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【小説】 透明の家 《第一話 前編》



【502-A号室:北条みのり】


 日曜日だというのに、スーツを着ている。

「今年一番の暑さとなるでしょう」というフレーズがテレビで頻発される季節に、どうしてジャケットを着なくてはならないのか。相手に不快を与えないためのビジネスマナーだというのならば、汗だくでジャケットを着ている人よりも、シャツだけで涼しげに見える人の方がよほど見ていて爽やかだと思うのは、私だけだろうか。

 ショーウィンドウに映った自分を見ながら、そんなことを考えた。

 映し出された自分のドロドロさに愕然とし、すぐに近くのデパートの化粧室に飛び込んだ。身体中の汗を拭き、額に張り付いた前髪をとかし、顔の油を取ってからファンデーションを叩き、口紅を塗り直す。ストッキングに穴は開いていないか、靴は汚れていないかなどを姿見でチェックし、身なりを整え終えると、指定された場所へと向かった。

 集合場所は街の中心地からバスで十分ほど離れた、静かなところだった。
立ち並んでいる家々は新しくはないが大きく、洗練されたデザインのものが多かった。メイン通りから一本道を入ると、レンガで舗装された遊歩道に出た。木漏れ日が道に描くレース模様は美しく、葉擦れの音が鼓膜を揺らすのがなんとも心地よい。これから迎える大勝負に対する緊張が、少しだけほぐれた気がした。

 そこから数分歩くと、突然、目の前に立派なマンションが出現した。外壁の石材といい、センスの良い照明といい、見るからに高級そうだ。ガラス越しに見える一階部分はロビーだろうか。上品で落ち着いた色で統一された内装は、まるで高級ホテルのラウンジのようにも見える。

しばらくその外観に圧倒され、立ち尽くしていると、中にいたらしいスタッフらしき人がこちらに向かって会釈をした。慌てた様子を気取られないよう、ゆっくりと会釈を返す。

「……よし」

ここで私の運命が変わると言っても過言ではない。
私は両手で拳をしっかりと握り、深呼吸をした後、エントランスへと足を進めた。

                 *



「暑い中、ご足労いただきまして、誠にありがとうございます」

 昔からの喫茶店で出てくるような銅製のマグカップに、たっぷりの氷。見るからに美味しそうなアイスコーヒーがテーブルに置かれる。


「私、こちらのコンシェルジュを務めさせていただいております、深海と申します」


 全ての接客業がお手本にしてもおかしくないくらいの、美しいお辞儀だった。

 華やかなスカーフを首に巻き、髪は夜会巻きでぴっちりと整え、しなやかにラインを描く紺色の制服を着ている。切れ長の涼やかな目元と上品な色のリップ。「キャビンアテンダントです」と言われたら、九割九分の人はそのまま信じてしまうだろう。

 白魚のような細い指を揃えて手渡された名刺の中央には、「深海愛美」という名前が印刷されていた。

「北条みのり様。早速ではございますが、ご紹介状の確認をさせていただけますでしょうか?」

「あ、はい!」


 私は鞄の中からクリアファイルを取り出し、その中に入れた封筒から丁寧に書類を引き出した。

 この紹介状は、スタートラインに立つために与えられた唯一無二のパスポートだ。これを失くしてしまったら、この先話を進めることは不可能になってしまう。

 恐る恐る紹介状を渡すと、深海さんは内容を一字一句確認したり、紙を透かして見たりと確認作業に入った。偽物にすり替えた覚えはないが、ここで「偽物ですね」と言われたらどうしよう。そんな不安が沈黙を埋め尽くす。

「確かに、三船様からのご紹介状ですね。お預かりいたします」

 笑顔と共に顔を上げてくれた深海さんを見て、ようやく人心地がついた。


 三船さんというのは、会社の先輩である。

 バリバリと仕事をこなし、人当たりもよく、クライアントからも社内の人からも人望が厚い。入社して長いはずなのに、新しいことにも果敢に挑戦している様は、後続の私たちにもやる気を起こさせてくれる。プライベートでもよく一緒に遊んだりするくらい仲が良く、人生の悩みについてもたびたび相談に乗ってもらっている。


