父
私の父親は、アルコール中毒者だった。
小学校に入る頃には、毎日、千円札を持たされ、
酒とタバコを買いに行かされたのを憶えている。
シラフの父と会話した記憶は 殆ど無いのだが、
酒に酔っていない時は大人しく、知的な人だった。
飲酒運転で、軽い接触事故を起こして運転免許を失ったが、
警察からは、常人の致死量のアルコールが検出されたと聞いた。
母親は、自分の気が済むまで見境なく執拗に人を罵倒する人だった。
幼少期に、私がこの母親から受けた恩恵は、箸の持ち方だけだった。
私の反応が気に入らないと "知恵遅れ" と叫び、馬鹿なのではないかと、
私を執拗に罵り、それでも気が済まないと手が出るのが日常茶飯だった。
家庭内は修羅場で、安全な場所ではなく、学校どころではなかった。
父の暴力は、酔って手加減が利かなかった。
大きなガラスの灰皿や、ゴルフのアイアンで殴られたり、
熟睡している時、突然、顔を拳で殴られたりするのだった。
また、父は、私の左手の親指を切断しようとしたりした。
姉がそれを阻止しに入り、死に物狂いで家の外に逃げた。
殴られる時に頭を庇った手は、何日も箸を持てなかった。
私の両親は函館の人なので、私は函館に住んだ事もある。
父が暴れると 夜逃げを繰り返し、母の実家に一時住んだ。
雪下ろしと鶏の世話を鮮明に憶えている。
そんな生活の終わりは、私が小学校6年生の時に来た。
最後は姉が通報し、家の中に警察が5~6人なだれ込んで、
この家庭は終わりを迎え、私は母親に引き取られたのだが、
後に私は母から去り、父方の祖母に十代を養育してもらう。
離婚した父は、だいぶ穏やかになったが 酒量は変わらなかった。
酒が切れると全身が震え、夥しい冷や汗を流し立っていられなかった。
親戚からも見放された晩年の父を私は上京させ、同居した。
だが父は自分でアパートを借り、一人で暮らす事になった。
父は酒以外、無欲な人だった。
そして生涯、遂に一度として、私に金銭の面倒をかける事はなかった。
晩年の父は、私にだけは迷惑をかけたくなかった。
どういうトラブルに巻き込まれ、どんなに困っても私には言わなかった。
また、私の名前を出す事もなかった。
父は晩年、障害を抱えた女性と再婚し、私に生活保護の手続きを頼んだ。
父が執拗に手続きを頼んで来た背景を、私は父の後妻から聞く事になる。
父は、私に面倒をかけたくなかった。
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