母たちの国へ14. 父の娘

父は大正14年生まれ。昭和の年数と年齢がほぼ同じなのでわかりやすい。

中学を卒業して陸軍航空学校へ行ったのは昭和16年十五歳のとき。南方戦線に行ったのは昭和18年十八歳のとき。昭和20年二十歳で終戦を迎え、その後、シンガポール海峡に近いインドネシアのレンバン島で抑留生活を送り、昭和21年に今の実家のある故郷に無事帰ってくることができた。

父は少年飛行兵と呼ばれたパイロットだった。敗戦間際、特攻隊として飛び立ったけれど目的地に敵艦がいなかったから、上官の命令でそのまま帰還したとか、父が所属していた部隊が帰国するときに十人ほど島に残らねばならず、父は志願して残り栄養失調になって丸太もまたげないほど衰弱したとか、そんな断片的な戦争の話を、私は父ではなく話好きな母からおとぎ話のように聞いていた。

父が戦争に行ったということを、子どもだった私が意識することはほとんどなかった。我が家で煮干しを入れていたアルミ製の弁当箱の蓋にうっすらと英語のようなものが書いてあったこと――それは父が抑留されていたときにアメリカ軍から支給された弁当箱だった。あるいは、テレビで『コンバット』という人気の戦争ヒューマン・ドラマがあって、私も兄もよく観ていたのだが、父は「戦争ものは嫌いだ」と言って観なかったことくらいだった。

父は復員してすぐにお見合い結婚をして、女の子が生まれたが、ほどなく離婚した。そして、その子は中学一年生のとき病気で亡くなったらしい。
母が近所の仲のいいおばさんといつものおしゃべりをしているとき、この話が聞こえてきた。母は、同じ部屋にいる私の方をちらっと見た。こみ入った大人の話だから子どもの私にはわからないだろうと思ったのか、わかっても別にかまわないと思ったのか、どちらかわからないが、一人遊びをしながら聞いていないふりをしていた私は、まだ小学校に上がるか上がらないかだったけれど話は全部理解していた。

――お父さんは一度結婚していて、女の子が生まれ、その子は中学生のとき胃の病気で死んでしまった――

母が亡くなってから、私は父にはじめて聞いたことがある。

「お父さん、どうして最初の結婚で離婚したの?」

「戦争から帰ってきて、俺のうちは男兄弟が五人もおって、みんな戦争に行ったけどみんな生きて帰ってきたんだよ。復員してきてすぐに俺の姉さんが見合い話を持ってきて、そこのうちは男兄弟がみんな戦争で死んで跡取りがいなくなってなあ。俺も可哀そうだと同情したんだろうな、よく相手のことも知らずに結婚を決めて、そこの家に婿に入ったんだけどな…子どもには可哀そうなことをしたな…」

父の最初の奥さんにも亡くなった父の娘にも、私は会ったこともなければ写真を見たこともない。まだ幼かった頃に一度だけ話を耳にして、それから思い出すことはなかった。

その記憶が浮かび上がってきたのは、オウムをやめてユングの夢分析の研究をしているときだった。私の夢に「失われた少女の物語」という印象的な手書きの文字があらわれ、その夢を分析していくなかで、父のもう一人の娘の存在がよみがえってきたのだ。

「あれ…失われた少女って、もしかしてあの子のこと?」

そして、亡くなった父の娘も、出家して現世からいなくなった私も、父の二人の娘はどちらも「失われた少女」だったということに気づいた。

私は中学のときひどい胃痛に苦しみ、やっとの思いでバリウムを飲んで検査をしたことがある。少し胃が下垂しているくらいで病気は見つからなかったが、どきどき胃が痛むという症状は高校になるまで消えなかった。今になって考えてみると、「中学生で胃の病で亡くなった父の娘」という私の無意識に沈んだイメージが、中学生になった私の身体に影響を与えたような気もする。

現実に会うことはなくても、いや、むしろ顔も知らない影のような存在だからこそ、十代で死んだ父のもう一人の娘と私の人生は、無意識のうちに分かちがたく結びついていたのかもしれない。



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