 そんな三船さんが、この度、結婚した。


 男女問わず人気な三船さんだったが、恋愛に関する噂はひとつも聞かなかった。モテない要素を探す方が難しいような、魅力的な女性だった。しかし、本人からその手の話を聞いたことは一切なかった。

「ああ、そういうことに興味がないのかな?」

 その時はそう思った。世の中には恋愛や結婚に重きを置かない人だっているだろう、と。私はそれが、心の底から嬉しかった。

私だけじゃない。
そう思えたから。

しかし。




「北条、私、結婚することになった」




 三船さんは嬉しそうでも悲しそうでもなく、まるで業務連絡かのような、むしろ業務連絡の方が生き生きとしているのではないかといのテンションで、そう伝えてきたのだ。

給湯室でコーヒーメーカーにコーヒーの粉を入れていた私は、小さく「え?」と呟き、なぜかシンクの排水口に向かってコーヒーの粉を入れた。

「あ、でも、苗字は変わらない。仕事もこのまま続けるし、引っ越すけど、そんな遠くないし、いつでも遊べるよ!」

 様子のおかしい私に少しギョッとした三船さんが早口で話し続けた。

 結婚した友達で「いつでも遊べる」子はいなかった。みんなそれぞれ家庭を持ち、パートナーや子どもと過ごす時間が増えるのはごく自然なことだった。最初はそれが寂しいと感じたが、周りに独身の友達が少なくなるにつれ、一人で楽しく過ごす術も身についていった。今では一人の方が気楽でいいなと思うことの方が多い。しかし、三船さんとなると話は別だ。

「三船さんは違う」というのが私の勝手な思い込みだと知って、私は途端に恥ずかしくなった。申し訳なさと、恥ずかしさ、不安など、ごちゃごちゃに混ざり合った感情が、私の顔に熱を集めていく。

「おめでとうございます!」

 とりあえずは祝いの言葉を述べるのが礼儀だろうと思い、辛うじて一言、そう伝えた。喉が締まるような感覚があったので、もしかしたら声が裏返っていたかもしれない。

 相手はどんな人なんだろう。どうして今まで、そういった話題を聞かせてくれなかったのだろう。いつからお付き合いされていたのだろう。私が今まで遊びに誘っていたのは迷惑になっていなかっただろうか。今まで通り遊ぶことはできなくなるのだろうか。それは寂しい。

 聞きたいことも言いたいこともあるのに、何一つ言葉に出せなかった。
抜け駆けだとか、羨ましいとか、妬ましいとか、そういう負の感情は一切ない。おめでたい事だし、尊敬する人の新しい門出を祝福したい気持ちはあった。

ただ、衝撃が大きすぎた。

 そのあとのことは、あまり記憶がない。翌日パソコンを開くと、作った覚えのない空白のファイルが何件かあったので、ろくに仕事をしていなかったということだけはわかった。

 それからというもの、三船さんの周りには結婚を祝福する人たちがひっきりなしに訪れ、なんとなく近づくことができなくなってしまった。嫌いになったわけではない。ただ、距離感が掴めなくなってしまったのだ。誰かに何かを言われたわけではないのに、近づいたら迷惑なのではないかという考えが頭を過ってしまう。

 三船さんはというと、相変わらず嬉しそうでも悲しそうでもなく、あくまでコミュニケーションの一環としてお礼を言っていた。相手はどんな人なんですかと問われれば、「普通の人だよ」としか言わず、どこで知り合ったのと訊かれれば「知人の紹介」としか答えなかった。結婚式については「式は挙げない予定なの」と笑った。

