うみのよう

生命あるものとして、いかに、この世界、宇宙で存在するか、永遠の課題か。然れど自分なりの…

うみのよう

生命あるものとして、いかに、この世界、宇宙で存在するか、永遠の課題か。然れど自分なりの答えを摑みたい。

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生きること自体が、目的である、

私は生きる 生きるために 生きる 生きること自体が 目的である だから 他のことは 手段である 生きていながら 生きる目的を 探す人が多い 生きる目的は 生きること 自…

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親に幼い頃から常に恣意的に誰かと比較されて、貶められてきたとしたら、つらいだろうな。自尊感情、自己肯定感が育たない。誰かに癒されない限り、一生痛みと苦しみ、自己否定感は続く。でも残念ながら、そういう罪悪感をもたない超毒親はこの世に存在する。それが現実だ。

うみのよう
10日前
12

当たり前に思っていることが
当たり前でなくなると
価値の逆転が起こる
絶望が希望になったり
希望が絶望になる
人生、一寸先は闇
闇も光も全てを受け入れて
それでも立ち続ける
そのようにありたいと
願うけれど

うみのよう
10日前
11

私たちは
多くの人が彷徨う
深い霧の森の中で
生きている

うみのよう
2週間前
13

世の中から競争がなくなれば
もう少し緩やかで
生きやすくなるのだろうか
競争のない世界
お互いを較べ合うことなく
生きていることを
喜び合える世界
各々の違いを認め合えれば
人はみんなもう少し幸福に
近づくことができるようにも
思うのだが
そんな想像をしてみる

うみのよう
4週間前
16

この社会でなんとか適応して
生きていかなければならないと
自らに強いていたことに気づいた
無理をして適応しなくても
この社会のどこか
自分らしくいられる場所で
どこかの片隅で
ささやかに生きていけばいいのだと
そう思った
あるがままに
心が自由になった
そう感じた

うみのよう
1か月前
17

人は運命に従って
世界を創造し続けている
完成されたプログラムの通りに
そこには自由意志があるように
思えるが
自由意志はないとも言える
俳優が台本通りに
舞台で役を演じるが如く
終結は定められている
それは終わりとともに
始まりとなる
時空を超越した
高次な在る者のために

うみのよう
1か月前
14

僕らはなぜ急いでいるのだろう
なにを焦っているのだろう
いずれにしても
行き着くところは終着点
なにも生き急ぐ必要はない
なにも死に急ぐ必要はない
時が満ちれば
人は
必ずたどり着くのだから

うみのよう
1か月前
11

がんばるとか、がんばらない
そんな尺度は捨ててしまったら
どうだろうか
集中する、弛緩する
そちらのほうが
いいように思うのだが

うみのよう
1か月前
17

なんか最近ゆるんできた。これまで「こうしなければ」と自らに枠ぎめしていたものを外したからか。たとえば食事、たとえば運動。寿命、健康寿命を長引かせるために、検査数値の上がり下がりに一喜一憂して、自分に縛りをかけるのをやめた。ゆるみは心地よい。無理せずゆるむ。少し生きやすくなった。

うみのよう
1か月前
17

多様性に縦と横はあるのだろうか。多様性は多様な人がお互いを認め合いう並列の関係になると思うのだけれど。所謂上下関係、支配・被支配の関係はないと。しかし格差は拡大し続ける。全ての人が各々の違いを尊重し合い、横に繋がり合う世界はユートピアか。今後世界はどのように動いていくのだろうか?

うみのよう
1か月前
17

人と人との繋がりは大切だが、人との距離も大切だ。物理的距離は人と接する時間、距離、頻度、精神的距離は関係の質と言えるか。人間関係は複雑だ。繋がりたくない関係もある。ユングの示すコンステレーション、星々は引き合い反発し合い全体のバランスを保つ。限度を過ぎると破壊的な影響を与え合う。

うみのよう
1か月前
21

中3の時、担任のO先生と進学先について話した。先生は「自分の人生で最期まで一緒に居てくれるのは自分だけ。自分の進路や人生をどう生きるかは、自分自身で決めなさい」と言った。人は結局一人であり孤独であることを教えられ、生徒=1人の人間の進む道を案じて見守るO先生の温かさが心に染みた。

うみのよう
1か月前
18

散りし桜の花びらが一枚
アスファルトに貼りついている
その上を踏みつけて過ぎる
靴たちの傲慢な声が響く
雨に打たれ
風に削られ
ボロボロになり
消えていく汚された欠片に
目もくれず先を急ぐ意識たち
聴け
言葉もなく
消えていく
花びらの聲を
儚い美は
瞬きの間に
消失する

うみのよう
1か月前
13

さみしさもかなしみも
くるしさも
かみしめながら
あるく
なにかに
よりかかることなく
このみちのはてるところまで
あるきぬく
そして
まえむきに
たおれよう
しずかに
しずかに

うみのよう
1か月前
13

高校の頃、三無主義という言葉が流行った。そんなことを思い出した。大人から「近頃の若い者は」と批判的な意味で「無気力」「無関心」「無気力」を指していた言葉だ。1970年代。その後「無感動」が入って四無主義となったが。今の若者はどう言われるのか?もっと「無」は増えているのだろうか?

