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イスラム世界は女性抑圧の世界かー個人的所感

イスラムは女性が布をかぶらされて社会的にその存在を消されているから、

女性抑圧の宗教なんだ!


っていうのが一般の方々にとっての理解なのだろうかと思うことが多々。


ちなみにわたしは現場にいて、これは女性がかわいそうだ!と思ったことが………ない(↓DVはさすがにかわいそうだったが、そのくらい)。

学校に行かさせられなかったりするだろう!(マララ・ユースフザイ氏のこととか)といわれそうだが、中国の新疆にいたころは、そのころ入手した資料によれば、ウイグル族の大学進学率は、女性のほうが男性より高かった。その理由を友人に聞くと「だって男は土方とか力仕事でいくらでもお金を稼げるけど、女はそうはいかないじゃない。だから親がせめて学問ぐらい身につけさせてやらないと、って思うんだよ」

とのことであった。



マララ氏の事を話しても、イスラムでは女性の学業を制限すべきという話がそもそもないので(すべてのムスリム/ムスリマにとって学ぶことは義務であるという文言を示される)、「イスラムが」マララの学業の妨げになったはずがないので、マララの部族の考え方か、コーランの理解のしかたが違っちゃってたんでないの、となり、だれも「イスラムに」絶望したり失望したりはしないし、マララに共感をいだくこともない。

わたしのみたイスラム世界では圧倒的に女性は学んでいる(大学まで行ったうえトルコでさらに留学しようとしていた友人のエピソード↓)。

そもそもわたしの博士論文は、ウイグルの女性が布をかぶらされ、外に買い物に行ったりせず、その時間のほとんどを家ですごすことが、彼女の社会性を減じることにまったくなっていない、というものだった。


スカーフで頭髪からあごまでを覆い、マスクをして、こちらからは目だけしか見ることのできない女性に「日本では女の人達はわたしたちみたいに自由?それとも不自由?」と聞かれ、返答に困った。

熊谷 2011『食と住空間にみるウイグル族の文化-中国新疆に息づく暮らしの場』p229


それは、家が「私的空間」などではなく「女性の社会空間」であり、女性は家から家へ移動し親族間や友人間のつきあいをすることができるが、男は外へしか行けない(人の家には行くことはできない)、というもので、またこの男性の「外」という社会空間でのネットワークもまた、女性同士の活動によっても支えられている、というものだったからである。

日本で某イスラム研究の大御所に
「イスラムは女性差別なんかじゃないよ」といわれたときに
「ああ、それはわかってますので」
とわたしは答えていたが、
それはこの調査の経験があったからである(細部のつっこみはとりあえずおいといて)。


パキスタンでも、滞在した世帯にいた小さな子供たちは、男女にかかわらず就学していた。その後の高等教育に関しては男性のほうが高めだったので(世帯の家長氏はカラチでペルシア語を勉強しており、同じくカラチで勉強中の弟もいた)「う~ん、男性重視という側面もあるのかな」と思っていたのだが、わたしのフィールドワーク中に異様に学習意欲の高かった17歳の女の子が、後に地域の大学の修士(化学)にすすんだという話をきいて、本人次第だったのかと思った次第である。



ウイグルの家のつくりを研究したときのわたしの問いは、そもそも日本や西欧では「私的」と「公的」を区分するために家という空間があるけど(客間→居間→寝室)、イスラムは、ウイグルはどうなっているの(資料をみるとどうもそれっぽくない)?その実態は?というものだったのだが、その結果としてあらわれた「男性の社会空間(外)」と「女性の社会空間(家から家へ)」という2つの空間のサンドイッチをみると、「私的」空間はどこ?!(これだとある意味どっちをむいても「公的」)、外部の人間のはいれない際限なくダラーッとできる場所なくない、ということにならざるをえなかった(寝る場所は客込みで男同士、女同士、夫婦とでわけられるかたちになる)。しかし、外部の人が常にアクセスしてくる場所にいても平気という肌感覚の人がウイグルだったので(だから私のような人間がいてもふぅん状態で、人々が平気でいることがおもしろくてしょうがなかった)、人間って……!??と説明がしきれなくなったことが、わたしがその後も研究をつづける動機になった。

この人間としての「あたりまえ」がずれる、というのを言語化するのが私の研究の目的のひとつなのだが(それはわたし自身にもおしつけられてきた「あたりまえ」のリミッターを外し、そのうえで「人間」を再考築してみたい、ということになる)、この異文化(こうするのが普通でしょ、人間ってそういうものでしょ、が通じない)の言語化というのはむずかしいものなのだろうか(学会でも「ふつうはこうでしょ」は聞くしねぇ)。
違うということを言語化してしまうと、差別になってしまうからなのだろうか。
あるいは、「わたし」が「それ」にすぎないということがつきつけられるからなのだろうか(いずれにしてもあやうくて難しい領域だとおもう。疑う余地もないと思っていた部分をつきくずされるというのは。慣れ親しんだ日本語が「偏ってる」といわれてもそれを日本語でどう表現するのか、という部分もある)。