幸いにも空気を読める社員ばかりだったので、それ以上は踏み込まず、お祝いだけを伝えて、あとはいつもの日常会話に戻るのだった。



 そんなお祭り騒ぎもおさまった、ある日のこと。私は三船さんにランチに誘われた。ランチに誘ってくれたこと、久々に話ができた事が嬉しかった。

「三船さん、いつにも増して人気者でしたね」

「ハハ、みんな新しい話題が好きなだけだよ」

乾いた声で笑う彼女は、なんだか少し疲れているように見えた。

「新居はいかがですか?」

 あまり『結婚生活』には触れない方がいい気がしたので、『新居』という言葉を使った。

「最高だよ!きれいだし、広いし、すっごく快適!コンシェルジュがいるから、なんでも相談に乗ってくれるし」

「コンシェルジュ?もしかして、超高級マンションなんですか?」

「まあ、前の家賃と比べたら高いかな」

「ええ~!いいなぁ!あ、でもご主人と折半されてるなら……」

 そこまで高くはならないんじゃないかと言う前に、

「うち、家賃はそれぞれ負担だから」

 家賃は『それぞれ』負担?まるで別の場所に住んでるみたいな話し方をする。

「北条、結婚したい?」

 人によっては、嫌味とも捉えられる質問だ。
しかし、そんな雰囲気は全く感じられない。
では、なぜ突然そんなことを聞くのか。私には分らなかった。

「結婚?」
「そう、結婚」
「……」

 答えに詰まった。自分自身が『結婚』に興味があるかと言う意味なら答えはノーだ。

 今まで結婚したいと思うような人間に出会わなかったし、これからも出会いそうにないと思っているから。それでも私は満足しているし、今後も楽しく生きていく自信がある。

 よく、「一人で生きるのは寂しいよ」や、「何かあった時に誰かいた方が安心だよ」といったセリフを言ってくる人がいるが、私はそうは思わない。

 パートナーがいても同時に死ぬ可能性は低い。その場合、必ずどちらかが遺される人になる。いずれにしても寂しいといわれる一人での人生を続けなくてはならない時が来るのだ。
 
 そして何かあった時に頼れるか否かは、その時になってみなきゃわかならい。大人の全員が全員、土壇場に強く頼り甲斐のある人ばかりではないということは、ここ数十年生きてきて学んだことの一つだ。逆に誰かがいるからこそ起こるうる『何か』があることも知っている。

 しかし、社会の目や親族からの期待に応えるために『結婚』と言う行動をしたいかと問われれば、考えてしまう。

 少子高齢化の抑止を声高らかに掲げているこの国では、どれだけきちんと納税をしていても、どれだけ仕事で貢献していても、まるで罪人を見るような目で見てくる人が一定数いる。

 その人たちは、私の顔に『半人前』という烙印を勝手に押し、その烙印を見た暇を持て余した人たちは、私をおもちゃにして遊ぶのだ。

 そんな境遇から逃れるために結婚をしたいとは、口が裂けても言えない。


「北条」


 いつまでも黙り込んでいる私に、三船さんが優しく話しかける。


「結婚に興味はないけど、結婚という制度は利用したい?」


 吸い込んだ空気が肺に到達する前に気管で止まった。
 私の様子に三船さんはふっと笑って、

「私もだよ」

 と、視線を手元に落とし、運ばれてきたキッシュにナイフを入れる。一口大に切り取ったキッシュを口に運ぶと、「これ、美味しい」と満足げに頬張った。

 私はというと、先ほどのセリフを飲み込めず、ずっと頭の中で反芻していた。

 同じ、とはどういう意味なのか。
新婚である三船さんが、私と同じ考えで結婚したということなのか?
だとすれば、今までの『結婚』に関する話題に対しての妙にフラットな対応にも納得がいく。

「……北条は私と同じで恋愛や結婚に興味がないと思ってたんだけど、違った?」

「あ、いえ、そうです、はい」

 どっちつかずな答え方をしてしまった。

ドギマギとしている私は意味もなく、目の前に置かれたパスタを凝視していた。「冷めちゃうよ?」といわれて、慌ててフォークで巻き取り、口に運ぶ。口内で縦横無尽に絡まるパスタは私の頭の中とリンクしているようだった。

「その、あの、じゃあ三船さんは」

「うん」

「相手を好きになって結婚したわけじゃ……」

「ないよ」

 こうもあっさりと返されるとは思わず、全身から空気が抜けていくかのような脱力感を感じた。

「相手も私を好きじゃない」

「でも、じゃあ、どうやって」

 そんな相手を見つけたのか。と聞く前に三船さんがこちらに向かって、ズイッと身を乗り出した。こんなに近くで彼女の顔を見たのは初めてだった。長く整えられたまつ毛が美しかった。

「興味、ある?」

「はい?」

「今までとなんら変わらない生活が送れる、『結婚だけできる』結婚に」

 言葉の意味がわからなかった。

 『結婚だけできる』結婚?

