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ハードボイルド書店員日記【170】

文庫のミステリィフェアが始まった。

国内外の約20点。基本的には担当のセレクションだが、他の人の案も活かされている。選んだ人の作ったPOPが付されているのもポイントだ。

「ちょっといい?」巡回でフェア台の横を通った際、中年の男性に声を掛けられた。「いらっしゃいませ」「これはおかしいよ」右手人差し指の先を追う。新潮文庫「カラマーゾフの兄弟」だ。全3巻でいずれも600ページ超。誰の選書かは述べるまでもない。

「ドストエフスキーは文学でしょ」「あの、お客様はこちらをすでに」「読むわけないじゃん。俺、説教臭いの嫌いなんだよ」なるほど。

「他のに変えな。その方が絶対売れる。店員の好みを押しつけられても困るんだよ」「お客様はどのようなミステリィをお好きですか?」「伊坂幸太郎」思わず顔を見た。「何だよ。馬鹿にしてんの?」「いえ。私もファンなので」「機嫌とってるつもり?」「マイベストは『砂漠』です」「ああいいね。ミステリィじゃないけど。アイツ熱いよな。名前なんだっけ?」「西嶋ですか?」「最初の章の合コンでいいこと言うんだよな」「新潮文庫版だと108ページですね」こんなことが書かれている。

「そうやって、賢いフリをして、何が楽しいんですか。この国の大半の人間たちはね、馬鹿を見ることを恐れて、何にもしないじゃないですか。馬鹿を見ることを死ぬほど恐れてる、馬鹿ばっかりですよ」

「よく覚えてるな」「今回はガチです」「今回は?」「お気になさらず」「まあ、でもそうか。『カラマーゾフ』をここにぶっこむのも相応の覚悟があるんだよな。売り上げを落として馬鹿を見ることを恐れたらできない」「そう仰っていただけると」「名作なんだろうなとは思うよ。読んだ人はみんな絶賛してたし。ただこのボリュームで3冊は」「それでもOKです」「どういうこと?」「頭の片隅に存在が残れば、何かの機会に思い出して『あの時勧めていたなあ。試してみるか』となっていただけるかもしれないので」「ここじゃなくても?」「もちろん商売ゆえ、当店でご購入いただけるのがいちばん嬉しいです。しかし他店やネットであっても推した本を買っていただき、何かの活力にしてもらえたら書店員冥利に尽きます。微力ながら公に貢献できたと感じられますから」

大笑いされた。「俺が『カラマーゾフ』を読んだって世の中は良くならんよ」「そうでしょうか?」「俺、酒もギャンブルもやばいから。文学ぐらいじゃ変えられない」へっへっへと黄色い歯を覗かせる。「お客様、ぜひ下巻の555ページを」こんなことが書かれている。

「抑えきれぬ遊興の欲望にかられた際でも、もしもう一つの面から何かに心を打たれたならば、踏みとどまることができるのです。そのもう一つの面とは、愛です」

「いやいや、だから俺は本にもアンタにも説教なんか求めてないって」唇を歪め、顔の前で右手を振る。「そうじゃないんです。実は私も欲望に弱い人間でして。昨日も駅前のミニストップで、ついベルギーチョコパフェを」「あれ美味いよな」「そんなことをしているから、給料日前はいつもカツカツで」「ダメじゃん」「ダメなんです。でも友人の誕生日が近いと、プレゼントを買うために節約します」「だろうな」「ちゃんとできるんです。不思議だと思いませんか?」「まあ」「難しいことを教えるのではなく、私たちがすでに知っている単純な真実に気づかせてくれる。それが文学の効用ではないでしょうか?」

「話はわかったよ。たださ、最初に戻るけどそもそもミステリィなの?」「ある意味では。殺人事件が起きて容疑者が逮捕され、でも本当にそいつが犯人なのかと」「そういう話なんだ」「そのエピソードは中巻ですが、上巻の段階から伏線がいくつも示されます。ミステリィとしても味わい深い。だからこそ選びました」カウンターでベルが鳴らされた。長蛇の列ができている。

慎重にレジを打つ。「お待ちのお客様どうぞ」さっきの男性だ。照れたように笑っている。利き手に上巻。「いらっしゃいませ」「試してみる」「合わなかったらすいません」「決めたのは俺だ。アンタのせいじゃない。合わないってわかればそれも気づきだろ?」頭を下げた。

数週間後、同じ人が中巻と下巻を買ったと同僚が教えてくれた。「砂漠に雪が降るってこういうことかな?」怪訝な顔をされた。「いや何でもない」

笑われても馬鹿にされてもいい。奇跡は起こせるのだ。

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