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スピリットと自由の性質
自我という言葉を使うとき、いつもためらってしまいます
子供が「自分でする」というのも自我ですし、
聖人らの「自分勝手」は、何が最善を見通し、常にそれを選択していて、それもいわゆる自我であると思います
一方、隠してでも飴を食べたがる「ワタシ」もいます
いずれにしても、「自我」というわたしを支えている源には恐れか愛のどちらかになるのだと思います
なのでここでは恐れに支えられた自我を「エゴ」と表記します
もし愛が法になったら
■愛が法
もしこれから自身の愛にのっとって生きられたなら、
楽しいだろうなと思います とても自由になって
そのひとつに自分の性質や情熱を活かすことがあると思います
例えば畑をしながらジャムをつくる人がいたとして、それを近隣に配ったり
DIYが好きな人は時にお困りの家をリフォームしたり、
誰かの話を聞いてあげたり
カップに絵付けしたいという想いと探求が発展に結びつき、あるいは人の心の豊か
ものがたりー裸足の娘
その娘(こ)は裸足が好きだった 光る髪をなびかせて風と戯れる
その娘はおてんばだった スカートのまま木に登り 肌着になって泉に飛び込む
その娘は発明家だった 心の向くままに興味を持ち心の向くままに没頭する
その娘の手はお医者さまだった 草や料理は薬となって 痛いところをさすれば不思議と痛みは癒された
その娘はあわてんぼうだった 村のみんなはからかって「パン」と呼んだ
それは村に住む犬のパ