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松本人志とSONY製のイヤホン

 私は今から二つのことを語ろうと思っている。松本人志とSONYのイヤホンのことである。全く繋がりのないトピックスだが、直感的に繋がっている気がしたのでそれを確認する作業を行う。

 まずは松本人志氏の性加害疑惑の話。最終的にどこに着地するかはわからないが、私にとって興味深いことは真偽に対して明らかにすることではない。また、世間の反応として様々な意見や見解が垂れ流され続けていることでもない。私が注目するのは人の揺れ動く記憶

 今回「告発」した女性は何年も前に”不本意”な性交渉を持ってしまい、それを週刊誌にリークしたことに端を発する。8年くらい前の出来事で、何故今このような告発に至ったのか。それは彼女の中で当時の記憶がようやく定着し、告発せざるを得ないような感情に襲われているからだ。これは当事者の問題というより人の記憶にまつわる、重たいテーマだと考えている。

 一方で松本人志氏はこの時の記憶はあまり印象に残っていないか、単純に愉快な時間として薄い印象として残っているだけではないのか。

 自分もそれなりに長く生きてきて感じるのは、過去の記憶は良いものも悪いものも印象として常に揺れ動いているという実感。誰かと過ごしたあんなに楽しかった記憶が、その人との別れで辛い記憶に、苦々しい思い出に改変されることは誰もが経験していること。また本当に辛くストレスフルな時間や体験も、ギリギリ乗り越えてしまえば、成功体験や切り抜けた事実を経てポジティブな印象を残すことになる。記憶は常に留保された状態で脳内に保管される。そしてその後の時間経過と共に記憶はアップデートを繰り返す

 同じ体験した人と昔話をする時にその印象のギャップに驚くことはないだろうか。最初の印象は限りなく近接している。それが時間経過と共に大きく乖離していく。乖離のプロセスは双方のその後の時間の過ごし方と経験に強く影響を受ける。そして数年後には双方の記憶も印象も全く異なった様相を呈する。同性同士の記憶でもこのような現象が頻発していることからすれば、生理的に別の時間を生きる男女の場合は当然然り。

 非常にデリケートな事案であるため緻密な議論が必要であり、記憶の取り扱いについては個人レベルでも社会レベルでももっと慎重になるべきだ。客観的な事実のみで世界が回っているわけではない。様々な欲望や感情を伴って社会が駆動して、それを前提とした時代に個人が存在している。社会の記憶が、個人の記憶が、世界を形成する。(ポストツゥールースのように現実より認識の方が重要であるという思想もわからなくはない。極端な思想はそれはそれで危険だが、その思想の成り立ちを理解するスタンスは大事だろう。)

 そしてSONY製のイヤホンについて。最近、穴あき構造のイヤホンLinkbudsを購入した。音楽は好きなので何度もBluetoothイヤホンを買ったものの、耳を塞ぐ状態が苦手で結局使わないケースが続いていた。Linkbudsは穴の空いたイヤホンで、外音を遮らずに音楽を聴けるコンセプト。別の構造で同じコンセプトのイヤホンは多くあるが、この非常にユニークな構造による提案が個人的に刺さって、今好んで使用している。日本にいるときはドライブで、車内で音楽を聴くのが私の唯一の趣味みたいなものだったが、上海での海外赴任では車の運転が許されず音楽を聴くシーンを奪われた状態だった。そこに救世主としてLinkbudsが登場。私のルーティンは晩御飯の前にランニングをすること。ナイトクルージングのようにお気に入りの音楽と上海の街の音とを同時に耳に入れて走るのは本当に気持ちが良い。とても贅沢な気分だ。今聴いている音楽は上海の街並みと街音とを同時にコンパイルした状態で脳内に保存される。そしてこの音楽を聴き続けることで上海の記憶は時間と共に上書きされていく

 生きることは記憶を改変するプロセスと同義である。ここに人間の厄介なところと同時に癒しや可能性も孕んでいる。

 私は無責任にも松本人志も告発した女性も同時に支持し、共感し得る。過去、二人の間である事実が生まれた。男の中では楽しい思い出として美化されたままで記憶が定着した。一方で女の中では当時の僅かな違和感が増幅していき、猛烈な嫌悪感を伴った。それだけのこと。同様の現象は世界中のここかしこに存在する。男女問わず、揺れ動く記憶の中でしか生きれない人間の宿命だ。

 記憶は容易にコントロールできない。だから、今を自分のできる範囲で精一杯に誠実に生きるしか道はない。松本人志もその女性も、”誠実”に懸命に生きてきたはず。彼らと同様に私も記憶に翻弄されて生きてきたし、これからもそれが続く

 上海の生活の記憶が今蓄積されている。将来的にこの記憶がどのように改変されるかはわからない。どうせ編集されるなら、何事も決め付けずに適切に仕事をして、適切に勉強して、適切に遊ぶだけ。いつも通りの凡庸な結論だった。

 Linkbudsを装着して上海の街をナイトクルージング。
 歩道に並ぶ青い自転車と黄色い自転車。
 サカナクションの都会的なサウンド。
 早めの春節休みに入った家族がスーツケースを引いていた。
 無音で近づく電動バイク。
 山口一郎の情緒的なリリック。
 個性を競う建築物とそのイルミネーション。
 少し欠けた黄色の大きな月を目線の先に見据えた。

 10年後この景色はどのような映像として
 私の脳内で再演されるのだろうか。 

イラスト引用:chojugiga.com

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