母たちの国へ10. 早朝の電話

二〇一二年三月、教団をやめてから確定申告も五回目になるというのに、今回もまた一年間経理をさぼったつけがまわってきていた。慰霊祭に行ったり、Tさんとメールをやり取りしたり、あたふたしながら三月十五日の締め切りになんとか書類を提出した。

「来年こそ、もっと前から準備しなくちゃ」

昨年とまったく同じ決意をしながら、「とりあえず明日は温泉にでも行ってのんびりするか…」そう思ってその日は早々に寝た。

早朝、家の電話が鳴った。

こんな時間にだれだろう…と思いながら、嫌な予感がした。
取った電話から動揺した父の声が聞こえた。

「お母さんが、倒れた!」
「ええっ…」
「救急車で運ばれて、浩二くんが一緒に行ってくれたが、まだ様子はわからん」

父は八七歳という高齢ではあったが、頭もしっかりしていて、身の回りや家の中のことはほとんど不自由なくできた。さすがに自分の足で歩いて遠出することはなくなり、母を乗せて運転して行ったショッピングセンターでは車から降りずに待つようになった。

父は救急車を呼んで、すぐに近所に住んでいる母の弟にも電話をして来てもらい、体力に自信のない自分に代わって救急車に同乗して行ってもらうなど、きちんと緊急対応をしたようだった。

「わかった。すぐに帰るわ」

そう言って電話を切ると、私はとりあえずの衣類をバッグに詰め込んで、朝八時半の高速バスになんとか飛び乗った。

「三月って、いろいろある月だな…」

地下鉄サリン事件、東日本大震災、母が倒れたこと…みんな三月に起こった大事件だ。なぜか母についてはいつかこんな知らせがくるのではないか、という予感があった。走るバスの窓から、まだ雪の残る遠い山なみを見ながらそんなことを思った。

終点のバスターミナルで降りると、浩二叔父さんが車で迎えに来ていた。年代物の白いホンダライフに乗り込むと、母が運ばれたN病院の救急救命病棟に向かった。
叔父の話では、救急車のなかでも母の意識ははっきりしていたらしい。私が集中治療室に着いたときも、母はベッドに横たわって機械や点滴のたくさんの管につながれてはいたものの、私が来たことを理解して、私の顔を見ながら「ふにゃふにゃ…」という言葉にならない声で、なにかを必死に伝えようとしていた。

担当の脳外科医から別室に呼ばれた私は、パソコンのモニターに映し出されたMRIの画像を見せられて、ベテラン医師のよどみない言葉で母の状況を聞いた。

「脳梗塞で左半身に麻痺が残るでしょう。左手は難しいと思います。左脚がどのくらい回復するかですが、年齢と転倒のリスクを考えると今後は車椅子生活になると思います」

そして、「集中治療室を出れば脳梗塞の治療は十日ほどで終わりますから、その後はリハビリ病棟に移って訓練して、退院は五月の連休が終わって、暖かくなってから、そうですね五月末か、六月に入ってからかなあ…」

「半身麻痺」「車椅子生活」という言葉と、はつらつとして笑顔の絶えない母をどう結びつけたらいいのか私にはまるで想像がつかなかった。とにかく、私がここに、高校を卒業して以来離れたこの故郷に、再び帰ってこなければならないことだけは確かなようだった。

病院から実家に着くと父が、倒れたときの母の様子を話してくれた。

「朝起きて来て、石油ストーブの近くで着替えとったんや。俺が洗面所に行って戻ってきてみたら、お母さん倒れとって、あれが右側に倒れとったらストーブがあって大変なことになったぞ、左側で助かったんや。右手を動かして一生懸命立ち上がろうとしとった…」

すぐに119番して、母の弟に電話して、そして東京にいる私と兄に電話したと言った。
その晩は、父にも私にもそれ以上なにかを話し合う余力はなく、「とにかくもう寝よう」と言って、私は二階に上がった。布団を敷き、実家の羽毛布団のぬくもりのなかで、長く、あわただしい一日を終えようとしていた。

眠りに落ちる直前だった。
夜の闇の中に大きな黒い翼がふわりとあらわれて消えていった。

なんだろう…

“死”?

そのまま私は眠りに落ちた――

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