母たちの国へ04. 教祖の結末

一九九六年からはじまったいわゆる「麻原裁判」で、教祖がたびたび「不規則発言」といわれる意味をなさない発言をしていることが報道された。それはなりふり構わぬ自己保身のための「気が狂ったふり(詐病)」なのだろうか? 麻原教祖を憎む大多数の人たちは「ペテン師の詐病だ」と言い、弟子たちは「尊師にはなにか深いお考えがあるに違いない…」と漠然と信じていたが、本当のところはだれにもわからなかった。

教祖がまともに語らないまま裁判は粛々と進められ、大方の予想通り一審で「死刑」が言い渡された。そして、普通に控訴審(第二審)がはじまるのだろうと思っていると、突然一審の死刑判決が確定するという意外なかたちで麻原教祖の裁判は終了してしまった。裁判所の「だましうち」のようなものだったらしいが、なにか大きな力で強引に幕引きをされたかのような、唐突で有無を言わせない終り方だった。

一万数千人ほどの信徒を擁する中規模の新興宗教団体が、一国の軍隊が持つような化学兵器サリンを製造して地下鉄にまいた――これは戦後日本の大事件だったのだから、当然最高裁まで争われ、事件の詳細、特に首謀者とされている教祖の口から明らかにされるべき多くのことがあったはずなのに、弁護士が書類を期限までに提出しなかったとかなんとか、素人には「はぁ?」と思うような、なんだかよくわからない理由で裁判は終結してしまった。
二〇〇六年九月のことだった。

麻原教祖の死刑が確定して裁判が終わったこの年に、オウムの後継団体アレフの内部分裂が決定的になった。この頃に私がしみじみ「オウムは終わったな…」と思って脱会を決めたことも、なにか大きなものが終わっていく流れだったのだろうか。

麻原裁判終了の翌二〇〇七年には、上祐氏が「ひかりの輪」を立ち上げて教団は完全に分裂した。アレフをやめた私も「失われた少女の物語」という印象的な夢を見るとともになにかが大きく変わりはじめていた。その頃、森達也氏が「麻原は詐病ではなく、壊れているように見える」と週刊誌の連載で指摘し、一部で徐々に教祖の精神状態が取りざたされるようになった。

「なにかお考えがあるに違いない…」
「本当におかしいとするなら、薬物を盛られたんじゃないか…」

こんなふうに考える弟子が多かったように思うが、私は曖昧な期待と思い込みだけで、これ以上教祖の精神状態を無視し続けるわけにはいかなかった。

「これまでもオウムにはいっぱい驚かされてきたけど、最後、こうくるのかぁ…」

私にとって麻原教祖の精神異常は想像を超えることだった。精神的追求の最高点だと思っていた「最終解脱」と、排泄もコントロールできない精神状態を結びつけるのはかなり難しい。教祖の精神崩壊が事実だとするなら、私にとってそれは私の宗教観を試す試金石のようなものだ。


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