母たちの国へ06. 「シヴァ・ビンドゥ」

震災のあと、私は「オウム事件はなぜ起こったのか」を、まとめたいと思うようになった。大災害と原発事故の衝撃のせいだったのだろうか、私のなかではじめて事件のイメージ、曖昧だったものの輪郭が浮かび上がってきたような感覚がした。書くことで、私自身その正体を明らかにしてみたかった。

オウム事件は、麻原教祖が説いた危険な教義(ヴァジラヤーナ)が招いたといわれることが多いが、私は教義だけで地下鉄サリン事件のような大事件は起こらないと思っていた。むしろ宗教のファンタジー的側面、教祖とオウムの人たちが共有していた救済物語が、事件へとつながっていく最大の動因となったのではないか――「世紀末の破滅と救済者の登場」「ハルマゲドンと予言されたキリスト」という誇大妄想的な物語だ。

私は「シヴァ・ビンドゥ」(マガジン「シヴァ・ビンドゥ」)と題して事件の解釈をまとめてみた。教祖に降りてきた「キリストになれ」というシヴァ神の啓示が事件の中核にあったと考えたわけだが、簡単に言えば、「自らが捨て石になることで新しい時代を拓こう」としたのではないかということだった。そう考えて見ていくと、教祖にかかわる事象は、キリストの神話とどことなく似ているような気がしてくるから不思議だった。

キリスト表2

似ているのでは? と思っているからこじつけてしまうのだろうか。トンデモな話と思いつつも、なにか意味があるのかも…という感覚がぬぐい去れなかった。弟子たちは教祖の救世主(キリスト)妄想を共有して巻き込まれていった。妄想によって引き起こされたものだから、地下鉄サリン事件には現実的な確たる動機がなく、論理的整合性もない。しかし、不幸なことに、妄想的世界に深くはまり込むとありがちなことだが、奇跡的ともいえる偶然が重なって、なだれ落ちるように事態が進んでしまったのではないだろうか。

「キリストになれ」という啓示が――宗教的狂気なのか正真正銘の狂気なのかはわからないが、事件の核心だったのではないかという考えは、次第に私の確信になっていった。

ただ、このように考えるにともなって一つ大きな問題が出てきた。

「もしかすると、麻原教祖は、本当にキリストなの?…」

そんな思いがどんどん膨らんできたのだ。オウムを包んでいた妄想的エネルギーに、再び強く干渉されているような感じがした。そこから生まれてくるのは強烈なファンタジー(物語)なのだから、なんとか乗り超えなければならない課題だと思った。

「シヴァ・ビンドゥ」は、元オウムの知り合いに読んでもらっても反応はかんばしくなかった。「これこそ事件の真相だ!」と自信満々だった私はがっかりした。そして、そもそもこのようなことは理屈で説明できるようなものじゃない。伝えるためには物語の力が必要なのではないか…そう考えるようになった。



(1)「ユダにやられた」という村井氏の言葉を聞いたのは上祐氏だった。暴漢に刺された村井氏を乗せた救急車に同乗した上祐氏は、村井氏が「ユダにやられた」と言うのを聞いたが、「ユダ」という意味がわからず、教団内でユダヤ陰謀説が取りざたされたことがあったので「ユダと聞こえたが、もしかしたらユダヤだったのかもしれない」と語った。
(2)イエス・キリストの誕生日とされる12月25日(クリスマス)はもともとミトラ教の祭日だった。太陽の力が最も弱まる冬至(23日)から三日後の25日は太陽が再生する日とされ、イエスが処刑されて(死んで)三日後によみがえるという逸話はこの暗喩である。
教祖は公判(1997年4月24日)で英語と日本語混じりに妄想的な話をしているが、そのなかで「私は12月23日に釈放されている」と何度も繰り返している。無意識のうちにキリストの神話をなぞっているように見えることから、教祖はデタラメを言って精神病を装っているのではなく、キリスト神話の妄想のなかに生きているように思われる。(松本智津夫被告の「意見陳述要旨」(1997年4月24日 参照)





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