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ハードボイルド書店員日記【136】

「どんなに成功してても、こういう人間はダメだよな」

小雨がぱらつく平日の昼下がり。半休だ。職場から遠ざかり、広い交差点に面した急な階段を下る。古びた自動改札に昭和を感じ、記憶違いに気づいて苦笑を噛み殺す。数年前までは連日使っていた路線だが、利用したことのある駅はふたつしかない。

なぜ急に行く気になったのか。目的らしきものを後付けで見出したときにはすでに電車を降り、すれ違いに気を配りつつ狭い路地を直進していた。湿った路肩の上を黒い猫が歩んでいる。

着いた。入ってすぐ左にレジがある。こちらは本当に昭和の頃の製品だろう。背が高い白髪のメンターが、常連らしき同年代の男性の話に耳を傾けている。メンターとは私が与えた己の中だけの呼び名である。実態は11坪の本屋をひとりで支える店長だ。

「たしかに褒められたことではないですねえ」カウンターの上に写真週刊誌が見えた。某プロスポーツ選手の不倫スキャンダルが表紙のセンターを占めている。「だろ? さっさとクビにすりゃいいんだ。でもさ、こうやって人の私生活をいちいち暴くマスコミも俺はどうかと思うね」雑誌を叩き、同意を命じるように相手の顔を睨む。

「よかったらそちらの本、いかがですか?」メンターの細長い指がレジ脇の平台に展開されたフェアへ伸びる。「追悼・原 尞さん」と筆ペンで綴られたPOPと共に、直木賞作家の遺した名作たちが並んでいる。「どれ?」「デビュー作の『そして夜は甦る』です。いま仰られたことへの答えが記されてますよ」「ふうん。ハードボイルド? 大沢在昌みたいな」「ですね」「じゃあ好きなやつだ。一冊買ってみるか。ここに本屋があるとは知らなかったよ」「またぜひ」週刊誌と文庫本の入った深緑のビニール袋を受け取り、嬉しそうに店を出た。

改めて向き合う。照れ臭さが込み上げ、互いに意味もなく笑った。

「ご無沙汰しております」「いやあ」「相変わらずですね」「何が?」白いマスクの下にイタズラを見抜かれた悪ガキの表情が浮かぶ。「いまの人、常連さんじゃないんですね」「初めて見る顔だよ。コンビニで売り切れてて仕方なく来たのかな」同感だ。「原さんのフェア、店長ならやってくれてると信じてました」「なぜ?」「前に見ましたから」かつては某商業施設の2階に店を構えていて、しばらく働かせてもらった。だからいまでも店長としか呼びようがない。

「それでわざわざ足を運んでくれたの?」「まあ」そういうことにしておく。「他にも気に入る本があるといいけど」「そりゃもう。ワクワクします。どのジャンルにも最初のトリガーになる一冊が用意されていて」「ウチは『初心者に優しい選書』がモットーだから」「ある意味でさっきの方も初心者では?」「ああいうタイプはいいんだよ」悪びれる様子は微塵もない。「でもよくわかったねえ」「原さんの作品はすべて何度も読んでますから」

忘れもしない。ハヤカワ文庫版「そして夜は甦る」の75ページ。仕事中にカウンターの陰で写真週刊誌をこっそり広げる警察官と主人公・沢崎との間で、こんなやり取りがあった。

「撮るほうが悪いとか、いや、撮られるほうが悪いとかいろいろ言われるけど、お宅はどう思う?」
「雑誌を買って、読むやつが一番悪いのさ」

あの男性は正義漢になった心地で家に帰り、件のページを開いて初めて自分がどう見られていたかに気づく。いや、すでに何もかも忘れて他の甘い蜜を探しているかもしれない。

「全部読んでるのに来てくれたの?」「これが欲しかったんです」文庫版「そして夜は甦る」の横に2冊だけ積まれたハヤカワ・ポケット・ミステリ版を手に取る。5年前、著者のデビュー30周年を記念して刊行された。山野辺進の手がけた装画を眺めるだけで腰が砕けそうになる。

「大型書店でもなかなか置いてなくて。でもきっとここなら」「内容はほとんど文庫と変わらないよ」「いいんです。たしか沢崎のサワが難しい方になってるんですよね」「そっちが正式ってことらしい」「下の名前はわからずじまいですね」「いいんじゃないかな。知らなくてOKなことも世の中には多いよ」「東京五輪の裏側とか?」「それは知っておいた方がいいね。オリンピックを開催する目的はああいうものじゃないから」叫びたくなった。変わっていない。この人はメンターだ。

購入した数冊にカバーを掛けてもらった。オリジナルの栞も挟み込んでくれた。「また来ますね」「いろいろなタイプの書店を見て、自分の店の客層に合いそうな本を探す。それがいちばんだよ」「実行します」「頑張って」一歩外へ。足元でにゃあという声がする。雨はすっかり上がっていた。

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