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「怒るな。笑えということだ。」

今日は少し不思議な、見えない「相手」との対話だ。

私が怒ると良くないことが起きる。これは昔からある出来事で、自覚したのはここ数年。それから年々「よくないこと」の度合いが酷くなってきているのをとても怖く感じる。最近では、人が死ぬこともある。

怒らせた対象や、嫌がらせをした人は近いうちに何か不運に巻き込まれたり同じ目に遭うことが多い。電波に干渉するのか、スマホやSNSが変な狂い方を一時的にしたり、電化製品が壊れるのも日常的だ。

スピリチュアルとは距離を置いているがこればかりは実際に起こる出来事なのでどうしようもない。また、軽い気持ちで強く願い事を言うのも厳禁だ。とんでもなく強引に叶ってしまう。何かが犠牲になってでも。

頭がおかしいと思う人もいるだろうが、体感した人にしかわからない、これはスピリチュアルというより恐怖体験に近いのかもしれない。見守られている、という実感はある。

見守られているというか「絶対に死なさないように」なにかに見張られている、という方が近い表現だ。

私が絶対に死なないようにされているのは何故だろうかわからないが、何かこの人生のうちにやり遂げないといけないことがあるのだろうか。

幸せになれよと言いたいのはわかる、でもそれは全ての人間にあることのはずだ。なぜそこまでしてでも(そこまでする?というような出来事がたくさん起きてきたことを踏まえて)私をまだこの世に置いておきたいのか、私にはよくわからず困惑することもある。

ただわかるのは「怒るな」ということ。

怒りは二次感情であり、その感情の裏に隠れるのは負の感情だ。つまりそれを持つなといいたいのか。

そして、こちらの記事でも書いたように

負のエネルギーを周りに散らさず、ポジティブを連鎖させていけと、そういう意味が込められているのではないか。「怒るな、笑えということだ。」と、ある人に言われた。

怒っても何の意味もない。周りも自分も不幸になる。

色々な出来事が起きて心身ともにたくさんの痛い目を見て散々言われているのに、まだわからないのかと。そんなことを言われても腹の立つことは起きるわけで、しかしそれは負の感情に取り込まれてしまってから始まる。それはそうかもしれない。

また、負の感情ばかり抱える人とは心が安定している時以外は一定の距離を置かないといけない。しかし持病のため、「今はだめだ」がわからない時があり、そんなに死なせたくないのなら「今」というわかりやすい何か合図くらいくれてもいいのにな。とも思う。

そこは自分で考えろという。そこまで見えない存在は甘やかしてはくれないのだ。

神様と呼ばれるような存在たちは、願い事をしたら必ず叶えてくれるわけではない。自分の力で這いつくばって、正しい道へはこちらだという案内だけをして、あとは自らの足で幸せに向かって、走れ!と導くのが基本だ。

今の私にしなければいけないことは、とにかく、笑うこと。

笑えないのは笑えない「何か」がつっかかっているからだ。その原因を知って、取り除けばきっと笑って過ごせるのだろう。

自分の笑顔は昔からあまり好きではないが、笑顔を褒められることがよくある。笑顔は人を幸せにする。幸せの連鎖をさせながら、生きていけ。

「笑う門には福来る」

そう、言いたいんだろう?

山口葵

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