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うたもいのちもことのはも、それは自然に生えてくるもの ①《140字の日記 46 ×140字のnoteことはじめ+ 》

それは梅花藻の葉先から酸素をたっぷりと含んだ泡が立ち昇るように。あるいは目白の囀りをだれも止められないように。もしくは蚕が糸を吐き繭を作ろうとするように。
ことの葉はおのずからくちびるから漏れ、筆を駆り立て、リズムをなして、あなたをさそい、共に歌うもの。いのちそのものであるもの。

 

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《140字の日記》のマガジンもあります。
https://note.mu/beabamboo/m/m855ee9417844

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 noteを毎日投稿しよう。そのためのノウハウはこうだよ!

 そんなふうな記事を見るたびに、五百蔵は、「なんかちがうよなー、なんかがずれてるよなー」と感じます。たぶん、ほかの人たちと違って、noteを100%は好きになれないのも、noteってめちゃくちゃいいよ!と手放しで称賛できないのも、そのあたりに原因があります。

 

 「毎日投稿」という目標を定めて、そのために手立てをうって、実行して、修正して……って、なんて前頭葉好みの営みなんだろう!……そう思っています。

 そういう意味では、この「毎日投稿ムーブメント」は非常に人間的な営みです。
 だって、前頭葉は人間に特徴的な脳みそのパーツですからね。

 だけど、その分、非自然的だと感じて、息苦しくなります。
 前頭葉に圧迫された、脳みその残りのパーツが、「いや、それ以前に、あんたは生き物だぜ!」と、当たり前のことを忘れていることに抗議し、抵抗しているように思えます。

 

・◇・◇・◇・

 

 カール・ニールセン(1865〜1931)の歌を聴いていると、はじめは、まるで詠み人知らずのメロディであるかのように、素直で単純であることに、あっけにとられてしまいます。

 たとえばこの歌、「Solen er sa rod mor(おかあさん、おひさまが真っ赤だよ)」は、あなたにはどう聴こえますか?
 (原曲は4拍子なのですが、これは3拍子系のリズムに編曲されています)

 屈曲も、凝ったところもない、すぐに覚えられる、誰でも作曲できそうな、単純極まりない、もしかしたら、つまらないとさえ感じるメロディー。

 そんなふうにも感じたりしませんか?

 はじめは私もそうでした。
 これがほんとうに、デンマークを代表するクラシックの作曲家の手になった曲なのか?
 「不滅」という、極めて個性的な交響曲をこの世に残した作曲家が、こんなに単純なメロディーをなしただなんて、信じられない!
 そんなふうに思いました。

 だけど、聴くうちに、いや、口ずさむうちに、そのメロディーの裏にはニールセンの深い思索があり、一音も揺るがせにできないところまで手をかけたものであることに、驚嘆するようになります。

 徹底的に真摯に造り込まれたシンプル。
 それがニールセンの歌の本質です。

 

 そして、そのシンプルさは、

 そのメロディーを口ずさむであろう私たちのために、
 特別に音楽について学んだこともなく、だけど、日々のなぐさみのために音楽を必要としている私たちのために、
 ごくごく普通の庶民のために、

 メロディーそのものが生き物となって呼吸と体と一体となっておのずとほとばしりのびあがるために造り込まれたシンプルなのです。

 ただただ、歌うことを小鳥のようによろこぶ私たちへの愛ゆえに。
 わたしは、ときに、その愛情の深さに感謝して、涙ぐむときさえあります。
 こんなに素晴らしいメロディーを、私たちのために残してくれて、ありがとう、と。

 

 ニールセンのメロディーは、そもそもが私たちが歌うために作られたものだから、その素晴らしさは聴くだけでは絶対にわかりません。
 歌わねば。自らの身体をつかって呼吸とともに歌わねば、感得されえないものなのです。

 

 さらに驚くべきことには。
 明朗快活な、若いころの管弦楽曲においても、晩年の、いささか晦渋でとっつきにくい曲においても、聴きなれれば、指揮台に立ったニールセンが、右手でオーケストラを指揮しながら、半身を客席にひらいて、左手で「さあ、ともに歌おう!」と明るく笑顔で、ときにウインクすらしながらいざなう姿が見えてくるような気がしてくるのです。

 悲しいときに床にうずくまって「Solen er sa rod mor」と口ずさめば、ニールセンがすぐ横に寄り添って、おなじ方に顔をむけて、「おかあさん、おひさまが真っ赤だよ」と歌いあっているような気持ちにすらなるときがあります。

 そんな作曲家は、私はひとりも知りません。
 なぜなら、クラシックの作曲家というものは、いや、芸術家というものは、たいがい自分の内的世界、という孤高の城を、最終的には自分のために打ち建てる人たちですから。
 どの作曲家も指揮者も例外なく、客席に背を向けて、オーケストラの方を凝視しています。

 

 デンマークの「ヒュッゲ」ということばが一時ブームになりましたよね。
 ヒュッゲの本質を知りたければ、ローソクを部屋中に飾り立てることよりも、ニールセンの音楽を聴けばいい。これがわたしの持論です。
 私たちに半身をひらいて立つニールセンといっしょに、オーケストラと私たち聴衆がともに音楽となってホール中に響き合う、それこそがヒュッゲなのだと五百蔵は勝手に解釈していますが、あながち間違いではないと確信しています。

 というよりむしろ、「ヒュッゲ」という言葉を知ってはじめて、ニールセンならではの不思議な魅力の正体を理解できたのですから。

 

・◇・◇・◇・

 

 ニールセンの著書のひとつに、「生きている音楽」という題を持つものがあるそうです。残念ながら邦訳は無いようで、語学に堪能ではない五百蔵には読むすべもありません。

 ですが、このタイトルひとつだけからでも、ニールセンにとって音楽とは、「音楽そのもののもつ内的必然を駆動力として進行し伸びてゆくもの」であることが判然とします。
 そして、事実、ニールセンの書く音楽は、とくに後期のものは、音楽そのものがつる性の植物であるかのようにくねくねと幹を伸び上がらせ枝を伸ばし絡まりあいながら伸びてゆきます。

 

 音楽の父、バッハの音楽も、音楽自体の内的必然をエネルギーとしてメロディーが伸びてゆくのですが、そのエネルギーは「音楽」という世界の中で完結しています。
 もしかしたら、バッハの世界においては人間は音楽のしもべですらあるかもしれない。
 そして確固として「コンポーズ」=構成されています。音楽はバッハの外にあり、「コンポーズ」する客体です。

 しかし、ニールセンにおいては、音楽は、私たちの呼吸、共に歌うなかまたち、共に歌うニールセン自身、つまり、「歌う身体」に根ざしており、そしてあらたに歌にくわわる誰かにむけて、つねに開かれてます。
 音楽と人間の関係は、「小鳥と歌声」の関係にひとしい、そのように思われます。
 ニールセンは作曲家として音楽を「コンポーズ」していないわけではない。しかしそれは、「構成すること」というよりも、「メロディーがおのずから伸びていくために手をさしのべ、必要な彫琢をくわえていくこと」であり、主体と客体が渾然一体となって音楽が推敲されていったのではないか、という気がしています。

 

・◇・◇・◇・

 

 で、長いので、ここで真半分にしました。
 次からが本論になってくるのですが、
 つづき↓はまた明日。

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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。