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「カオス営業」〜トラと羊〜

BARを営む上で最も充実感が満たされる状況のひとつに、「一体感」がある。
店が意思をもった巨大な生命体に変わる。
スタッフのバースデー祝いや周年などで時折見られる現象だ。
お客さんとスタッフの求める思いが一体となって湧き起こるウェーヴ感がそれを可能にする。
「ああ、お店を続けていて本当によかった」
と、心底思える瞬間だ。
若いのも年寄りも隣に座った面識のない者同士でも、すぐに旧知の中よろしく打ち解ける。
人は多幸感を抱くと必然のように酒の注文の頻度が増すものだ。
我々スタッフは接客もそこそこにドリンクサービスに追われて嬉しい汗を流す。
お客さんの話し声と笑い声だけがBGMである。
良質なジャズセッションをしているようでたまらない。これぞ理想の営業、BARの目指すべき桃源郷なのだと感じずにはいられない。

毎日のように、こんな素晴らしい営業がしたいものである。

だが現実は、そう簡単なものではない。
大半のお客さんは、日々のストレスでクタクタだ。
だからこそ店が存在しているのであるが、ごく稀に悪魔の悪戯のような"地獄の混沌"が訪れる。
一人ひとりならば、愉快で気のいいお客さんなのだが、噛み合わせの悪い相手、或いは同属嫌悪のエネルギーの放出が止まらなくなるのである。12日の木曜日でもあるまいに、ジェイソンやエイリアンやチャッキーが運命の好敵手を嗅ぎ着けてきたのか?と言うべく、スター級のトラ達が連続来店するのだ。
私を含むスタッフの誰しもが凍りつくのである。彼らの実力は身を持って承知しているから、その絶望的な近未来の予想が容易に想像できてしまうのである。

富裕層で承認欲求の塊りのようなお客さんAが、1人で来店した。トラの来店にスタッフは嵐の予感を覚える。このお客は1人でも立派なリーサルウェポンだ。
カウンターの隅に案内し、私が全霊で対応にあたる。
次いで、酒を飲まないのに、寡黙にスマホだけをいじくり続けるおじちゃんCがお一人様だ。ある意味でこちらもトラだ。
ここは様子を見ながらアルバイトが対応し、Aさんとは反対の隅席に通す。
なぜならば、AさんとCさんは犬猿の間柄なのだ。2人は同属だと気付いていない。
そこに、酔うと必ずと言っていいほどに松田聖子を絶叫し、店をカラオケBOX化するバリキャリ女子Bが、すでにベロべロの臨戦態勢で来店。
女トラでは最強の呼声が高く、彼女のトランス状態のトラ放出を回避できた者はいない。
そこには店長が入り、彼女の状況把握に努める。残念ながら彼女はカウンターのセンターに座ってもらうことになった。なぜなら、両のカウンター隅には、既にトラが配置されてしまっているからだ。
極力、AとCのトラから距離を保たなければ店がどうにかなってしまうのである。
この時点では2人のスタッフが対応に当たっているから、カオスマネージメントは機能していた。だが思わぬ誤算があった。
更に追い討ちをかけるように、6名の団体客が奥のテーブル席になだれ込んだのだ。
そして、料理や手数のかかるドリンクを立て続けに注文する。
こうなってしまうとスタッフはトラ対応が手薄になってしまう。
ま、まずい。
マークしているトラをフリーにしてしまう!

1年に数えるほどしかない「カオス営業」の不安が膨れ上がっていく。

団体6名は、そこまで馴染み客ではなかったから、問答無用の注文ラッシュが続いた。
甘えたことを言うと、もしも常連客の場合であれば、会話を交えながら少し提供を待ってもらえたりするものだ。だが、今回は一切の甘えは許されない。そうしているうちに、女子トラが松田聖子をアカペラで熱唱し始めた。
カウンターのど真ん中で松田ソングが店中に響き渡る。
「あなあーたにぃー、あーいたくぅてぇー」

奥の団体すら何が起こった?
とばかりに、一瞬ミーアキャットのようになり、女子トラを凝視する。
灰色の混沌の渦が店を覆っていく。

「うるせぇぞ!!」

トラAの眼が恫喝する。
もちろん女子トラにだ。
私がAのマークを外していた刹那だった。
松田ソングは一瞬止んだ。
すぐさま私はトラA、店長は女子トラのフォローに当たる。
女子トラは店長に
「なに?あの男、偉そうに」
とこちらに聞こえるように毒を吐く。
それを受けてトラAは、「は?」と臨戦態勢だが、私が身体を呈してそれを阻止する。
そこに運悪く来店した常連のカップル。
トラAと女子トラの間に座っていただく。
パーテーションの役割を期待しての席割りだ。
だが、甘かった。
女子トラはカップルの彼氏にロックオン。
そして、まさかのトラAは、その彼女にロックオン。
それぞれのトラがカップルの男女を口説きだす。まさに、ヒツジと化したカップルを、私と店長で救出活動だ。
更に、6名団体の1人が泥酔でトイレをジャック。ダメだ!今ここを離れるわけにはいかない!トイレからなかなか出てこない客が心配だ。もはや数人がトイレ待ち状態だ。
そこに30代男性Dが1人で来店。
女子トラとスマホCの間に着席していただく。
今度は、クルリと体勢を変えた女子トラが、今来たばかりの男性ヒツジを口説き出す。
そして、杏里の「オリビアを聴きながら」をリクエストだ。意図はなんだ?
すると、強引にお客Dを立たせて、チークダンスを強要した。まさか、踊り出すのか?
お客Dは、されるがままにマリオネットだ。
一方、顔面蒼白のゾンビが便所から崩れるように帰還した。
トイレを我慢していた次のお客が便所に入るなり絶叫する。便器は凄惨な吐瀉物の海だ。
ようやく料理を出し終えたアルバイトが、トイレに直行する。
いつしか、私の努力の甲斐あって(えっへん)ヒツジカップルはトラAと3人で仲良く話していたが、やがて一気大会が始まる。
彼女をかばって彼が無理を承知でオール一気。
来店30分でノックアウト。
彼女はトラAのなすがまま状態に。
私はどうにかしてヒツジ彼女を守る。
だが私と店長は収集のつかない現場に匙を投げかける。
トイレの臭いで、若干もらいかけたアルバイトが、涙を流しエズきながら現場復帰するが、同じく折れた心の修復には時を有した。

そして、女子トラが絶叫しながら一言。

「オリビア!もう一回よろしくぅ〜」

ヒツジと化したお客Dには、本当に申し訳なく思ったりもしたが、私たちはなす術もなく、ただ杏里の曲を再生するのだった。

カウンターの隅では、まだお客Cがスマホをいじくり続けていた。

トラと羊の関係性には、いつも不公平が付き纏う。だが、それを楽しみ笑い飛ばしてこそ、一流の飲み手になっていくものだと感じるのである。

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