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晴天の空のもと、父の葬儀が終わりました〜生命の尊さを噛み締め涙した日の話

こんにちは、水無瀬あずさです。

いろいろとご心配おかけしておりますが、家族の支えもあり、何とかいつもどおりの毎日を過ごしています。温かいお言葉をいただいた皆様、本当にありがとうございました(ちゃんとお返事できていなくてすみません)。読みながら号泣しました。心配してスキを付けてくださった皆様も、ありがとうございました。直接お会いしたことはないけれど、とても元気を貰えた気がして、noteをやっていて良かったと思えました。

週末からぐずぐずとした空模様ですが、葬儀のあった金曜日は悲しいほど晴れ渡った空で、亡き父の晴れ男冥利に尽きるなと感じています。

土日をぼんやりと、本当にただ起きて食べてゴロゴロして寝て過ごしました。「心にぽっかりと穴が空いた」という表現は実に絶妙なもので、本当にその通り、心に穴が空いてズキズキ痛んでいるのを感じます。この穴はこれから先も一生ふさがることはないけれど、これからは穴が空いた状態に慣れ、また違うモノたちで埋めていくしかないんだよなあって思いました。少しずつ日常生活に向けて前を向くことが、父への何よりのはなむけになると信じたい。

さて今回、キーを打ちながらすでに涙が止まらないわけですが、そんな状態でなぜnoteを書いているのかといえば、これが自分の中で何より心を整理できる手段だと感じたからです。今感じている痛みや悲しみは、これから先私が生きていくうえではきっと少しずつ忘れていくべきものであり、だからこそ今のすべてをしっかり記録として残しておきたいと思いました。もしかすると、「初七日も迎えていない状態でなんて親不孝な!不謹慎だ!」と感じる方もいるかもしれませんが、そういう方はそっとバックボタンを。書くことを生業としている人間として、これが私なりの精一杯の父の供養です。

※この記事は1万字を超える長いものになっていますのでご注意ください!また、私自身は今回のことをネガティブにはとらえていませんが、死というセンシティブな内容を含むため、そういうことに敏感な方は読む際にご注意ください。


初七日を前に筆を執る意義

父は高校卒業からずっと某公共放送の報道記者として働き(夜学で大学に行ったらしい)、最後は名古屋で報道部長(だっけ?)にまで出世し、57で早期退職しました。仕事人間でいつもイライラ機嫌が悪く、中高時代は父の帰宅に合わせて部屋に引っ込むような日々でした。それだけ仕事に真摯に向き合える人だったのだと今は思います。怖かったけど。

そんな現場人間だった父ですが、大学時代から私が書く文章をえらく評価してくれ、「俺よりもあずさのほうが文章がうまい」などと言ってくれました。かつて書いていたブログや小説はしっかりチェックしてくれていたし、私が副業でWebライターを始めたときもとても嬉しそうにしていました。父の背中を追って報道記者を目指して奇しくも敗れた私ですが、それでもなお書く仕事をしていたことが嬉しかったに違いありません。決して父のためにやっていたわけではなかったけれど、結果的に親孝行になっていたならいいなと思います。

そんな父の死に際し、父への感謝の気持ちをどう伝えるべきかを考えたとき、やはり文章にして遺すのが一番だと感じました。というか、それしか私にはできない気がして。まだ感情をうまくコントロールできない今でも、文章にするとあら不思議、冷静に書けちゃうんです。だから書こうと思いました。きっとこの先私は、どんな形になるかはともかく、ずっと一生言葉を紡ぎ続けていくと思うから。父の訃報を聞いてからまだ一週間も経っていないわけですが、葬儀から今に至るまでの私の素直な気持ちを、ここに書き記します。あまり人に読んでもらう体裁ではないかもしれませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

と同時に、大切な人が今「すぐ会える」ということがどれほど尊いことかを多くの人に知って欲しいです。もう会えない。そんな今だからこそ、今すぐ会える人、触れ合える関係を大切にしたい、してほしいと願います。

