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調和の鍵、「感じる」(再投稿・修正版)

■感じる
「感じる」ことは「ある」「いま」「わたし」

意識が変われば、意識の産物も現在とは全く違ったものになると思います

そして日々再生を繰り返しながら、それぞれのペースで広がり続ける自己を楽み、充実した日々を送れるよう、

始まりは「感じる」

目を向ければ至る所に私たちを満たしてくれるものが広がっていて、

一日の始まりや、雪を踏みしめるときの感触、おいしいごはん、他愛のないおしゃべり、お湯の温もり・・

子供の頃そうだったように、わくわくはいつもそこにあって。

「感じる」ことでまず忙しく動いている思考が止まり、

喜びで満たすほど軽くなって、「愛で在る」状態と同じにしてくれます

その時のバイブレーションが今の私たちにとても重要で、

力がみなぎる実感を持つ人もいるでしょう

何事も楽しみに変える遊び心が生じることもあると思います

少なくともその状態においては、おおらかでいられるのではないでしょうか

その軽やかさにおいては、恐れを克服しようと頑張らなくても、勝手に頭の中の声が消え、頭の中ででっち上げた恐れやエゴをちょっとの間、脇に追いやることになります

そういう時は嫌味の矢も刺さりにくいように思います


そうして「感じ」て、心を動かすほどに生命を実感させ、

感情を通して己を知り

その時の言葉にならない感じと言うのは、他の誰でもなく、自分にしかできないことなのだと思います

感情を表現する時、他者と分かち合え、

そうして「感じる」ことで主体性も育まれます

主体的に生きることで不満を遠ざけ、

何かをするのに理由が必要だと思い込んでいたけれど、理由がなくったって構わない

そうした自由意志の尊重が他の尊重にも繋がって、調和の基にもなるのだと思います

生きていれば時に魔がさす、あるいは余計な荷物を抱えてしまう、自分を見失ってしまうことはよくあることで、

ただ経験を与え合うその時も、調和はあるがままに見つめさせ、(本人はちゃんとわかっているから、次に何をするべきかも)それが大事に至るのを遠ざけるのだと思います

(ただし尊重はエゴを野放しにすることとは違います また喜びはエゴを喜ばせるということでもありません)

そして自分の意志で動けることで不公平感、あるいは義務や強制すら必要とさせなくなります

それだけで十分なのだと思います

後は自動的

軽やかなエネルギーが溢れたなら、ルイスアームストロングの「what a wonderful world」の中で、すれ違う人のごきげんよう、心の中では「愛している」と言っている、と歌われているように

愛し合う

それは何も特別な事ではなく

健やかであることが愛となり、愛に応えていることになることもあるように、

おはようひとつとっても親和性が乗れば、それはいていいんだという感覚にさえさせて、

私たちをこうでなければいけないというところから解放させてくれるのだと思います

そして脇に追いやっていた何かしらの恐れも必要がなくなると、

必要だと思ってしがみついていた物もいらなくなって、

それがシンプルにさせ

意図は単純になり、

率直にさせ(率直であることで関係間の疎通も明朗かつスムーズにさせるように思います)

何よりシンプルが増々、愛に則ることも容易にさせます

思えば愛とは不思議なもので、

包んであげたくなるような

また危険を前に果敢なスイッチが入るような

愛が恐れや後先のことや相手への期待の前に立って

それはコルベット?にクシャナを乗せたナウシカのように。

いずれにしても物は真の喜びを支えるツールに過ぎず、

創造はそのものが愛の結晶(産物)であるよう、

その上でおしゃれを楽しんだり、

自分のわくわくに必要なツールをバランスの中で取り入れたり、想像力もさらなる喜びに活かし、

そして思考には作為のない意図を支えさせ

探求するその時も、物事には裏表があり一概にこうだと決めつけられない側面があると思いますから、ニュートラルに見つめ、

他人の言ったこと(ここに書いてあることも)に流されず、物事にいろいろな角度から光を当てながら自分で考えることも大切になってくると思います

そうしたことがすべてが愛でできているという発見にも繋がって。

そうした忘れ去られたことの再発見の数々は生そのものを信頼することに繋がり、それが人生を助けるのだと思います

いずれにしても問題に対して、あるいは生かし合う工夫を凝らすその時も、

軽やかなバイブレーションにおいては、より高いレベルの愛(高い次元)にアクセスすることを容易にさせ、それがおのずと調和となって、各々の道を助けるのだと思います


そして「わかる」は、知識でない知
真実
叡智
調和の基

子供の「だってそうだから」と同じように

とても単純で、

それは思考の中になく

自然を見つめれば、自然の純粋な知性に触れもします

その知性は私たちをより単純でピュアな真実に誘ってくれます

そうして意識と共に内に、周囲に、在る「ある」を認識させ、


また「感じる」ことで五感も養われれば『知覚』も鋭くなって、

それは気配を感じる、視線を感じるようなもの

私はこの感覚は五感に並ぶ感覚だと思います(器官ということではなく)

その上でハートの風通しも良く、(先入観のない)ニュートラルなら、深い知覚へと誘われ、

それはハートで触れ合うようなものだと思うから


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