 そんなことあるのか?

 混乱している私の様子を面白そうに眺めながら、三船さんは一枚のパンフレットを机においた。

「ここは結婚したくない人の結婚相談所なの」

 また飛び出した訳のわからない言葉に、頷くことしか出来ない。

「一見さんお断りの紹介制でね。お金も、まあ少しはかかるけど、おそらく北条の理想が叶えられる」

 とりあえず後で見てみて、とパンフレットをこちらに押し出すように渡した。

「心配しないで!変な宗教とかマルチとかではないし、強要もしないから。ただ、私と同じような人に避難所があるよってことを知ってもらいたいだけなんだ」

 そう言い放った三船さんは、最近で一番朗らかな笑顔を浮かべていた。

 この時点では、私には判断がつかなかった。だけど、久しぶりに見たその柔らかな表情に私はなんだか安堵してしまい、考えることよりも忘れかけていた空腹を満たすことを優先してしまった。私はパンフレットをろくに見ることもせずにカバンにしまい、やっと美味しそうに見え

てきたパスタを頬一杯に頬張った。


                 *


「早速ですが、ご説明させていただきます」

「よろしくお願いいたします」

 まるで開始のコングのように、アイスコーヒーの氷がカランッと鳴った。

 思わず、生唾を飲む。

「当施設は会員制のマンションとなっております。既にご入居されている方からのご紹介状をお持ちの方だけが、入居対象者となります。ただし、ご入居を希望されるすべての方が入居できるわけではございません。当施設のコンセプトをご理解いただき、また、適性があると判断された方だけが、こちらに入居することができます」

 アナウンサーのように流暢だけれど、そこにはなんの感情も見えない機械的な話し方だった。

「当施設は婚姻斡旋サービス付きマンションです。私どもコンシェルジュがお客様同士の相性などを踏まえた上で、パートナーを組ませていただきます。世間でいう『結婚』ですね。実際に籍を入れていただきます。しかし、通常の結婚とは違います。恋人や夫婦らしい行動は一切しなくて良いのです。生活を共にする必要も、財産を共有する必要もありません。家の入り口は一緒ですが、中にはそれぞれ独立したお部屋がございます。あとは今まで通り、お客様の人生を歩んでください」

 あまりにも淡々とした説明だった。深海さんは貼り付けたような笑顔を保ち続けている。

私は片手を上げ、質問の意を表した。深海さんが「どうぞ」と促す。

「それって、偽装結婚ということですよね。法に触れるのではないでしょうか?」

三船さんからパンフレットを渡された日の夜、私は法律について調べていた。もし好きでもない人との形だけの結婚が罪に該当するならば、私は犯罪者になってしまうからだ。そんなリスクを犯してまで結婚をしたいわけではない。

「北条様。偽装ではない『真の結婚』とは、どの様なものをお考えですか?」

 質問を質問で返されて、面食らってしまった。そもそも、結婚をしたことのない人間に、『真の結婚』の意味なんて訊かないでほしい。

「経済的な困窮から逃れるために結婚する方、お相手様に家事や親の介護をしてほしいから結婚する方、子どもが欲しいから結婚する方、好きではないがプロポーズされたから承諾した方。世の中にはいろいろな考え方があり、結婚する理由も様々です。もちろん、お互いに恋をして絆を結んだ結果、ご結婚される方も多数いらっしゃいます。しかし、その愛情がずっと続くと証明できるものはございません。なんらかの理由でお相手様への愛情が薄れたとしましょう。それでも離婚することなく婚姻状態を継続していた場合、それは偽装結婚と見做されるのでしょうか」