突然の訃報

3月19日は次男の小学校の卒業式でした。

曇り空でしたが、なんとか雨が降ることなく終えられ、いよいよ次男の入学準備+長男の受験準備で忙しくなるぞと決意を新たにしていた夜、21時ごろ。ケータイが鳴りました。兄の泣きそうな声とともに、「今病院から電話があって。親父、相当やばいらしい」とのこと。「俺が今日の昼に行ったときは、医者はそんなこと全然言ってなかったのに!」と憤る兄の声に、鼓動が早まるのを感じながら、「・・・そうなんだ」と返すのがやっとでした。

兄が「もしかするともう今夜にも連絡があるかもって・・・お前、どうする?」と聞いてきます。どうするって言っても夜21時の段階で、しかもそのとき夫は飲み会で不在という状況のなか、子どもたちだけ置いて新幹線に乗るのは不可能。「どうって言われても、状況を見て明日の朝動くしかないと思うけど。そっちは?」と返すと、「病院からは『来ますか?』って言われたけど、行っても俺に出来ることなんてないし、俺自身が病院で待つことに耐えられないから、家で連絡を待ちますと言った」と兄。いやお前は行けるならすぐに行けよとすごく思ったけど、自分が同じ立場で病院へ駆けつけられるかは分からなかったので、分かったとだけ伝えて電話を切りました。

その夜は電話が鳴るかもと思うとなかなか寝付けず、Youtubeでくだらない動画を流しているうちにうとうと寝るなどで過ごしました。飲み会帰りでテンションの高い夫にこの事実を伝えるのはなかなか申し訳なかったけど、夫もすぐに状況を理解し、「とにかく寝れるときに寝な」と言ってくれました。

そもそも3月の初旬に父が検査のため再入院したと聞いたとき、兄から「なんか面会謝絶なんだわ」と言われ、「え!?それってかなりヤバいんじゃないの?」と聞いたんです。でも兄によると「医者は別にそんな緊急な感じしなかったし。俺に出来ることはないし、任せるしかないかなって」とのことで、ずいぶん軽くとらえているようだったのが気になりました。面会謝絶ってそうそうなるもんじゃないと思うんだ。兄からの報告はイマイチ当てにならないことを薄々感じながら、もしかするともしかするかもなと思いながら過ごしました。恐る恐る送った父へのLINEは、とうとう既読が付くことはありませんでした。

父に送った最後のLINE

夜電話が鳴ることを恐れながら過ごしたものの、目が覚めたのは朝6時でした。どうなったのかと思っていると兄から電話があり、「とりあえず病院から電話は無かったけど、もう長くないと思う」とのこと。私もそんな気がしながら電話を切ると、5分後にまた兄からの電話。そして言われた、「今、親父、息を引き取ったって」という言葉。後になって夫が、「あのときママが息をのんだのが分かった。あれが本当の『息をのむ』なんだなって思ったよね」と言っていたように、まさに言葉を失いました。こんなにあっさり、人は死ぬんだ。その事実に愕然としたのを覚えています。

新幹線に飛び乗り、葬儀屋さんへ

兄はまず病院から、葬儀を行う業者を選ぶよう言われたそうです。夫によると、10年前の夫の父(つまり私の義父)の葬儀の際には、病院と提携の葬儀屋がすでにスタンバイしていたそうなのですが。土地柄なのか時代だからなのか、とりあえず父の葬儀はこちらで手配しなければいけないということのようです。

葬儀場の選定や手続きは兄に任せ、とりあえず私は出かける準備。しばらく実家に泊まることを想定し、キャリーバックに2日ぶんの下着や着替え、そして喪服などを詰め込みました。昨日卒業式の時に履いたパンプスも、歩きにくくて嫌だと思いながらキャリーへ。嬉しいことと悲しいことがこんなほぼ同時に来ることなんて、きっとこの先ないんだろうなと思いながら。

最寄り駅に付いたときに見上げた空はすっきりと晴れ渡っていて、こんなときだけど父を見送ってくれているような気がしました。頭の中でなぜか鳴り響いていたのは、かつて大ファンだったCoccoちゃんの「羽根」。

あぁ思い出だけで 繋がるしかなくて
あぁ途切れてしまう 息も絶え絶え
羽根は舞い上がり 土へ帰る

引用:Cocco「羽根」サビ部分

最近は全く聞いていなかったのに、本当にどうしてなのか不思議でした。私の感情とシンクロしたのかな。脳内でガンガンに響き渡る彼女の声に涙がボロボロ流れてきて、マスクをしていて良かったと思いました。花粉症の時期だから何となくごまかせるかなって。

