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ハードボイルド書店員日記【113】

「箱、は間違いないんだよ」

クリスマス商戦が始まった週末。シェイクスピアの語彙を借りると、施設全体がテンペストに覆われている。書店内の暴風域は疑いなく児童書コーナーだ。目に見える部分は台風真っ只中のゴミ捨て場。下のストックは大幅に遅延した帰宅電車の車内。依頼を受けた本のサルベージが普段の百倍難しい。

レジから離れた時間は棚整理と万引き防止の巡回、そしてお問い合わせへの対応でほぼ消える。平積みの上に別の本が載ると、それだけで売り上げが落ちるのだ。

文庫フェア台の脇を通る。年配の男性が担当の女性と話していた。「申し訳ございません、著者とか出版社は」「だからわからないんだって」この時期は苛立っている人が多い。そして負の感情はすぐに連鎖する。「どうしたの?」「あ、すいません。タイトルに『箱』が入っている推理小説をお探しで」「箱?」

真っ先に浮かんだのは京極夏彦「魍魎の函」だ。講談社文庫の棚に案内し、鈍器みたいな一冊を抜き出す。「違うね」「海外の本ですか?」「どうだったかなあ」「長い話ですか?」「思い出せない」文庫担当には品出しに戻ってもらった。ブックトラックに載ったままではお客さんが買えない。

「タイトルに『箱』が入ってるんですね?」「そう」「その本のことはどちらで」「だいぶ前に題名だけ目にしたんだ。何かの小説にたとえ話みたいな感じで出てきて」「その『何かの小説』の題は?」力なく首を振る。もどかしさが伝わってきた。居丈高に見えても悪いとは感じているらしい。「女好きの探偵が活躍してた」国内と海外を併せればいくらでもある。「どんなたとえでした?」「思い出そうとしてるんだけど」腕を組んで悩んでいる。

ひとつ閃いた。「もしかしたら『名探偵の失敗』に関する話題の中に出てきたのでは?」「失敗?」眉間に皺を寄せて天井を睨む。「……かもしれない」「でしたらこちらへ」

ハヤカワ文庫のコーナーで足を止める。クリスティー文庫「ポアロ登場」を取り出した。「短編集です。この中にたしか」目次を見る。あった。「こちらの『チョコレートの箱』ではないかと」「どういう話?」簡単に説明した。「それだ!」暗い表情の奥から陽光が覗く。「完全に思い出したよ。どんな名探偵でもミスは犯すって会話の流れで、ライバルの女探偵が『”チョコレートの箱”ってわけね』と」女探偵? なかなか興味深い。

「よくこの本に入ってるってわかったね」「家にあるんです。装丁は昔のものですが」「推理もの、けっこう読む?」「少しは」「オススメある? 日本のもので文庫がいいんだけど」「ございます」

創元推理文庫の棚へ移った。天藤真(てんどう しん)の「大誘拐」を手渡す。「聞いたことあるなあ」「映画やドラマになってます」「たぶん誘拐された人が犯人に知恵を貸す話だよね」「読まれてますか?」「いや。でもよくあるパターンじゃない?」どう言えば伝わるだろう。店内以上のテンペストが脳細胞の中で吹き荒れる。

「何年か前に、おにぎりの専門店が初めてミシュランガイドに掲載されましたよね」「ああ。浅草の」「おにぎり自体は子どもでも作れます。しかしあのお店の味は出せません。手先の器用な人なら形だけは同じようにできる。でも中身は」「熟練した職人にしか生み出せない。一見誰でも書けそうな筋だからこそ違いを実感できる」拍手したくなった。多少記憶力が衰えていても、やはり推理小説を読む習慣のある人はロジックへの対応力が素晴らしい。

カウンターが空いていた。まさに台風の目だ。レジを打ち、二冊にカバーを掛ける。ハヤカワ文庫は若干サイズが大きい。いつもは専用のものを予め作って常備している。繁忙期ゆえか切らしていたのでその場で折った。「仕事が速いね」「以前『卵を三つぐらい同時に割れそう』とお客様に言われたことが」「やるの?」「専ら固ゆで派で」間を置いてから笑ってくれた。「いろいろありがとう。助かったよ」「いえ」「推理小説って面白いよね。よく文学と比べられて馬鹿にされるけど」「『大誘拐』巻末の解説で、著者のこんな発言が取り上げられています」記憶の底を掘り起こす。

「推理小説とは『錯覚』を主題とした文学ではないか」

また買いに来るよ。ありがたい一言が染み渡る。ふと考えた。この仕事も誰でもできると馬鹿にされがちだ。反論したい。「書店員とは『良書の紹介』を特技とした専門職ではないか」と。

現実と理想は必ずしも一致しない。ポアロの脳細胞も最初は灰色ではなかったのだろう。だが諦めなかったから多くの難事件を解決できた。自分にはできる。根拠のない「錯覚」でもいい。信じて地道にやっていく。

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