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ハードボイルド書店員日記【88】

「先輩、ミシマ好きですか?」

数週間ぶりに空気が潤った日曜の朝。最高気温は前日より6℃低く、春の名残が縦横無尽に吹き荒れている。高層マンションが建ち並ぶ通りを避けて駅から歩いた。

こういう日こそ新刊をじっくり吟味する。事務所のPCは他の社員が使っているのでカウンター脇のものを使う。真ん中のレジでカバーを折るアルバイトの大学生に声を掛けられた。

「ベイスターズのピッチャー?」「なわけないでしょう」国立大の文学部に在籍中で来春から院へ進学。人生経験の一環としてウチで働いているそうだ。「『青の時代』のミシマなら」「え、そこでその作品を挙げますか」あからさまに失望のニュアンス。「おかしい?」「おかしくはないけど、普通は『仮面の告白』とか『金閣寺』ですよね」「その辺は一度しか読んでない。でも『青の時代』だけは何度か」「へえ」鼻まで覆ったマスク越しに落胆が伝わる。噛み殺した欠伸の気配と共に。

「ぼくはあれミシマにしては軽いと思ったんですけど」「まあそうだな。終わり方が唐突だし本人も失敗作と認めている」それでも俺は楽しめたと告げた。「そんな人初めてです」「わかるよ。君の周囲には『青の時代』が好きなんて無粋な輩はひとりもいない」「まあ」「ドストエフスキーの話題で『賭博者』を推す声も皆無だろう」「ほぼ『カラマーゾフの兄弟』一択です。『罪と罰』ですら軽いと」「つまり君は『罪と罰』の方が好きなわけだ」バイト君が黙って頷く。

「好きなら好きでいいじゃないか。見下されるからって己の考えを曲げる必要はない」「『青の時代』のどこが」「ああいう類の闇堕ちに惹かれるんだ」「闇堕ち?」カバーを折る手がいつしか止まっている。「主人公の川崎誠は誰もが認める真面目な優等生だろ? でもふとしたきっかけで己が信じ込まされていたものの欺瞞に気づき、正反対の陣営へ身を投じてしまう」「ドアーズのジム・モリソンみたいに」「よく知ってるな。もしくはスターウォーズのアナキン」「先輩にも同じ傾向が?」「なくはない。だから中規模書店の契約社員を選んだ」「社会に対する何らかの」「短絡的にそういう目で見てくる者の期待は裏切りたくなる。おまえらの勝手な願望を重ねるなと」「誠が再従妹の易にカネを渡したように」「わかってるな」「いや、ぼくは」お客さんが何人か来た。連れではない。

列がようやく途切れた。もう12時を過ぎている。「そろそろ休憩に出るぞ」「さっきの話ですけど」「ん?」「『青の時代』はホリエモンの事件の時によく売れたって聞きました」「らしいな。でも全然違うよ。共通点は大学時代に起業して大成功した後に凋落したことだけ。誠の生い立ちや外見、会社の業務内容、結末に至るまで似ても似つかない」「共に拝金主義という点は?」「堀江さんは露悪的にそういうニュアンスの発言をする。でも俺は違うと確信してるよ。あの人はお金ではなく、やりたいことを全部やるのが好きなんだ。そのために大量の資本を要するだけ」また考え込ませてしまった。彼の周りには存在しない見解なのだ。

「あの。最後にひとつ」「ん?」「ぼく『豊饒の海』がどうしても面白いと思えないんです」ミシマが最後に書いた全4巻の長編小説だ。「でもなかなか口に出せなくて」「そうなのか」「先輩は好きですか?」「読んでない」「え?」「読んでないんだ。悪いな」「意外。いやでもすごいな。ぼくは負けを認めるみたいで率直に言えないから」大方『カラマーゾフ』も未読なのだろう。「君と同じ感想を抱いている人が他にもいた」「誰ですか?」「ちょっと待って」カウンターを出て中公文庫の棚へ行き、一冊を手にして戻る。「三島由紀夫 石原慎太郎 全対話」だ。

「そんな本あるんですね」「2年前に出た。互いに忖度せず、率直な意見を戦わせている。極めつきは石原さんの書いた『あとがきにかえて』だ」「そこで『豊饒の海』はダメだと?」「自分の目で確かめな」「後で買います」さっきまで瞼が閉じかかっていたのに、いまは眼球がプリズムだ。「君はモリソンになるかもな」「先輩はその方がいいのでは?」「他人の人生航路に責任は持てない。いまいくつ?」「22です」「5年後にもったいないことするなよ。15年後にも」「大丈夫。先輩やミシマと違ってぼくはガチのエリートだから。少なくとも45歳よりは長生きしますよ」「ならこの国をどうにか」「勝手な願望を重ねないでください。やるならどうぞご自分で」若者のハートに火をつけてしまった。三島さんさすがだよ。

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