スマホのエクスプレス予約で新幹線の指定席を取ったものの、思ったより早く新横浜に付いたので、そのタイミングで着た新幹線の自由席に乗り込みました。3人席の真ん中しか空いていなかったけど、なんとか座ることが出来て、とりあえず落ち着くために水を飲み、フリスクを噛み、ぼんやりと電光掲示板を眺めていました。気分を逸らすためにYoutubeでも見たかったけど、なぜか体が思うように動かなくて、力が出なくて。ただただ座って泣くだけで1時間20分が過ぎました。なお名古屋に着いたら、ぶ厚い雲が空を覆っていて今にも雨が降り出しそうで、横浜と全然違うじゃんお父さん!どういう心情!?って思いました。

新幹線に乗っている間に兄から連絡があり、葬儀場が決まり、これから病院でもろもろの手続をしてくるとのこと。たぶん葬儀場に来てもらうことになるかもしれないということで、葬儀場の場所を検索します。ちなみに葬儀場は、CMでもおなじみ「小さなお葬式」でした。

タクシーで葬儀屋さんへ着くと、兄が待っていて、荷物を持ってくれました。そして冷たくなった父との対面。父は抗がん剤治療のせいか髪がすっかり抜け落ち、ちょっと痩せたように見えました。口がぱっかり開いていて、ああ本当に死んでしまったんだと痛感するには十分でした(死後硬直が始まったくらいのタイミングなのだと教えてもらいました)。どのくらい泣いたのか覚えていないけど、そんなに長い時間ではなかったような。手を合わせて、ごめんね、ありがとうとしか言えなかったです。

葬儀屋の営業担当の方は、かなりベテランといった感じで、こちらを気遣いながらもテキパキとプランなどを指示してくれました。昨今のお葬式はずいぶんと値段が下がっているとかで、うちは告別式のみの「小さな一日葬プラン」というのにしたのですが、少し前までは名古屋の葬式と言えば300万円からが普通だったんだとか。価格破壊えぐい。

出典:小さな一日葬の費用や流れ|小さなお葬式

お坊さんも呼ばない無宗教式のスタイルは、いわゆる「家族葬」というやつで、要は葬式というよりお別れ式なんだそうです。特に決まった流れがないので、要望に応じて柔軟に変化させてOKなんですって。こんなときだけど、知らないことばかりだったので「なるほど~」と聞き入ってしまいました。火葬後に拾うお骨の量や壺の大きさが関東と名古屋(東海地方)では違うってのも「へえ~」だったし、名古屋市の火葬場を名古屋市民が使うと5000円だけど市民以外は70000円かかるってのも驚きでした。思わず「たかっ!」と言ってしまった。

名古屋市の隣の長久手市には火葬場がないため、葬儀の際は名古屋市で焼くしかなくて、必ず70000円かかるんだって。そういう意味で、住む自治体も大事なんだなあと思いました。未知の世界。

あと葬儀の際の棺についても「へえ~」だったのが、人は死ぬとつま先が伸びるので、通常の身長より長い棺が必要なんだそうです。父は身長が176センチでしたが、死んでしまった今は180センチを超えているようで、ピンと伸ばした状態で安置したければ、オプションで少し長いものにすることも可能だと言われました。兄から「・・・どうする?」と聞かれましたが、当の父はといえば「俺は別に墓なんか要らん。そのへんに撒いてくれていい」とか言っちゃう人だったので、「いや、そのままでいいです」と答えました。足が少し浮く感じになるらしいけど、別にいいよねと思って。

あと故人を棺に納める際には体を清めて仏衣を着せるんだけど、入念に洗ってほしければオプション料金がかかるそうです。病院では通常、全身をアルコール消毒するだけなので、きれいにしてほしいという人には対応可能ってことらしい。あと体を洗って着つけて納棺するのは別料金(プラン外費用)になるそうです。除菌消臭剤費用も。こればっかりは人の手で一人ひとりやる作業だから、費用がかかるってことなんですね。