うみのよう
2か月前
15
生きること自体が、目的である、

生きること自体が、目的である、

私は生きる
生きるために
生きる

生きること自体が
目的である

だから
他のことは
手段である

生きていながら
生きる目的を
探す人が多い

生きる目的は
生きること
自体でよい

生きる目的を
探す人は
それ以前に
生きているのだ

心臓は動いている
そのことに気づけば
何も焦る必要はない

生きていると
時間がある

だから
好きなことを
すればよい

勿論
生きるために
不本意でも

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親に幼い頃から常に恣意的に誰かと比較されて、貶められてきたとしたら、つらいだろうな。自尊感情、自己肯定感が育たない。誰かに癒されない限り、一生痛みと苦しみ、自己否定感は続く。でも残念ながら、そういう罪悪感をもたない超毒親はこの世に存在する。それが現実だ。

当たり前に思っていることが
当たり前でなくなると
価値の逆転が起こる
絶望が希望になったり
希望が絶望になる
人生、一寸先は闇
闇も光も全てを受け入れて
それでも立ち続ける
そのようにありたいと
願うけれど

私たちは
多くの人が彷徨う
深い霧の森の中で
生きている

世の中から競争がなくなれば
もう少し緩やかで
生きやすくなるのだろうか
競争のない世界
お互いを較べ合うことなく
生きていることを
喜び合える世界
各々の違いを認め合えれば
人はみんなもう少し幸福に
近づくことができるようにも
思うのだが
そんな想像をしてみる

この社会でなんとか適応して
生きていかなければならないと
自らに強いていたことに気づいた
無理をして適応しなくても
この社会のどこか
自分らしくいられる場所で
どこかの片隅で
ささやかに生きていけばいいのだと
そう思った
あるがままに
心が自由になった
そう感じた

人は運命に従って
世界を創造し続けている
完成されたプログラムの通りに
そこには自由意志があるように
思えるが
自由意志はないとも言える
俳優が台本通りに
舞台で役を演じるが如く
終結は定められている
それは終わりとともに
始まりとなる
時空を超越した
高次な在る者のために

僕らはなぜ急いでいるのだろう
なにを焦っているのだろう
いずれにしても
行き着くところは終着点
なにも生き急ぐ必要はない
なにも死に急ぐ必要はない
時が満ちれば
人は
必ずたどり着くのだから

がんばるとか、がんばらない
そんな尺度は捨ててしまったら
どうだろうか
集中する、弛緩する
そちらのほうが
いいように思うのだが

なんか最近ゆるんできた。これまで「こうしなければ」と自らに枠ぎめしていたものを外したからか。たとえば食事、たとえば運動。寿命、健康寿命を長引かせるために、検査数値の上がり下がりに一喜一憂して、自分に縛りをかけるのをやめた。ゆるみは心地よい。無理せずゆるむ。少し生きやすくなった。

多様性に縦と横はあるのだろうか。多様性は多様な人がお互いを認め合いう並列の関係になると思うのだけれど。所謂上下関係、支配・被支配の関係はないと。しかし格差は拡大し続ける。全ての人が各々の違いを尊重し合い、横に繋がり合う世界はユートピアか。今後世界はどのように動いていくのだろうか?

人と人との繋がりは大切だが、人との距離も大切だ。物理的距離は人と接する時間、距離、頻度、精神的距離は関係の質と言えるか。人間関係は複雑だ。繋がりたくない関係もある。ユングの示すコンステレーション、星々は引き合い反発し合い全体のバランスを保つ。限度を過ぎると破壊的な影響を与え合う。

中3の時、担任のO先生と進学先について話した。先生は「自分の人生で最期まで一緒に居てくれるのは自分だけ。自分の進路や人生をどう生きるかは、自分自身で決めなさい」と言った。人は結局一人であり孤独であることを教えられ、生徒=1人の人間の進む道を案じて見守るO先生の温かさが心に染みた。

散りし桜の花びらが一枚
アスファルトに貼りついている
その上を踏みつけて過ぎる
靴たちの傲慢な声が響く
雨に打たれ
風に削られ
ボロボロになり
消えていく汚された欠片に
目もくれず先を急ぐ意識たち
聴け
言葉もなく
消えていく
花びらの聲を
儚い美は
瞬きの間に
消失する

さみしさもかなしみも
くるしさも
かみしめながら
あるく
なにかに
よりかかることなく
このみちのはてるところまで
あるきぬく
そして
まえむきに
たおれよう
しずかに
しずかに

高校の頃、三無主義という言葉が流行った。そんなことを思い出した。大人から「近頃の若い者は」と批判的な意味で「無気力」「無関心」「無気力」を指していた言葉だ。1970年代。その後「無感動」が入って四無主義となったが。今の若者はどう言われるのか?もっと「無」は増えているのだろうか?