母たちの国へ11. 母と私

私の人生で最もつらかった日々、それは母が倒れてから亡くなるまでの二年間だった。

五年以上たった今も、あのときのことを思い出そうとすると、生々しい傷口から真っ赤な血が流れているような感覚がまだどこかにあって、いざ書こうとしてもはたと手が止まってしまう。

やっぱり思い出したくないんだな、と思う。

でも、書きはじめたものは終わらせよう。それに、これは母についてではなく、「オウムとクンダリニー」について書いているのだから、母との二年間の記述が多少混乱していても、きっとしかるべきところに着地することができるだろう――

母と私は特別仲の良い親子というわけではなかった。母はわりとさばさばした性格だったし、私も表向きには親に甘えるタイプではなかった。母の人生の最後の二年間を実家で過ごし、最期を看取り、数年たった今もまだそのショックから立ち直っていないという事実に、私自身ことのほか驚いている。

「どうしてみんな、母親を亡くしても生きていけるんだろう…」

ふと、そんな思いがわいてきて、

「大丈夫か? 私…」

と思うこともあった。

高校を卒業して親元を離れ、大学で一人暮らしをはじめてから、親から仕送りはしてもらっていたけれど生活費を補うためにアルバイトもして、精神的には独り立ちしていると思っていた。東京で就職してからは、小さな出版社での仕事と、夜間の写真学校、そして好きだった児童文学の同人誌、それぞれの仲間たちとの交流に忙しく、実家には一年に一回、年末かお盆に帰るくらいで、私は一人前の社会人のつもりだった。

私が突然オウムに出家すると言ったときも、両親はたぶん驚きはしただろうけれど、もう大人になっている子どもの主体性を尊重していたのか反対はしなかった。実際は、言っても無駄だと思っていたのかもしれないが、両親にとってオウムは名前も聞いたことがない新興宗教だとしても、断固として反対するべき反社会的な宗教ではまだなかった。

十七年間のオウムでの出家生活をやめて現世に戻ったとき、私はなにも持たず健康さえ損ねていた。でも、親元へ帰るという選択肢はなかった。とにかく、生活のために最低限の仕事をして、「オウムとはなんだったのか」ということをじっくり考え、自分なりに納得できてはじめて、本当の意味でオウムを終わらせることができるだろう。そうすれば、現世での私の人生が再び時を刻みはじめるだろうと思っていた。

そして、両親になにかあったときには実家に帰らなければならないと思っていた。晩婚だった兄にはまだ幼い子どもがいて、おいそれと仕事をやめるわけにはいかない。自由がきく私が親の援助をしようと漠然と考えていたからだ。


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