父方のお墓は浄土真宗だったようですが、そちらは父の姉一族にすべてお任せしていて、我が家は無宗教。私は中高キリスト教の学校だったし、兄は高校が仏教の学校でした。というかそもそも本人も豪華なお葬式なんて望んでいなかっただろうということで、すべてにおいてなるべく簡易的なものを選びました。

認知症でグループホームに入っている母は、当日私にも兄にも余裕がないだろうということで、呼ばないことにしました。後日ちゃんと報告してもらう予定です。でも何言っているか分からないんだろうなあ。

葬儀の日時についても、なるべく早くということで1日後の22日(金)に決定。暦の上では「友引」で葬式にはあまりよくなかったけど、たぶん父は性格上「一緒に行こう」って言わないしね。「先に行くわ」ってさっさと行っちゃっても困るし、早く楽にしてあげたいと思いました。

羽根の舞う自宅にて

帰路につくタクシーの中で兄が「マジで家片付いてないのでごめん。先に言っとく」というので、部屋に入るのには少し覚悟が要りました。父が入院直前まで過ごしたリビングは布団が敷きっぱなしで、周囲にふわふわとなにかが舞っているようだったので、埃だろうと思いながらカーテンと窓を開けると。部屋の隅にあったらしい羽根が部屋中に舞い上がりました。うようよ動いているように見えて一瞬「虫!?」と焦りましたが、どうやら羽毛布団の羽根のようでした。

家の近くの駅で脳裏に流れたのはCoccoの「羽根」。なにかシンクロしたんでしょうか。こんな偶然があるのかしらと不思議に思いながら、空気の入れ替えとともに部屋の掃除を開始しました。

羽毛が舞っていたのは、もしかしたら父が痛みに耐えかねて羽毛布団を掻きむしったからだろうかと思うと、胸が締め付けられるような思いに駆られて、泣きながら掃除機をかけました。ルンバを回しながら掃除機もかけているのに、羽根はなかなか無くならなかった。もしかするとこれは、父の残り香なのかもなあと思いました。

食欲はまったくわかなかったけど、前に父の入院を知って日帰り帰省した時の経験があり、無理にでも掻っ込んでおかなければと本能的に思いました。なので、お昼ご飯は来る途中で買ったエナジーゼリーを飲み、チョコレートとグミをかじりながら、そして泣きながら掃除をしました。ちなみに兄は「俺も食欲ないんだよね」と言いつつコンビニでおにぎりとからあげ棒などを割とガッツリ買ってきていて、なかなかお食べですね?と思いました。

なお言い忘れていましたが、我が兄は鋼メンタル(そして肥満)です。夜も私はほぼ食欲がなかったので、スーパーに売っていた小さな天むすセットを食べて終わったのですが、兄は寿司セットといなりずし、からあげやポテトなどを買っていました。この状況で、そんなによく食べられるね?(しかも寿司って)

翌日21日の夕方、学校を終えた長男を待って夫と子どもたちが名古屋へ。正直ずっと気が張っている状態だったので、夫が家に入ってきたとき心からホッとしたのを覚えています。長男は比較的いつもどおりでしたが、次男は私の顔を見るなり「ママ大丈夫?体じゃなくて、ココロ的な部分」と言ってきたので、思わず涙が流れてきて「全然大丈夫じゃない~」と抱き着くなどしました。次男くん、いつまでもちびっこだと思っていたのに、私を気遣ってそんなことが言えるなんて成長したなあと感じました。

食欲は全然なかったけど、夜ご飯を食べに家族でグラッチェガーデンズへ。いつものように話しながら食べていたら、昼まで全然食欲がわかなかったのに不思議とお腹がすいてきて、いつもくらいの量を食べることができました。父が居なくなっても、私たちには当たり前の日常があって、その日常を当たり前に生きていかなければいけない。その真実を突き付けられたような気持ちになりました。

グラッチェガーデンズの夕食風景(ピザ食べ放題)

晴れわたる空の下での葬儀

3月22日(金)、朝から雲一つない青空が広がっていました。私は昔から仲間内では有名な雨女だったのですが、それに対して自分は晴れ男なんだと自慢げに話していた父の姿が思い出されます。さすがだな晴れ男!と思いながら、葬儀場へ向かいました。行くタクシーですでに泣いていた私ですが。

