「感情」と「理論」は、「想い」の表現方法の違いにすぎない。



自分は今でこそ理論型だけど、

生まれた時からを振り返るとそうではなかったことに気が付く。

元々は感情型でなく、超直感型。

幼少期から勘の鋭さだけはずば抜けていたので

ふとした自分の一言で大人を怒らせることが多々あった。

「どうして間違ってないのに怒られるのか」

そう思うことが度々あった。

また、他者への共感性は低いものの

人の気持ちというものにはとてつもなく敏感だったので

集団の中の弱者、イジメられている子の肩を持つことは多かった。

「表立ってのイジメはないものの、何かヘンだ。」

直感的にそう思うとさりげなくその子に寄り添い

よくよく話を聞くと前から精神的なイジメを受けていたと。

で、その子は何も言い返せないから

自分1人でイジメてる奴数人相手にボロクソ文句を言うこともよくあった。

あと自閉症の子の世話を任されていた時期があったので

その時は教師にさえボロクソ言う事が多かった。

それで自分も標的にされることもあったけどそれはどうでもよかった。

おかげですっかりケンカ慣れしてしまったけどそれもまたどうでもいい。

このへんが自分の無差別性とか変な正義感だとかにも繋がるだと思う。

しかし、あまりに勘が良すぎるのも災いするらしいとは昔から思っていた。



自分だけかもしれないけど昔から

「感情」というのは「想い」を伝えるための一つの表現方法にすぎないと思ってる。

「表現のスパイス」とでも言ったらいいのか。

粉チーズをかければまろやかになるし

一味唐辛子をかければピリッと辛い

ハーブはその食材にはない独特な香りづけをし

ブラックペッパーは食材全体を引き締める

だから

「人の気持ち」とは想い、食材だとすれば、

「感情」はその想い、食材を引き立てるためのスパイス、となる。

理論型である自分は普段「感情」に極力頼らない手段として

想い、食材を出来るだけそのまま活かすように

分かりやすい言葉を使って「理論」を展開する。

料理で言うと刺身の盛り合わせみたいなものだと思う。

鮮度のいい魚を見極める目

魚を捌く腕

盛り付ける皿のチョイス、魚やつまをどう盛り付けるかのセンス

お客さんの状況を見てピンポイントで提供できる広い視野

どんな薬味を使っても素材の味が損なわれないという緻密な計算

そういう表現方法が「理論」だと思っている。




つまるところ

「感情」にしろ「理論」にしろ

言葉を使って「想い」をどう表現するかの方法の違いにすぎない。

言葉を発することが出来ない人間であれば

「芸術」という表現方法を取るかもしれないし

言葉に代わるものとして「手話」を用いるのかもしれない。

また「想い」が顔の表情や動作に出やすい人間もいれば

まったく出ない人間もいる。

人間の数やその人間のおかれている状況によって

「想い」の伝え方が違う。

またその「想い」をどこまで汲み取れるかという周りの人間の目も

無数に存在する。

だからこそ、「想い」のすれ違いが起こる。





自分の場合は

本来持っていた超直感型と理論型が組み合わさっている。

だからこそ、本質を見抜く目はとんでもなく鋭い。

そして歳をとるごとに理論そのものと展開方法が増えていったので

それとともに視野も広くなりセンスも磨かれていったように回顧する。

時として、「想い」を強く伝えなければいけないというときだけ

「感情」というスパイスを使う。

これがキレた時に出やすいということだと思う。

同時に、理論型だからこそ

感情の取扱いが下手なのかもしれないとも思うところでもある。







拙い文章お読みいただきありがとうございました。






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