 ふと、友人たちの顔を思い出した。

どうして相手と結婚したのかという話になった時、

「別に好きじゃなかったけど、条件が良かったから」

と、屈託もなく笑っていた彼女。

「いやあ、家事やってくれる人が欲しくてさあ」

と、悪びれもなく語った彼。

 深海さんの話のとおり、これが偽装結婚に当たるとすれば、彼女たちは逮捕されてしまうだろう。しかし、幸いにもそんなことにはなっていない。

「人の心というのは証明ができません。ましてや法律が人の心を決めつけることなど不可能なのです」 

 両端を上から引っ張り上げられたかの様に弧を描いた口の隙間から、白い歯が覗く。他意はないのだろうけど、すこし不気味に見えた。

「それに、お互いがその人らしい人生を送れるように協力し合うということも、一つの愛の形だと私は思います」

 目から鱗が落ちるような考え方だった。

 私がしばらく、目をしぱしぱさせながら見えない鱗をこぼれ落としている間に、深海さんはホチキスで止められた資料をこちらに渡した。

 表紙には『ご入居を希望される方へ』というタイトルが書かれている。2ページ目を開くように指示をされ、ページをめくった。

「こちらの施設をご利用いただける方は、以下の通りです。
・成人されている未婚の方
・お子様のいない方
・経済的にも精神的にも自立している方
・守秘義務をきちんと守ることができる方
・入居者規則やコンシェルジュの指示に従える方」

「子ども連れはダメなんですか」

「こちらは守秘性の高い施設となっております。情報の流出を防ぐためにも、お子様連れの方にはご遠慮いただいております」

「そうですか」

「続きまして、禁止事項です。

・恋愛(パートナー様に対して恋愛感情を抱くこと、施設外の方とお付き合いされることなど)
・パートナー様の生活を脅かす行為(家事の強要、介護の強要、金銭の要求、束縛、恫喝、盗撮など)
・パートナー様の信用を貶めるような行為(ギャンブル、借金、犯罪など)
・当施設に入居者以外の方を無断で入れること
・当施設のサービス内容を関係者以外の方に伝えること
・他の入居者様のご迷惑となる行為
以上でございます」

「……恋愛?」

「はい」

 まるで待ち構えていたかのように、嬉々として深海さんが話し出す。

「こちらをご利用の方は、結婚に付随する社会的信用を得ることを目的としている方ばかりです。恋愛をしに来ているのではありませんので、そういった感情はパートナー様にとってご迷惑になることがあります」

 恋愛をしてはいけない夫婦。改めてここが単なる結婚相談所ではないことを実感した。

「また、外部の方との恋愛ももちろん禁止です。はたから見れば、それはただの不倫にしか見えず、パートナー様の信用を貶める行為に該当いたします。もし今後、どなたかと恋愛をしたいという場合は、こちらへの入居はおすすめできません」

「万が一、誰かに恋愛感情を抱いてしまった場合はどうなりますか?」

 まあ、最初から恋愛や結婚を疎ましく思っている人たちが利用する施設なのだから、そんなことはないだろうと思ったが、興味本位で尋ねてみた。

「その際は、強制的に退居していただきます。また、外部の方と恋愛された方は、その方の不貞による離婚になりますので、お相手様に相応の慰謝料を、こちらの施設には違約金を払っていただきます」

 想像しただけでも身震いがした。大金を叩いて入居して、大金を叩いて追い出されなくてはいけないなんで、馬鹿らしすぎる。だけども、その点に関しては違反しない自信があった。私は今までも、これからも、誰かに恋慕することはないだろうから。

「もちろん、お相手様が慰謝料を辞退する場合や、お二人で話し合い、夫婦関係を継続したままこの施設を出て別の場所で生活すると決めた場合は、そういった料金は発生いたしません」

