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経済格差が生むのは、教育格差ではなく「価値観の違い」

たしか高校生までは、「格差」のことなんて意識してなかったし、感じることもなかった。

しかし大学生になると、少しずつそれを感じるようになった。

ヴィトンのバッグで通学する人。アルバイトをせずに親からの仕送りのみで下宿する人。大学卒業祝いに車を買ってもらう人。就活せずに、海外へ留学する選択をした人。

大学院への進学を選択した私だって、捉え方によってはその仲間なのかもしれない。

上記にあげたことが良いとか悪いとか、そういう話ではない。
ただ単純に、「あれ、それって私の感覚では普通じゃないかも」と感じる機会が増えていった。

格差についてよく話題に出されるのは、やはり「経済格差」と「教育格差」の関係性だろう。

私が関心があるのもこのトピックで、今こちらの本を読んでみている。

経済的に豊かな家庭で育った子は、たくさん習い事ができるし、塾にも通える。親の経済力と学歴にも相関があるので、経済的に豊かな家庭には、きっとたくさんの本もあるだろう。バラエティ番組をみることは少なくて、ニュース番組をみることの方が多いかもしれない。

格差社会を漫画でわかりやすく描いてくれている以下のサイトを見れば、「格差社会」とは何なのか、1分で理解できる。


たしかに経済格差が生むのは、子に教育費を投資できるかどうかとか、子のための環境づくりの差なのかもしれない。

しかし経済格差が生む差とは、本質的には「価値観」の違いなのではないかと私は思う。

学ぶことへの価値観、大学へ行くことへの価値観、休日に出かけたいと思う場所の価値観。

総括すると、経済格差が生む習慣や環境の差が、「重要視すること」や「楽しいと感じること」の価値観の違いを生み、それが経済格差が生む本質的な差なのではないかと思うのだ。

たとえば「勉強が嫌いだ」という価値観をもつ親の子は勉強嫌いになりやすいだろうし、起業家を親にもつ子は「自分も起業できるかもしれない」という効力感をもちやすいだろう。英語がペラペラな親の子なら「自分も英語を話せるようになりたいな」と、英語を話せない親の子よりは思うかもしれない。

これらはすべて「価値観」だ。
だからきっと文化資本の差が生むのは、本質的には「価値観」の違いなのだろうと思うのだ。

文化資本(英語: cultural capital、フランス語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。

Wikipediaより引用

ただここで述べておきたいのは、高い学歴をもつことが絶対的な良さじゃないし、経済的に豊かであることが、必ずしも幸せにつながるとは限らないということ。

なぜなら経済的な豊かさは、“金銭感覚の差” にもつながることが考えられるからだ。

たとえば、誕生日プレゼントにハイブランドのバッグを買ってもらえる家庭に産まれた子にとっては、社会人になって自分で稼いだお金で初めてハイブランドバッグを手にする子の喜びを感じることは、難しいかもしれない。

子どもの頃から頻繁に海外旅行に連れて行ってもらう機会があった子は、アルバイトで稼いだお金を地道に貯金して、初めて海外旅行に行く子の喜びを同じように味わうことはできないかもしれない。

このように、経済格差と価値観の関係のみならず、“その価値観がどう幸せに関係していくのか” までを合わせて考えてみると、経済的に豊かでないことが、逆に「幸せを味わう力」を高めてくれるような気もする。

経済的に豊かな子は、豊かな暮らしができるし、たくさんの経験を積める。留学でもなんでも金銭的な壁を感じることなくできてしまう。だから客観的には、経済的に豊かな子ほど幸せそうに見える。

だけどきっと豊かな暮らしをする人ほど、“幸せの基準” は高度化する。

だったら主観的には、“幸せの基準” がそこまで高くない、そこまで豊かな暮らしをしていない人の方が、「幸せを味わう力」をもち、「幸せになれる可能性」をもっているのではないだろうか。

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私は、格差社会が生むこのような「価値観」の隔たりをなくしたいと思う。

先に述べたように、「価値観」という観点においては、経済的に豊かな人ほど幸せだとは限らない。「幸せを味わう力」は、経済的に豊かでない人の方が強いとも考えられるからだ。

一方で、「学ぶことの楽しさ」に気づく機会は、経済的に豊かな人や親の教育歴が高い人の方が得られる可能性が高い。

だから「学ぶことって楽しいんだ」という価値観をすべての人に、より多くの人に広げたいと思う。

ただ、学ぶことがすべてというわけでもない。
ゲームが好きでそれに一番熱中できるなら、プロゲーマーを目指すことがその子の才能を一番伸ばすことにつながるだろう。

だけど少なくとも、「学ぶことって楽しい」という価値観に一度でも出会えることが、その子の可能性を広げる一つのきっかけにはなるはず。

そのきっかけが、その子にとって有益かどうかはわからない。
その輪がうまく引っかかるかはわからないけれど、
とりあえず投げてみたい。
引っかからなかったらそれでいい。
でも、一度も投げずに大人になるまで見過ごすのは、その子の可能性を広げ切らずに子ども時代を終えてしまうことだというふうに感じる。

今の日本の教育スタイルは、「学ぶことの楽しさ」を感じられるものだとは言い難い。それが、「勉強は嫌いだ」という価値観をもつ親の元に育った子ならなおさらだろう。実際、私がそうだった。

しかしたった一度でも「学ぶことの楽しさ」に気づける機会があれば、学びへの価値観が変わるはず。
その価値観の変容が、その子の可能性を広げるための一助となるはず。

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私はまだ子をもつ親になったことはないけれど、きっと親にとって子とは、自分の命にかえても守りたいと思える、大切な存在だ。

待ちに待った我が子が誕生した瞬間に、「この子を幸せにしたい、この子がもつ可能性をできる限り広げてあげたい」と、きっと多くの親がそう願うはず。

だから私は、人の可能性を広げたい。というとやっぱり抽象的で、どんな形でかはわからないけれど、将来そういうことができればいいなと思っている。


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