葬儀場に着くと、従姉のあっちゃんがちょうど着いたところで、ご挨拶。年賀状のやりとりだけはしていたけど、実際にあったのはいつぶりだろうってくらい久しぶり。あっちゃんは母の姉の娘で、母の姉も重度の認知症であることから、認知症の母の話でたびたび父と交流していたそうです。「おばさまにとても手厚く介護されていて、私も見習わなきゃっていつも励まされていた」とあっちゃん。もともと顔の広い人だったけど、そんなところとも交流があったとは驚きでした。家族以外で、父のために泣いてくれる人がいたことは、とても幸せだと感じました。

葬儀場で棺に納められた父を見て長男は「こんなんなんだ・・・」とつぶやき、そこからはずっとシクシクと涙を流していました。私は特に話をしなかったけど、長男なりに思うところがあったんでしょう。命とは限りあるもの。悲しいこの経験が、彼の成長をさらに助けてくれると信じたいです。

次男はといえば、入学前ながら中学の制服を着て葬儀に臨みました。最後の最後に次男の晴れ姿を見せることが出来て良かった。「お、似合うやんか!」と、父もきっと喜んでいると思います。次男くん本人は、涙をぐっとこらえて顔を背けている様子でしたが、私が「どうしたの?悲しい?」と聞くと、「そういうんじゃない。ただ俺は、ママが泣くのを見たくない」と言っていて、これまた成長だなと感じましたね。「ママは今日、たぶん一日中泣いているからごめんね」とだけ言っておきました。

葬儀は和やかに過ぎました。父の大好きだったラグビーグッズや歴史の本、絵馬、料理の本、絵などをたくさん詰めて、最後のお別れをしました。焼き場の決まりで瓶を入れられないので、大好きなお酒はパックの「鬼殺し」だけだったのが心残りだけど、それも「ま、しゃーない」と笑って許してくれると思いました。ちなみにお酒は用意していなくて、葬儀場の営業担当さんが近くのコンビニまで走って買いに行ってくれました。いい人だったなあ。

会場の様子

最後のお別れで何を言うべきか悩んだけど、ちょうどタイムリーに更新された尊敬する山本一郎さんのコラムに「結局、人間が生きていくと『ありがとう』に回帰する」と書かれていたのを頭に浮かべながら、ありきたりな「ありがとう」を泣きながら伝えました。

終わってから夫がポツリと「とてもいいお式だったね」と言ってくれて、すべてが浮かばれたような気がしました。

一時間半で、父は骨になった

予約していた火葬場は、名古屋の第二斎場というところ。2015年から使われているところらしく、非常に静かでキレイなところでした。

10年前、義父の葬儀@八王子では担当者が手押しで棺を運んできたそうですが、ここ名古屋の第二斎場はさすが新しい施設だけあって、手押しながら機械式で、ウィンウィン鳴る荷台みたいなのに乗せられて棺が運び込まれました。あれってあんなにメカニカルだっけ?って感じで笑ってしまった。

最後のご焼香を終え、いよいよ焼き場へと運び込まれる父の棺を見て、これが本当に最期なんだなあと思ったらまた泣けてきて、ありがとうありがとうと心の中で何度もお礼を言いました。どうか安らかにと。

第二斎場には共用の待合室がありますが、オプション料金4000円を払うことで個室を取ることができます。さすがに疲れていてゆっくりしたかったので個室を予約したのですが、これが想像以上に広くてびっくり。座敷とテーブル席があって、30人くらいで会食できるくらいには広かったです。

29番の部屋だったので
夫が「ニクだね」と言っていたけど
別に父が肉好きだったわけではない
座敷でくつろぐ子どもたち
お昼時だったので昼食を食べました。
父が好きだった名古屋名物あんかけスパゲティ!