「なるほど」

 もう一度、資料に目を通す。項目の真ん中あたりを指差し、

「この、入居者以外の方を無断で入れることっていうのは、親も友達もダメってことでしょうか?」

「左様でございます」

 普通の家庭なら、お祝いに訪れたり、新居の見学に来たりと、何かと人が出入りするものではないのか。私自身は、そういった『おもてなし』をするのは苦手なタイプなので、しないで済むに越したことはないのだけれど。しかし、いつまでも新居に招かない夫婦というのは、周囲から怪しまれないだろうか。

「禁止と言っても『無断で』という部分がダメなのであり、前日までにお声掛けいただければ可能でございます」

 深海さんはクリアファイルから一枚の見取り図を取り出して、テーブルに置いた。

 見取り図には三つの部屋が横並びに描かれていた。

真ん中に少し狭めの部屋があり、両側に一部屋ずつ配置されている。両側の部屋には風呂・トイレ、キッチンがそれぞれ設置してあり、その位置が鏡合わせのようになっている以外は同じ構造だ。

 揃えられたしなやかな指先が、見取り図の真ん中にある扉らしき部分を指し示した。

「こちらがお部屋の見取り図です。共通の玄関を入りますと、そのすぐ両脇に、それぞれのお部屋への玄関がございます。真ん中にございますのが、カモフラージュ用のリビングです」

「カモフラージュ用の?」

「はい。こちらの壁は全てドアの取り付けが可能となっております。共通玄関を入って目の前にある壁にドアを設置し、それぞれのお部屋につながる玄関は壁に差し替え、このリビングに両側のお部屋をつなげることで、一時的に一つのつながった家を作り出すことができるのです」

 凄い。一体誰が考えたのだろう。
私はこの画期的なアイディアを生み出してくれた名前も顔も知らない誰かに向かって、心の中で手を合わせた。

「ドアの取り付けには、私どもコンシェルジュが持っている鍵と、ご入居者様の指紋認証の両方が必要となります。私どもはご入居者様からのご依頼を受けた時のみだけにこの鍵を使用し、必ずご入居者様の立ち合いのもとでドアの取り付けを行います。ご安心ください」

 隅々まで行き届いた説明に、私の心にかかった靄のような不安はだんだんと薄れていき、それと反するようにむくむくと膨れ上がる期待で埋め尽くされていく。

「改装には多少時間と手間がかかりますので、事前のお声がけをお願いしている次第でございます」

「なるほど。わかりました」

 よく考えられたものだなと感心していると、深海さんが資料のページをめくった。そこには入居後、パートナーと円滑な関係を築くためのアドバイスがまとめられていた。

「第一に、パートナー様は他人であるということを忘れずに接してください。敬意を払い、誠実な行動を取ることが、ご自身の安定した人生につながります。ご家族様との面会や、会社での家族ぐるみのイベントなどにご同行いただきたい場合など、パートナー様に対して何かしらのご要望が発生した時は、必ずコンシェルジュにご相談いただき、直接的な交渉は避けてください」

 確かに、通常の結婚でさえ煩わしいと感じる人も多い『親戚付き合い』を、他人同然である相手に無理強いをしてしまえば、それこそ婚姻関係解消の大イベントになりかねない。第三者を挟む事で、冷静に対処法を考えることができるというのは、この施設を利用する上での重要なメリットともいえるだろう。

「こちらには多種多様なコンシェルジュが多数在籍しております。別途料金は発生いたしますが、そういったイベントへの対応やサポートも可能ですので、ご安心ください」

 両親への挨拶なんて当事者しか対処できない行事だと思うが、一体どのようにサポートするのか。脳内でコンシェルジュの活躍を妄想をしてみたが、まったくと言っていいほど具体的な内容が想像できなかった。しかし、深海さんの揺らぎない丁寧な口調からは、確かな自信が読み取れる。

 その後、具体的な入居料金について説明があった。提示された金額は、ここと同レベルのマンションにかかる費用のおよそ三倍。事前に三船さんに渡されたパンフレットを確認していたため、そこまで驚きはしなかった。幸いにも、私の収入は平均以上でそこそこ貰えているし、このまま順調にいけば払えなくなることはまずない。だからこそ、三船さんも勧めたのだろうけれど、改めて数字を目の前にすると、喉の奥がキュッと締まる。



