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母たちの国へ01. イニシエーション・ドリーム
夢分析をはじめると、最初にとても印象的な夢を見ることがあるという。「初回夢」とか「イニシエーション・ドリーム」と呼ばれるこの夢は、夢を見たクライエントの予後(分析の収束まで)を見通していることもあり、その人の人生の本質をあらわす重要な夢なのだそうだ。C.G.ユングによれば、幼い頃に何度も見た夢や、何十年たってもよく覚えているような夢も、見た人の人生全体を予見していることがあるという。
私がオウム
母たちの国へ02. それぞれの変化
手術の後、退院してしばらくは静養しながら読書の日々を送った。
身体だけではなく、なにかが以前よりずいぶんと楽になっていた。穏やかに流れる日常のなかで、ちょっとした出来事でも可笑しくて声をあげて笑ってしまうことがたびたびあった。
「箸が転んでもおかしい年頃っていうけど、今頃…?」
ともすれば深刻になりがちな私にとっては、不思議な意識状態だった。「もしかすると今までになく幸福といってもいいんじゃ
母たちの国へ03. 荷物の整理
新しいマンションに引っ越すにあたって、荷物を整理することにした。教団に出家する際には衣装ケース二個分しか私物はなかったのに、十七年も生活するうちにずいぶん荷物が増えてしまっていた。大半はオウムで出版された大量の書籍や、教学のためのテキスト、カセットテープなどで、それに加えて、宗教的な法具や修行道具もあった。
まず、麻原教祖の説法は、オウム研究に必要な電子データを残して本やテキストなど紙媒体のもの
母たちの国へ04. 教祖の結末
一九九六年からはじまったいわゆる「麻原裁判」で、教祖がたびたび「不規則発言」といわれる意味をなさない発言をしていることが報道された。それはなりふり構わぬ自己保身のための「気が狂ったふり(詐病)」なのだろうか? 麻原教祖を憎む大多数の人たちは「ペテン師の詐病だ」と言い、弟子たちは「尊師にはなにか深いお考えがあるに違いない…」と漠然と信じていたが、本当のところはだれにもわからなかった。
教祖がまとも
母たちの国へ05. 東日本大震災
二〇一一年三月十一日午後、自宅にいた私は突然激しい揺れに襲われた。とっさに頭を抱えてダイニングテーブルの下に隠れた。
「わぁぁ、これは大きい…」
今までに経験したことのない大きい揺れに恐怖で身体がこわばった。
つり下げ式の部屋の電気が空中で泳ぎ回っているみたいになったが、部屋にあるものが壊れたり家具が倒れることはなく、何度かの余震のあと揺れは次第におさまっていった。
すぐにテレビをつけると
母たちの国へ08. アングリマーラ
慰霊祭がおこなわれるお寺は新宿にあった。
お寺の山門を入ってすぐに本堂の入り口が見え、その手前に小さな祠(ほこら)があった。詰めかけた大勢の参加者の列に連なって歩きながら、通りすがりに祠の中をちらっと見ると、祀ってあるのは黒い姿の大黒天(シヴァ神の別名)だった。
オウムの主宰神もシヴァ神だったので、私は「あれっ?」と思った。
「大黒天かぁ…ここシヴァ神が祀ってあるお寺なんだ、奇遇だなあ…」
会
母たちの国へ09. メール交換
アングリマーラの説話にはいくつかのパターンがある。
一番シンプルなのは、盗賊・人殺しのアングリマーラがブッダと出会い出家し解脱するというもの。
ある経典では、バラモンの師から「100人殺せば修行は成就する」と言われたアングリマーラが、道で出会う人を99人殺して指を切り取り首輪にしていく。いよいよ最後の100人目にブッダと出会う。そして、出家し解脱するというもの。
また別の経典では、前半は同じだが
母たちの国へ10. 早朝の電話
二〇一二年三月、教団をやめてから確定申告も五回目になるというのに、今回もまた一年間経理をさぼったつけがまわってきていた。慰霊祭に行ったり、Tさんとメールをやり取りしたり、あたふたしながら三月十五日の締め切りになんとか書類を提出した。
「来年こそ、もっと前から準備しなくちゃ」
昨年とまったく同じ決意をしながら、「とりあえず明日は温泉にでも行ってのんびりするか…」そう思ってその日は早々に寝た。
母たちの国へ11. 母と私
私の人生で最もつらかった日々、それは母が倒れてから亡くなるまでの二年間だった。
五年以上たった今も、あのときのことを思い出そうとすると、生々しい傷口から真っ赤な血が流れているような感覚がまだどこかにあって、いざ書こうとしてもはたと手が止まってしまう。
やっぱり思い出したくないんだな、と思う。
でも、書きはじめたものは終わらせよう。それに、これは母についてではなく、「オウムとクンダリニー」につ
母たちの国へ12. 「親のために」
私をオウムに導いた兄は、ずっと熱心な在家信徒として活動していた。真理を探究することが好きで、たくさんの人に法則(ダルマ)を説いてオウムに導いた実績もあり、独身で、理系で、仕事もできたので、東京本部道場の責任者だったサクラ―正悟師から出家を勧められていた。
あれほどオウムを認めている兄がなぜ出家しないのか、私はすごく不思議だった。
兄はこんなことを言っていた。
「出家ってのは、ちょっと違うような
母たちの国へ13. ギャップ
「お母さん、気が狂うんじゃないかと心配したんだぞ…」
父からそう言われたことがある。
オウム事件の報道が激しさを増すと、母はとうとう寝込んでしまったらしい。
最初、母方の本家のお嫁さんが、オウムについて書かれた週刊誌を抱えてすごい形相で家にやって来て、
「ほれ、これ、読んでみなさいよ!」
そう言って、雑誌を放り投げるようにして帰っていったそうだ。
それからほぼ三カ月、両親は地縁・血縁の濃
母たちの国へ14. 父の娘
父は大正14年生まれ。昭和の年数と年齢がほぼ同じなのでわかりやすい。
中学を卒業して陸軍航空学校へ行ったのは昭和16年十五歳のとき。南方戦線に行ったのは昭和18年十八歳のとき。昭和20年二十歳で終戦を迎え、その後、シンガポール海峡に近いインドネシアのレンバン島で抑留生活を送り、昭和21年に今の実家のある故郷に無事帰ってくることができた。
父は少年飛行兵と呼ばれたパイロットだった。敗戦間際、特攻