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小説『母性』を読んで、母性少なめな私が考えたこと

自分を産んでくれた母親と、自分が産んだ娘。どちらか一人しか命を救えないのだとしたら、どちらを選ぶだろうか?

「私は、母を助けたい」

私がもしこの場でそう言ったら、今この文章を読んだ人は、瞬間的に何を感じ、どのような目で私を見るんだろうか?


私は愛あたう限り、娘を大切に育ててきました。

『母性』p10


本の中には「愛能う限り」という聞き慣れないフレーズが頻繁に出てくるが、愛能う限り大切に育ててきた自分の娘よりも、ルミ子は火事の中で母親を選ぼうとした。



あなたが助けなきゃならないのは、わたしじゃないでしょ

p91

あなたはもう子どもじゃない。母親なの

p91

どうしてお母さんの言うことがわからないの。親なら子どもを助けなさい

p92


火の手が迫っている中で、ルミ子の母は子供を先に助けるようルミ子を説得する。


親なら子どもを助けなさい


私はなぜ、この言葉を違和感なく受け入れているんだろう?

ルミ子だって、助けられるものなら二人とも助けたいと言っている。

この場面では、絶対的に子供を選ぶことが本当に本当に「本当の正しいこと」なのだろうか?

子供ではなく、母親を選ぶことはそんなに「間違っている」ことなのだろうか?

だとしたなら「子供を選ぶことが正しい」とする、その理由はなんだろうか?


もし物語と同じこの場面に、私の母と、私、そして私の娘がいたとする。

私の母は、ルミ子の母と同じように「子供を助けなさい!」と言うであろうことは間違いないと思う。

母がそう説得する理由は、私が「母親」という立場である(母親なんだから!)という理由ではなく、「未来ある若い命を優先しなさい」という理由であると考えた方が自然だ(あくまで私の母の場合)

私の母はコロナワクチンを最初に打つときに「こういうことは私たち高齢者がまず先に試さないとね。若い人を生かさなきゃいけない」と言っていた。

母が「子供を助けなさい!」という理由は、未来ある若い命を優先することであり、そこに「母性」はあまり関係ないと思っている。



以前noteで教えてもらって読んだ『働かないアリに意義がある!』に、アリの生態として、危険な外での作業に狩りだされるのは「年老いたアリ」であるということが書かれていた。

巣の外での仕事は命を落とす危険性が高く、アリ社会全体の利益を考え、できるだけ若い者を生かすために、寿命の短い老アリが外に出て働くらしい。

人間社会でこんなことを提案したら怒られそうなものだが、私の母は仕事柄「人体」とか人間の生物学的?な意義みたいなことを考えるのがとても好きな人であるため、アリ社会のような合理的な考えから「未来ある若い命を優先しなさい」という気持ちで、

あなたが助けなきゃならないのは、わたしじゃないでしょ

という言葉を発するだろうな、と思った。

もちろん、0か100か……というものではないので、愛情だってちゃんとある。

けれど、親子の愛というよりも、自分の子供が可愛いという感情よりも、母は社会性とか合理性を重視した考えの持ち主であるというイメージが強い。

そして私自身も、その母と似たような性質を持ち合わせていると思う。

だから私にとっては「母親なんだから!親なら子供を助けるべき」という理由よりも、こっちの方がなんかいい。

ルミ子の選択がもしも誰かに責められるのだとしたなら、「母親なのに、母親のくせに、ひどい母親だ」と言われるよりも、「合理性に欠けた人」として責められたなら、何億倍マシだろうか?

なんてことが、頭の中に浮かんできた。



(前書き1300字/全5500字)


ここまで読み進めていただき、ありがとうございます。

気持ち悪さや不愉快に感じて、多くの方に離脱されるかもしれないと思いながら前書きを書きました。(ここから先も気持ち悪いかもしれません)

なぜなら、ある言葉に出会うまでは、私も本を読みながら「母性に欠ける人」と感じられるルミ子に対し、ものすごい不気味さと気持ち悪さを感じながら読んでいたからです。


箪笥の下からようやく出た頭を持ち上げ、母は私を見つめて言いました。
子ども……。火を見て冷静さを失っていた私は、母の目を見てようやく我に返り、そこで改めて、娘の存在を思い出したのです。
そうだ、この下に娘もいるのだ。
それでも、私は母から手を離すことはできませんでした。
背後に熱を感じました。ジリジリという音も聞こえてきます。
「イヤよ、イヤ。私はお母さんを助けたいの。子どもなんてまた産めるじゃない」

