界』野中⾹⽅⼦訳、東洋経済新報社

ピケティ、トマ(2014)『21世紀の資本』みすず書房

フレイザー、ナンシー(2023)『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』江⼝泰⼦訳、ちくま新書

ブレグマン、ルトガー、野中香方子(2017)『隷属なき道─AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』文藝春秋

フロム、エーリッヒ(2000)『よりよく⽣きるということ』堀江宗正訳、第三⽂明社

フロム、エーリッヒ(2020)『⽣きるということ 新装版』佐野哲郎訳、紀伊国屋書店

的場昭弘(2022)『資本主義全史』SB 新書

マルクス、カール(1972)『資本論』岡崎次郎訳、大月書店

丸山俊一、NHK「欲望の資本主義」制作班(2017)『欲望の資本主義─ルールが変わる時』東洋経済新報社

丸山俊一、NHK「欲望の資本主義」制作班(2018)『欲望の資本主義2─闇の力が目覚める時』東洋経済新報社

丸山俊一、NHK「欲望の資本主義」制作班(2019)『欲望の資本主義3─偽りの個人主義を超えて』東洋経済新報社

丸山俊一、NHK「欲望の資本主義」制作班(2020)『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』東洋経済新報社

丸山俊一、NHK「欲望の資本主義」制作班(2022)『脱成長と欲望の資本主義』東洋経済新報社


URL

Netflix(2020 年 9 月 9 日公開)「監視資本主義:デジタル社会がもたらす光と影」
https://www.netflix.com/title/81254224?s=i&trkid=255824129

Helliwell, J. F., Layard, R., Sachs, J. D., De Neve, J.-E., Aknin, L. B., & Wang, S. (Eds.). (2023).World Happiness Report 2023. New York: Sustainable Development Solutions Network.
https://happiness-report.s3.amazonaws.com/2023/WHR+23.pdf



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