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ハードボイルド書店員日記【151】

「徴兵制について書かれた本はありますか?」
スタイリッシュな細身の男性。20代前半か半ばぐらい。「少々お待ちくださいませ」キーワード検索を掛けてもヒットしない。そこからが真骨頂だ。「置いてそうな場所へご案内します」

「こちらはいかがでしょうか?」
井上達夫の「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」を社会学の棚から抜き出す。「リベラル? 護憲的な内容でしょうか」整えられた眉がかすかに曇る。「でもないです」井上氏の唱える「九条削除論」を説明するには時間が足りない。そもそも私が浅い理解に基づく粗末な理屈を拙い口調で話すよりも、当人の著した本を読む方が正しく伝わる。

記憶を頼りに59ページを開く。そこから数ページに跨ってこんなことが書かれている。

「もし戦力を保有するという決定をしたら、徴兵制でなければいけない」
「かつ、その徴兵制で、良心的兵役拒否を認めなければいけない」
「なぜかというと、無責任な好戦感情に、国民が侵されないようにするためです」
「良心的拒否権を行使する人には、よほど厳しい代替的役務を課さなければなりません」
「同胞兵士が生命をかけて戦ってくれるおかげで得られる安全保障の利益は享受しながら、自分だけ安全地帯に逃れるための口実として良心的拒否権を濫用することを許さない」

見入っている。ふと彼は私と同じ意見かもしれないと感じた。

「この井上さんという方は厳しいですね」「たしかに」「徴兵制は正直嫌です。でも一理あるなあと思っちゃいました」本を閉じ、ひとつ息を吐く。「ぼくは奨学金をもらって大学へ通う身です。世の中のことなんて何もわかっちゃいない。それでも自分と自分の愛する人たちのために戦う覚悟は備えているつもりです。平時だし口では何とでも言えますけど」軽く頷いて続きを待った。「ただぼくら庶民の生活をメチャクチャにした国のために戦えるか、死ねるかと問われたら」「でも国のおかげで私たちはこうして」「仰る通りです。しかし守るべき国とは何でしょうか? 必ずしも現在の政府とイコールではないはずです」

先ほどの予感は正しかった。ただ危険な話題になってきたのも事実だ。ましてやいまは仕事中。誰が聞いているかわからない。私の意見が会社のそれと受け取られるのも本意ではない。

「ずるい言い方かもしれませんが、この本を読んで考えてみませんか? 私も家にあるのを再読します」先送り。しかし男性は「そうですね」と爽やかに微笑んでくれた。「教えていただいてありがとうございます。書店員さんってどなたもこんな感じなんですか?」「いえ、私はたまたまこういう書籍が好きなので」「難しい本が好きでたくさん読んでいる店員さんを見極める方法はありますか?」少し考えて答える。「自分で本をたくさん読むしかないですね」

ああいうお客さんを特別扱いはしたくない。マンガや週刊誌、文庫本を買いに来てくれる方も大切だ。だが彼みたいな目的で足を運んでくれた人に納得してもらえる場所にしたい。そのためにできることは? 

答えは明白だ。さっき自分で話したじゃないか。私は彼に何も教えていない。彼が私に気づかせてくれたのだ。

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