私は何か間違ったことを書いているでしょうか。

p92「母の手記」より


私は、物語全体を見通すような「考察」というのは得意ではありません。

物語の中から、上に書いたような「ひっかかり」を見つけて自分なりに考えてみること、登場人物について考えながら”他人に対するジャッジ”を手放すための練習ができること、この二つが、私が好んで小説を読むようになった大きな理由です。

私は何か間違ったことを書いているでしょうか。

この言葉にハッとさせられました。

いつもならなるべく偏った視点で見ないようかなり気を付けているはずなのに、この言葉に出会うまでずっと、何の疑いもなくルミ子のことを「母親失格」の烙印を押しながら気味が悪いと思って読んでいたからです。


理想の母親像、母とはこうあるべき、母性とは。ここにある「ねばならない」という思い込みは相当に根深いものがある。

「子どもなんてまた産めるじゃない」という言葉は、「人」としても言ってはならない言葉であると思うけど、私はそれ以上に、他人や父親でもなく「母親」がその言葉を発したことに、間違いなく嫌悪感を抱いている。

私は何か間違ったことを書いているでしょうか。

この言葉に目を覚まされ、一度思い込みを外して考えてみたことが、冒頭に書いた文章でした。


上に書いてきたことは、単純に「私が考えてみたこと」の脳内のシェアであり、何が正しいとか間違っているとか犯人捜しのようなことがしたいわけではありません。

「それって本当?」って、一度自分の常識を疑い考えてみることは私の趣味のようなもの。

ルミ子のことを「母親失格!本当に気持ち悪い」と決めつけるのはそれからでも遅くはないと私は思っています。

また、何らかのネガティブな感情を感じた相手は、自分を映し出す鏡であることも多い。

共感はまったく求めていませんが、こんなふうに「考えてみる人」もいるんだなと、温かい気持ちで見守っていただきつつ、気持ち悪いと思いながらでも、もしも読んだ方が何かを考えるキッカケとなれていたらうれしいです。

それでも、誰かを傷つけていたらごめんなさい。


🐸


もしも「母性」というものが、ある・なしの二択ではなく、多め少なめで考えることができるものならば、私は間違いなく「母性少なめ」の母親だと思います。

だから、
「人として」もしくは「親として」以上のことを求められると、その圧は正直とても苦しいです。

そんなことを考えている時点で「母性に欠ける人」というくくりに入ってしまうのかな?

なんだかそれは「ダメ人間」の烙印を押されたようで悔しいけど(だってそれでも私なりに子供を大事に思っている)、「母性」というものが、父親と同等の「親として」以上の責任を求められるのなら、私は「親としての愛情」は持っているけれど、たしかに「母性」というものは持ってないのかもしれない。

ルミ子の思考や行動を肯定はできない。

でも、こんな自分を差し置いて、私はルミ子に「母性」を求めて必要以上に「母親なのに!」と嫌悪感を抱いていたのだから、まったくおかしな話だなぁと恥ずかしく思いました。

そしてこの気持ちに、私は心当たりがありました。

ルミ子に感じたこの感情は、あのときのものにとてもよく似ています。



『三千円の使いかた』に出てきた、親に図々しいくらい甘える姉の真帆に感じたモヤモヤとすごく似てる。

私はまた結局、ルミ子と同じ穴のムジナということになるのかな。

程度の差こそあれ、こだわるところにも大きな違いはあるけれど、ルミ子と重なる部分が多少なりともある。

子供が小さなころは「ダメ母」と思われることを恐れ、子供の気持ちよりも他人の目を意識して行動してきたことがある。私が正しいと思う道を、良かれと思って子供の選択をそちら側に誘導する声掛けだって自然としてしまっていると思う。

そして、ルミ子は「母親の気持ち優先」だけれど、私は子供よりも「自分の気持ち優先」で生きることを心掛けている。

私の心のゆとりが家族の幸せに繋がると信じてのことだけれど、それに本当は罪悪感がありまくりで「私はここまでひどくない!!」と、ルミ子を必要以上に悪者に仕立て上げることで自分を正当化したいってことなんだろうな。

私は自分の子育てに自信がない。

自信はないけど、こんな母親だけれど、だけど子供たちには幸せになってほしいと本気で思っている。


🐸


私は、母の愛を「求めた」経験がありません。

子どものころは厳しい人で(今はとても優しい)、こちらが母を疎み嫌いだと感じていた時期はあったけれど、「私は母から愛されていない」と感じたことはありません。

前半はルミ子を批判的な目で見ることに終始していましたが、後半部分はずっと私の姉を物語の登場人物と重ねて読んでいました。

ルミ子の母は、とてもやさしく愛に溢れたまさに「理想の母親」といった感じの女性。

でも、そんな愛ある母親に育てられたルミ子は、大好きなお母さんから褒められることばかりを望んで、何かが歪んでいました。そしてルミ子の娘「清佳さやか」は、ずっと母の愛に飢えていた。

私にはあまり見覚えのない世界観だけれど、清佳の想いが私には姉と重なってみえました。

とても切なく、涙が止まりませんでした。


「生きづらさ」という言葉は、最近出てきた言葉でしょうか?