『お金さえきちんと支払えば、ここでの生活している限り、起こりうる全てのトラブルを解決いたします』


 誰もそんなことは言っていない。しかし、沈黙の中でも張り付いたままの彼女の笑顔からは、そんな圧にも似たメッセージが確かに発せられていた。心強さと同時に、少しの恐怖を感じる。

 徹底した合理的システム、外部からの隔離、そして不干渉。

 外部からのノイズをシャットダウンし、居心地の良い人生を提供する。そんなサービスを含んでいるからこそ、この値段なのだ。安いくらいだ。

「この場で即決していただく必要はございません。どうぞ時間をかけてご検討ください」

 数字を見つめたまま固まってしまった私は、ようやくホッと息を吐き出すことができた。同時に、キレイに揃えられた指先が、テーブルの上で汗をかいている銅製のマグカップに向けられた。促されるままに、アイスコーヒー で喉を潤す。

「北条様の入居希望理由について、お伺いしてもよろしいでしょうか?」

 緩んだ全身の筋肉が、また一瞬で収縮していった。

私は静かに深呼吸をして姿勢を正すと、今まで誰にも話したことのない胸の内を話した。


 『結婚』に興味がないこと。

 結婚に対する周囲の声や社会の目に煩わしさを感じていること。

 誰にも干渉されずに、自分の人生を楽しく生きていきたいこと。

 そのために、『結婚』という制度を利用したいと思っていること。


 改めて声に出してみると、自分でも聞き苦しいものだった。『結婚』に相手がいるということを想定していない、身勝手な言い分だ。しかし、そんなことに構っていられない程に、私は追い詰められていた。

 心の内のドロドロとした部分を直接ぶつけても相手を驚かせるだけなので、なるべく伝わりやすいように整理し、ゆっくりと話す。そのおかげか、全てを説明し終わった後に深海さんから、

 「北条様のご説明は、理路整然としていて、とても聞きやすいですね」

と、斜め上の感想をいただいた。

 深海さんは話を聞きながら取っていた手元のメモと、事前に提出した資料の間に視線を行き来させながら、

「入居の適正については問題ございません」

と朗らかな笑みを浮かべた。

 事実上の内定通知に、それまで耳の奥でうるさく鳴り響いていた鼓動の音量が小さくなっていくのが分かった。

「しかし、北条様」

 資料をテーブルに置き直し、深海さんは今日一番の真剣な表情を浮かべた。

「どうか、よくお考えください。同じ金額を払えば、もっと良い物件は沢山ございます。この施設内で婚姻したとしても、お子様を持つことはできません。すると今度は『子どもはまだなの?』と周囲から言われ始めます。それに関して、私どもはどうすることもできません。また、入居されますと、その後どなたかを好きになったとしても結ばれることはできません」

 伏せた睫毛の隙間から、彼女の白目がゆっくりと姿を現す。

「本当によろしいでしょうか。どうか、よくお考えください。私たちは入居者を増やしたいわけではないのです。世間の目に苦しんでいる方のお力になりたいだけなのです。この道以外に幸せになれる可能性があるのならば、どうかそちらを選んでください。ご自身が納得できる幸せな人生を送る方が増えていくことこそ、私たちの願いなのです」

 相変わらず淡々としている口調だったが、そこには言いようのない熱気が込められていた。

 一緒に働くなら、こういう人がいい。そう感じた。

 きっとここでの生活も、彼女が手伝ってくれるならば上手くいくだろう。ほんの数十分の会話だったが、私にそう確信させるには充分だった。


(続)




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透明の家(第一話 前編)
透明の家(第一話 後編)
透明の家(第二話)
透明の家(第三話 前編)
透明の家(第三話 後編)
透明の家(第四話 前編)
透明の家(第四話 後編)
透明の家(第五話 前編)
透明の家(第五話 後編)
透明の家(第六話 前編)
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透明の家(第七話 前編)
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