見出し画像

アラサー独身女子の努力義務

身勝手な選択肢

私は昨今のニュースで話題になっている「努力義務」という言葉に怒り心頭である。努力義務とは何ぞやと。義務なのか自由なのか半強制なのかが分からない。組織が80%くらいまでルールを作り、あとの20%はお任せしますよと言われているような身勝手な選択肢を与えられている感覚だ。まるで、選択肢を与える側が悪者にならないように、相手に都合の良い応えを誘導しているようにしか思えない。どのくらいの組織規模かによるが、国がそう言ってしまうと、もはやこちらが折れる選択肢はないという感じだ。

そんな私はというと、いわゆる超盛れる角度を探しながら自撮りの真っ最中である。足立区女子であるというのに一丁前にGUCCI大先生のトレーナーを着ながら、プライベート用のSNSに載せるために奮闘しているのだ。足立区女子であるのだけれど少しでも港区女子のように魅せたいよ、そう魅せてくれよという、そこはかとない欲望なのである。これがGUCCI大先生の「努力義務」といったところであろうか。そうか、各々が各々のポテンシャルの努力義務があるということか。それでは、アラサー独身女子である私の努力義務は何であろうか?

「アラサーであるなら」「独身であるなら」という前置きをされるのは何か腑に落ちない部分はあるが、努力義務とは恐らくそれが付き物なのであろう。アラサーであるなら酸いも甘いも経験し、経済的にも精神的にも自律した女性であるべきといった風潮だ。そして、結婚願望のある独身なら、今のうちに自由を謳歌しつつも花嫁修業はしておきなさいという少々難題を突き付けられいる感じである。それらは、必ずしも形式張ってそうであれとは言わないけれども、概ねそうであった方が宜しいということである。何なら、暗黙の了解でそうであってくれよという感じであろうか。やはり、身勝手な選択肢と捉えられても致し方ない。しかし、それが努力義務なのであろう。「偏見と責任の集合体」とも言える。そんな集合体なんてあってたまるものかと今にも叫びたい気持ちだ。そんなステレオタイプとも言える集合体のせいで恋愛が思うようにいかないことも多々ある。

今なら、種苗放流される魚の気持ちが痛い程分かる。「ある程度」まで飼育されて、ある日いきなり野生に放たれるのだ。ここまではしてあげるけど、あとは自分で宜しくやってねという無責任な感じ。中途半端なところで責任を課せられてしまっては、頭の中がハテナで埋め尽くされてしまう。「努力義務」も正にそれなのである。種苗放流される魚たちも己の努力義務を果たしているように、アラサー独身女子である私も己の努力義務を全うしたい所存だ。