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「でんでらりゅうば」 第14話

 不審な気持ちを抱えながら小道を通ってアパートに帰った安莉は、鍵を出して玄関のドアを開けた。
 玄関は暗く、シンとしていた。そうだと言えばいつもそうなのだが、今日はなぜかこの静けさが際だって感じられた。先だっての男の別れ際に言った言葉が気になって、神経が立っているせいだろうかと思った。
 安莉は正面の、白い羽板のクローゼットを見つめていた。そういえば、ここに来てからこのクローゼットはまだ一度も開けたことがなかった。
 何か胸騒ぎのようなものを感じて、靴を脱いで玄関に上がると、安莉はクローゼットを開けた。するとそこには、思いがけないものがあった。
 両側の壁に固定されたハンガーレールに、一着だけ、白いダウンジャケットが吊り下げられていた。丁寧にハンガーに架けられたそれは男物で、長いあいだ着古されたもののように、袖口が少し汚れていた。
「いったい、誰の……」
 そのとき、以前、寝室の衣装引き出しから出てきた口紅のことを思い出した。そのことを阿畑に聞くのを、すっかり忘れていた。
 またしても、安莉は気味が悪くなった。このアパートには、明らかに前にほかの誰かが住んでいたのだ。しかも、少なくとも二人。一緒に住んでいたものか、それともひとりずつなのかはわからないが、ともかくもこのアパートに残る人間の生々しい痕跡が、安莉の不安な気持ちに拍車をかけた。
 早速、安莉は阿畑に電話をかけた。トゥルルル、トゥルルル、と長いあいだ呼び出し音が鳴ったあと、阿畑が電話に出た。
「あ、あの、阿畑さん……」
 慌てた声で安莉は話した。以前引き出しの奥から口紅が出てきたこと、今日玄関のクローゼットのなかで男物のダウンジャケットを見つけたことを聞くと、阿畑はしばらくの間を置いて、
「すぐに行きます」
 と言った。
 
 下の村の振興局で仕事中だった阿畑は、電話を切ってから一時間後には、安莉のアパートに着いていた。そして、口紅とダウンジャケットを見ると、携えてきた振興局のマークのついた紙袋にそれらを入れた。
「なに」
 落ち着いた声で、阿畑は言った。
「前におられた方の忘れ物でしょうね。安莉さんが来られる前に掃除した者がサボって見落としたらしいです。いかんですね……、注意しとかんば。でも確かに気味が悪いですよね、こんな風なもの見つけると」
「ええ、少し」
 安莉は言った。本当は、少しどころかかなり気味が悪かった。アメリカ人の話を聞いた後だけに尚更だった。
「前におられた方、っておっしゃいましたよね? 前にもここに人が……?」
 安莉が聞くと、阿畑はこともなげにこう答えた。
「ええ。おられましたよ。パンフレットを見て応募して来られた方は、前にもおられましたから」
 さも当たり前のようにそう言われると、ああ……、と、安莉は納得するしかなかった。なるほど自分以外にも、この仕事に応募して働きに来た人々がいたというわけだ。
 すみませんでした、と、神妙な面持ちで頭を下げて、阿畑は仕事に戻っていった。

 ――本格的な冬が近づき、山峡の村では曇りの日には細かい雪がちらつくようになった。村の秋祭りはなかった。安莉は、そのあいだにも携えてきたノートに文章を書き込み続けた。気づけばそれは徐々に自らの心の奥深くに潜ることを辞め、村の様子、村の気候、そこに暮らす人々に関心の向いた紀行文のようなものに変わっていた。村に着いたときから二ヶ月と半月が経ち、毎日多くの時間を費やして綴ってきた文章は早や三冊のノートを埋めていた。
 
 このころ安莉が興味を持って記録し続けていたものに、この村の特異な構造形態のことがあった。村人の数は、総勢約五十人を少し越えるくらい。長老クラスの年寄りが何人もいたが、誰も村の起源について知る者はなかった。ただ大昔、平安時代の終わりに壇ノ浦の合戦に敗れたあと逃れてきた平家の落人たちをかくまっていたことがあるという言い伝えが残っていて、それだけが村の歴史の古さを物語っていた。
 そして、今村人たちにわかっていることは、村に五軒の家しかないということだけだった。御影、砥石、古森、阿畑、星名……。星名は〝ほしな〟ではなく〝せいな〟と読む。あの澄竜の家だった。村の人口が五十人とそこらなので、五件の家しかないとすれば当然一件につき十人ほどの親戚縁者のみで成り立っていることになる。それは安莉がこれまで知るなかでもっとも小さいコミュニティだった。

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