焼き終わるのにだいたい1時間半かかると言われました。10年前の義父のとき、4年前の祖父のときなどは、焼き終わるのに少なくとも2時間はかかっていたそうなので、新しい設備だと火力が強いので時間も短いのかなと思いました。そういう見えない進化があるんだなあ。

焼き終わって、最後にお骨拾い。見てみてビックリでしたが、父、骨がキレイにくっきり残っていて、実に見事でした。父は若い頃は野球、サッカーをしていて、定年退職してからは毎日ジョギングで体を鍛えていました。一時期は筋肉ムキムキで、お父さん一体どこに向かっているの?と心配になったほどです。その甲斐あってか、ガンに蝕まれていたはずの体とは思えないほどで、人体模型もびっくりだなあなどと思いました。

斎場の担当者のおじいさんがこれまた親切(?)な方で、「ここからここが〇〇の骨、これは大腿骨ですね」のように非常に細かく解説してくれて、わが父の骨を詳細まで解説されるというなかなかに不可思議な体験もしました。喉仏がキレイに残っていたとのことで、「こうやってすると仏様に見えるからのどぼとけと呼ぶんですよ」と実際の骨を見せながら教えてくれました。夫と二人で「へえ~」となりましたよ。

子どもたちは骨を見て少なからずショックだったようで、次男くんは「俺はいい」と遠くから見ているだけでしたが、長男はこわごわながら「どうやるの?俺もやる」と骨を拾ってあげていました。これもまた成長だなあと感じましたね。

お骨を拾いながら、つくづくと「人は土に還るんだな」と感じました。数日前まで息をしていた人が、死んで骨になり、そして土へ還る。こんなごく自然な理が目の前に繰り広げられているにすぎないけれど、その一つ一つはなんて尊く、輝いているんだろうかと。生命の大切さをつくづく感じさせられた瞬間でした。遺された私たちはこれを糧に背筋を伸ばし、しゃんと前を向かなければ。父から「お前なら大丈夫や」って、言われた気がしました。

絶妙すぎるタイミングには脱帽

我が家は年度末で次男くんが卒業&中学入学を控え、さらに4月から長男くんは受験生です。父の病気の話を聞くたびに、受験生の追い込みの時期に、もし葬式などによってメンタルを崩さないかというのを実は心配していた部分がありました。そこにきて、このタイミングの訃報。ある意味、見事としか思えませんでした。

また父は、次男くんのことをとても応援していました。自分は次男だったため家に負担をかけまいと高卒で就職した経緯があり、次男くんにシンパシーを感じていたんだと思います。発達障害かもしれないと私が悩んでいた時期も、「次男くんは次男くんなんだから問題ない、大丈夫や」と励ましてくれたものです。そんな父だったのでおそらく、亡くなる前日の次男くんの卒業式、こっそり見に来てくれていたんだと思います。だってタイミングが良すぎるもん。きっと大好きなカメラで次男くんの晴れ姿を写真に収め、満足そうに目を細めてくれたのでしょう。そして慌てて病院に戻って、息を引き取った。そう思えてなりません。

また年度末の過密スケジュールのなか、まさに絶妙とも言うべきタイミングだったことも書き残しておきたい。

3/18 長男:三者面談
3/19 次男:卒業式
  ←3/20 父逝去
  ←3/22 父葬儀
3/23 次男:地域活動打ち合わせ
3/24 長男:模擬試験
3/25 長男:修了式
3/25~ 長男:春期講習

次男くんは卒業ずみ、長男くんも22日の一日学校を休むだけで、スケジュールに影響なく過ごすことができるタイミングでした。本当に絶妙としか言いようがない。生前知人友人から「気遣いの人」と言われていた父らしく、「この日ならええやろ?」と言わんばかりの気遣いの逝去でした。ガンが分かった後、「辛いなら早く言ってよ!」と本人に言ったら、「気ィ遣ったんやんか~」とおどけて見せた父の顔が、今も忘れられません。

もっと言えば、49日はゴールデンウィークが明けたばかりの5/7、一周忌は長男くんの受験を終えているであろう3/20です。一周忌には受験の報告ができるね、すごい。こんな取ってつけたようなことがあるんだなあって、夫と二人で笑いました。

今思えば、予兆はあった

訃報を受ける前の土日は、子どもたちに予定があったので一日家で過ごしたのですが、なぜか朝から体が非常にだるく、「風邪でも引いたかな?」と心配になるほどでした。花粉症の時期なので少なからず体調は良くないのですが、こんな風邪のような症状が出たことはなく、不思議だったんですよね。次男くんの卒業式が近かったので、今風邪で倒れているわけではないのに!とアリナミンを飲んで乗り切ったのですが、今思えば、父が「そろそろやで」って教えてくれたのかもなあと思ったりします。

