見出し画像

穏やかな朝の陽ざしのような眼差しで

 起きていないできごとについて語るのが好きな人もいるのだろう。僕の場合はそうではない。僕はどんなできごとについても、話すのが好きじゃない。言葉は口から出した瞬間、空中に散ってしまう。まだ起きていないことは、僕の内側のいちばん奥にそっとしまっておきたい。それが永遠に起きないことだとしても。

『ミス・チョと亀と僕』著:チョン・イヒョン(『優しい暴力の時代』の一編)

 『優しい暴力の時代』は生活の鎮魂歌と表するにふさわしい短編小説が収められている。劇的ではないにしろ僕らが生活の上で遭遇する事件やいざこざ、不思議な縁。自分でも思っていなかった感情の発露や消失。
 優しく温かな眼差しで描写される各人の物語は、淡々としていながらも共鳴と深い余韻を呼び起こす。軽いタッチで、奥行きは広く、想像力は豊かに。私たちは登場人物に同化していきながらも、語り手の"眼差し"に見守られているような感覚にもなる。その映像の切り方や焦点の合わせ方が見事で、小説を読むことでしか味わえない楽しみがこの作品には詰まっている。

 もちろん、世の中には優れた短編小説が星の数ほどあり、私が生まれる前の時代まで遡ればそれこそ「お手本」となるようなものを安価で手に入れることができる。しかし、私がこの作品を好きなのはそこに"リアルタイムの感覚"があるからだ。例えば『ミス・チョと亀と僕』では、こんなやり取りがある。

 ところで、どうしてフェイスブックで僕を探そうと思ったんですか?
 あとで僕がそう聞いたとき、チョ・ウンジャ女史は相変わらず優しい笑顔でこう言った。 
 二十一世紀じゃないの。

 このやり取りは僕とミス・チョ女史(チョ・ウンジャ女史)との関係性と彼女の性格を簡潔かつ的確に表している。
 描写レスでも、核はしっかり捉えた描き方だ。

 「僕」は40歳手前の独身男性で、猫のぬいぐるみ(「シャクシャク」という名前をつけている)とともに暮らしている。仕事は高級マンションに住む高齢の住民を相手にする福祉に関する仕事で、日々便器のつまりを直したり、リモコンの電池を替えたりしながら生計を立てている。老後を考えるとあまりに安月給だが、毎月の生活費を払う分には何とか足りるという程度。
 ミス・チョ女史は未婚の女性で、父親の恋人だったという縁から「僕」と親交を持っている。ある日、「僕」は彼女が死んだという報せをメールで受け、遺産として彼女が飼っていた亀(「岩」という名前だ)を預かることになる。

 今や僕は、十七歳のアルダブラゾウガメ、猫の形のぬいぐるみを持つ四十歳の男になるのだ。それ以外に何も持っていないという意味だ。

 近すぎず遠すぎない。「僕」とミス・チョ女史との関係性の中の一場面、一場面が切り取られ、「僕」の心情がクリアになっていくごとに私の日常・生活とコミットし、魂にこびりついていた塊のようなものが自然と浄化されていくような感覚になっていく。

 変わらない日常や変わってしまった物事、起こりえたはずのことと、もう二度とは起こりえないこと。

 私たちの日常はそうした繰り返しに満ちている。それは誰にも止めることはできない。あなたを変えたはずの出来事は終わり、感情は移ろい、日々は過ぎていく。誰かと誰かの関係だって、つながっているときにはその糸が見えず、切れてしまったときに初めて糸がつながっていたことを実感する。そういうものだ。でも、それで人生は終わらない。つながりがあってもなくても、たとえそれが切れてしまっても私たちの日常はまだそこにある。

 「僕」がミス・チョとの優しい記憶を通じて、自分自身と、あるいは世界と折り合いを付ける様子は、「僕」というささやかな一室に穏やかな朝の陽ざしが差し込むような温かさに満ちている。

 日曜日の遅い朝、ベッドに横になって野菜サラダを食べながら、「岩」とシャクシャクの背中を代わる代わる撫でていると、僕と世界がつながっていなくてはならない必要はないという気がする。
 シャクシャクと僕の間、「岩」とぼくの間を結んでいる網は、最初からなかったのかもしれない。それでも僕らは生きていくだろうし、ゆっくりと消滅していくだろう。シャクシャクはシャクシャクの速度で、僕は僕の速度で、「岩」は「岩」の速度で。

 僕と世界がつながっていなくてはならない必要はないという気がする。

 この一節に救われる。「僕」のさりげなく仄かな記憶の果てに感じたその一節に。


 感情を消費する時代。僕らは無自覚に発信と受信に追いやられている。画面の向こうはプラットフォームになっていて、あらゆる人々が行き交っており、その気になればあらゆる場所にも(どんなアンダーグラウンドにも)顔を出すことができる。でも、実際に私が体感している現実はたった一つだけ。その現実には、結局のところどれだけの語る価値があるのだろう?

 世間から押しつけられる「絶対」や「常識」。私という人物がそれに適応できる人間であろうがあるまいが世の中はそれらを土台にして進んでいる。「適合」を求め、弾かれた人間はそれなりの立場に甘んじて生活していかなければならない。何はともあれ、それは世の中の「前提」なのだ。前提にすらたどり着けない人間が悪いというのならば、それならそれで仕方がない。

 でも、私たちも彼らと同じように生きている。それぞれの生活の苦しみ、やがて来る消滅という運命を抱えたまま。私は私の速度で生きて、私のまま死んでいくだろう。何を残せるのかもわからぬまま、誰とつながれたのかも知らぬままに。しかし、その物語が絶望的に描かれなくてはならないというわけではない。その"眼差し"に見守られてからは、そう思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?