それとも昔からあった言葉なのでしょうか?

30代前半までの私は読書の習慣もなく、人生や生き方について考えることも、人の心について深く考えることにも興味を持ったことすらなく、「生きづらさ」というワードに辿り着くことがありませんでした。

だから「生きづらさ」というこの言葉が、いつから存在していたのかわかりません。

「生きづらさ」というものを、子供のころからずっと抱えていた姉がいつも近くにいたのにね。

そして今もなお、姉が抱える「生きづらさ」というやつがどんなものかわからない。


同じ母親に育てられたのに、この差はいったいなんなんだろう?

母が特別に、あからさまに私だけを可愛がっていたと感じたことはない。

そんな優越感なんて、一切感じたことはない。

姉の目には、母や家族がどのように映っていたのか?

この物語と同じように、ルミ子と清佳から見える世界がまったく別のものだったように、姉の見ていた家族と、私が見ていた家族はまったく違うものだったんだろうか?


※kindleUnlimited対象(短時間で読めるコミックエッセイ。超おススメ!)


これまたnoteで教えてもらった『わたしは家族がわからない』

『母性』と同時期にこれを読み、ずっと姉のことを考えていました。

姉が家族を守ろうとして、「私さえ黙っていれば」という気持ちで本音を出せずにいたことは多分間違いないと思う。

その隠していたものが何であるのかはいまだにわからないし、きっと両親が生きている間は教えてくれないだろうな。

まだもう少し先の未来に、聴く側の私に心の余裕があると姉が感じたなら、いつか話してくれるかもしれない。

姉のことでここに書けることはそれくらいだけど、この小説全体を通して一番考えさせられたことは、実は姉の幸せについてでした。

※私からみた「母と姉」。この記事の続編はコチラ↓


この小説はルミ子の視点と清佳の視点から描かれており、同じ場面であっても全然視え方が違う、こうした作品は私の大好物です。

まだ映画は観ていないので、戸田恵梨香さん演じるルミ子の二つの顔を観る日が楽しみすぎます。

映画ではルミ子の夫の背景についてあまり触れられていないようでしたが、小説ではちゃんと描かれていましたので、気になる方はぜひ小説も読んで観て下さいね。



今日の記事は、ららみぃたんさんへのご恩返し感想文として書きました。

感想文とは言えないかもだけど、そして一般的な考えからかなりズレてて気持ち悪かったかもしれないけれど、受け取っていただけたら嬉しいです♪

『母性』に興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、ぜひららみぃたんさんの考察も読んでみて下さい。

私はららみぃたんさんの書かれる感想文が大好きで、『母性』のこの記事に感動し、とても図々しいお願いをしてしまいました。

私自身が登場人物の気持ちを理解しづらかった本『死にがいを求めて生きているの』を読んで感想を書いてほしいと。

実は小説が苦手だったにもかかわらず、自らの挑戦として引き受けていただき、本当にありがとうございました😭

ららみぃたんさんのさすがの考察はコチラ↓


この本は、そいさんときよこさんも読んで下さり、それぞれそいさん、きよこさんならではの考察をシェアいただけて、とてもとても勉強になりました。


それにしても、noterさんたちの言語化能力の高さに驚かされます。

同じ本を読んでも、どの部分に何を感じるのかはそれぞれだし、その本から得たものをどのように自分の人生に活かしていくのか?

他の方の考えられたことを、シェアしていただけるのは本当にありがたい。

こうして一緒に学び合える仲間ができたことに感謝です!

ららみぃたんさん、そいさん、きよこさん、ありがとうございました。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。





(粘土作品&写真提供💛糸、ラムネ好き成りさん)










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いただいたサポートは、夢の実現のために使わせていただきます 私の夢は 日本全国の学校・図書館に、漫画『宇宙兄弟』を寄贈すること https://note.com/arigatou_happy/n/n4b0d2854718c 一歩一歩かぺる(頑張る)しかない!(2023.3.21)