スピリチュアルやオカルト的なことには否定的な私ですが、こういうのがあると、もしかするともしかするのかもなあと思うところはあります。そしてこういうシーンで弱ってしまうと、人はそっち方面に行ってしまうんだろうなあとも思うのです。こういう時だからこそ冷静に、心を強く持たなければと思いました。

これからのこと

これからのことを箇条書きで。どっちかというと自分用のメモです。薄々感じているかもしれませんが、私の兄は皆さんが思っている3倍はポンコツなので、名義変更など本人じゃなきゃできないこと以外は基本私がやることになりそうです。

  • 訃報ハガキの申し込み⇒おたより本舗に頼む予定

  • 香典返し⇒カタログにする予定

  • ミニ仏壇と仏壇台の購入⇒Amazonで購入済み

  • 樹木葬のお墓の手配⇒何個か見繕って兄に連絡

  • 古本買取を調べて連絡:父の古書売却(49日以降)

  • 着物買取を調べて連絡:母の着物売却(49日以降)

  • 不用品回収業者を調べて連絡:父・母の不用品を処分(49日以降)

  • お墓に納めたら改めて知人へ連絡?訃報ハガキと一緒にして良いのかも

ゴールデンウィーク中に49日を身内でする予定なので、そのへんのスケジュールを立てなければ。連休中なら新幹線や宿の手配も?やることはたくさんありますが、まあ幸いなことに持ち家(マンション)で無くなることはないので、気長にのんびりやっていくしかないと腹をくくった次第です。

(兄は独り身なので、将来的にはマンションを売って介助付きホームみたいなところに入って欲しいと思っています。ただそのまえに糖尿病とかで通院生活になりそうで危惧している次第・・・)

結び|太く短い見事な生き様に、敬礼

葬儀を済ませて家に帰ったら、家のぬいぐるみたちが心配そうにしているような気がして、また涙が出ました。終わった。終わったんだなあって。

「大丈夫?」って聞いてきた気がした

悲しいけど、もう父は苦しまなくてよくて、私も兄も父の心配をしなくてよくなったんだと思ったら心底ホッとしました。「痛いのだけが嫌でなあ」と言っていた父。闘病生活は半年と短いものでしたが、気が短い父にはこれが限界だったんだろうなとも思います。

家に帰って夫といろいろな話をしていたら、夫がぽつりと「太く短く生きたよね。実にあなたのお父さんらしかった」と言っていて、その表現が実に的を射ていると感じました。直近数年は母の認知症の介護があり、本人的には思うようにならなかったでしょうが、それを差し引いてもきっと、思うように、そして好きに生きた人生だっただろうと思います。定年後は大好きな歴史を独学し、手書きの天皇系譜図を見せられて「時間がいくらあっても足らない」と嬉しそうに話していた父。これからは好きなだけ勉強ができるよ。きっと充実した人生だったと、今はただ信じたいです。

葬儀の最後、兄が私の耳元で「最期まで俺たちのことを考えてくれたみたいだよ」と教えてくれて、それで一層泣けたわけですが、あとで話を聞いてみたら「通帳をしっかり管理するように子どもたちに・・・」みたいなことを言っていたらしく、あれ思っていたのと違う!?と思いました。私たちのことというより、兄の今後の生活を心配していただけのような。まあどっちにしろ、実務家の父らしい最期だなあと思ったら笑えました。

棺の中に、次男くんの作った折り紙のクワガタを入れました。きっとお盆などでこっちに戻ってくるときは、折り紙のクワガタに乗って帰ってくるはず。時節のたびに、次男くんに大きなクワガタを折ってもらおうと思っています。「乗りにくいがな!」って怒られそうだけど。

最後に。お父さん、今までありがとう。強く誇り高く、自分に厳しかったお父さんの背中を思い出しながら、私はこれからも前を向いて歩き続けます。今度行ったら、おいしいお酒をお供えするね。大好きなお酒を飲みながら、子どもたちともども見守っていてください。

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