まあくりかえしになるが、わたしのやりたいことはいつも「それ」にすぎないことを確認したうえでそのうえでの可能性をさぐる土台を再構築することである。


ウイグルの「女性の社会空間(家から家へ)」は大変優秀で、
北京にいこうがイスタンブルに行こうがメッカに行こうが機能していた。
つまり女性が単身(道々同行者はいたとしても)でどこまでも(わたしがみた限界的にはメッカまで)行ける。


イスタンブルにいたときは、家には新疆やクルグズスタンから商売にきた女性たちがおり、訪問者にも、離婚してベビーシッターをしながら家々のあいだをわたりあるいている女性や、離婚して商売をしている女性がいた(全部ウイグル)。

そこでは閉じこめられて無学なままでいる、行動力もない無力な女性というのはいなかった。

(↑パキスタンの映画だが、女性は行動力あるし、行動した結果、助けてくれる環境もまたあるんじゃないの、とわたしなどは思わされた[フンザ周辺の地域がみられてたのしい])

ウイグルでも、不本意な近親結婚を父親から提示された友人が、
「お母さんに頼んで上手に断ってもらいました♪」
と言っていたのを聞いたことがある。
意外と男性のおもいどおりになるもんでもないんだよな、と思っている。

カイロでは中卒の配偶者をなくした初老のアラブ人女性が外国人相手にハウスクリーニングと料理のケータリングをしながら稼いでいた。

また、離婚をしたばかりの若いアラブ人女性がサウジアラビアで暮らす家族から離れ、ひとり空港のグランドスタッフをしながら親の残していったカイロのマンションでひとり暮らしをしていた(サウジアラビアだと女性のできる職業が教師しかないのだといっていた)。
未婚女性の場合は親の保護が必要とされていたと思うが、離婚女性だとここまで自由なのである。


(名誉殺人など、未婚女性の性に対するこだわりがどこを出発点としているのか、これはわたしはいまだ言語化できていない。だいたいアラブ世界の名誉殺人なども、女性同士のあいだでばれた場合は意外と穏便なのに、ひとたび男性にばれると凄惨なことになるのは、男性社会の問題ではないかと思うので、そこをやれたらと思うけど、男性のことなので男性研究者よろぴこである。)


スカーフなんていう布きれをかぶらされるのは屈辱的だという意見が女性にあるかもしれないが、
イスラム側で聞いた説明としては、
神様は男性を女性の容姿にひきずられやすくつくったので(なんで?笑)。
だからかぶれば男性にじろじろみられたりジャッジされたり、仕事上で「女」扱いされたりすることがなくなるよ、と思えば、なるほどな、と思う。
スカーフをしていると、男性のほうでは「自分の弱さのために神の命令にしたがってくれた女性」という見方をするらしく、道では礼儀正しくよけてくれたりするので、よし(性被害に比較的あいにくい)わるし(暑い、食事がしにくい)なのである。

ただしこの場では女性は「弱さ」のアピールは意味を持たないので(日本に特有の?)商売や交渉でもぐいぐいいかなければならない(イスラム圏に入るとわたしなどは気合がはいる)。


あれ、実はイスラム世界って結構いい世界じゃね?


ひとつ思うのは、そうしてじぶんたちの性表現を守りつつ、
スカーフの制作&販売をしていたトルコのウイグルの友人のはたらいていた会社(社長もウイグル)が、販促が現物の写真だけだったり、マネキンの着用写真だけだったりしては売れない、ということで、ウクライナ人のモデルをつかってスカーフのカタログ写真をとっていたことである。

あ、ずるいなぁ、とわたしは思った(イスタンブルの街頭には女性の販促写真があふれているが、それはこういうカラクリだったのか…という)。

友人は「ウクライナ人だってアッラーの被造物なのだから彼女をモデルに使うことは卑怯だ」とか社長にくってかかっていたが(正義漢)、おしきられて結局販促写真はとっていた。

イスラム世界はイスラム外の世界を必要としてまわる社会なのだとしたら、それもまた不完全な世界だなぁと思うところもある。


ともかく、イスラム世界の女性は学ぶことを制限されていないし(イスラムを理由に)、わたしのみてきた女性は男性の思い通りになるしかない無力な存在ではないし(夫にとっての性的な存在としての女性、という意味では夫の意見はおおむね通るものとなっているが[服装とか行く場所とか]、性以外のことに関してまで[親戚の家に行ったり女性同士で集まったりすることまで]行動制限があることはあまりない、と思う)、
スカーフをかぶらされて、家(私的空間)にいることを強制されている哀れな存在ではない(スカーフをかぶっているのは「女性の社会空間」の一員であるということを表明しているわけで。アフガニスタンのブルカなどをみせられてもわたしはあまり深刻な差別だなどとは思わない)。


ただ住んでいる世界の前提が違うし(わたしからいうなら、基礎的な空間秩序のありかた)、条件も違う。そうなると発想のしかたもぜんぜん違う。


そのうえで彼我の未来について思いをはせられたらと思うのだが、


そこを周知したりする力の一端にわたしがいまだになれていなかったのは、まことに遺憾、かなぁ。


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