見出し画像

スピリットと自由の性質

自我という言葉を使うとき、いつもためらってしまいます
子供が「自分でする」というのも自我ですし、
聖人らの「自分勝手」は、何が最善を見通し、常にそれを選択していて、それもいわゆる自我であると思います
一方、隠してでも飴を食べたがる「ワタシ」もいます
いずれにしても、「自我」というわたしを支えている源には恐れか愛のどちらかになるのだと思います
なのでここでは恐れに支えられた自我を「エゴ」と表記します
そこで聖人らの自我ですが、ワンネスの元にあるため、結果的にその最善は相手のためだけでなく全体のためにもなっていて、私の喜びにもなっています
「わたし」に嫉妬は生じないものそこにあります
それは「わたし」がない状態とは異なります
一つしかない飴を相手に差し出す時さえ犠牲的になることもありません
相手に見返りや何かを求めるようなこともありません
一方おそれに支えられた自我は、「私が大事なワタシ」によって、ワタシが守られている状態で、
優劣も、嫉妬、承認などもそうですが、
それらはそうしなければ生き残れないと言った恐れを基にした観念によって支えられています
恐れを源にして社会を構築しているので仕方のないことですが、
つまりエゴというのは「ワタシ」を守る鎧で、
それが近視的にさせ、しがみつかせます
優越感のように現時点で恐れを感じていない場合でも同じです
それを支えている観念自体が恐れに支えられています 
なのでそれにしがみつかせます
強くあれ、寛容であれなども一見聞こえがいいので惑わされがちなのですが、
それは「わたし」を表現しようとする時、混乱させたり、「わたし」と分離を起こさせます
そもそも愛ならば相手をコントロールすることは全くありません
ところで以前、自分勝手でいいという記事をどこかで見たことがあります
それから近年の若者が、ドライな選択(自分中心)をしているところをよく目にします
ただ、根底に愛がなければ、それはエゴがそうさせています

■無条件
ソースとなる「大いなるそこ」は完全でとても心地よく、圧倒的自由でした
ただ、そこは状態なので
「わたし」を知るには「そこ」を離れるしかない
そして私と言えば、冒険もしたい、挑戦も楽しいと思う質なので、ずっと「そこ」にいたいとは思わなかった
ここにいる皆さんもそうなのではないでしょうか
また、意識の世界では具現化に時間を有することがありませんが、
ここでは無の0から何かを生み出すのに時間がかかります
ハードワークなので、
自身の事になると焦点が狭まり、もう嫌だとなることもありますが、
もう3歳以下のゲームでは物足りないように、簡単だとつまらない 
ここではここの楽しみ方もあって、
ここでしか経験できないこともあって、
だからこそ、ここにしかないきらめきがあるのだと思っています
小さい頃の私は夢の中で自由に空を飛んで回ったり、川や海に潜って遊んだりしていました
夢の中で苦しくないということに気が付きます
意識でもってして海の中に潜ることもできますが、肉体があるから生々しくそして水圧があると知る
そして道具を作る
その過程においてドラマもあるでしょう
肉体を養うことも必要だから葛藤もある
そしてそこに喜びも見いだせる
感じることもIN
「わたし」を表現することもOUT
ワンダーがFULLなのです
その視点に立てば苦々しさも愛おしくなってくるのではないでしょうか
ところで同じものを見ながら、
この世は天国だ
この世はsuckだ
また人ひとりとっても機嫌がいい時は不躾な人をスルーできるし、機嫌が悪いと文句を言わずにはいられないということもあると思います
その連続性の中で行きつく先がありますし、それを変えることもできます
そこで私がお伝えしたいことは、
そんな私たちに法則性はあっても条件はありません
そうでなければ本質を損なってしまうのです
ゆえにわざわざ人が条件を作って不自由になる、その自由さえ私たちにはあるのです
そしてそれすら愛と自由と創造に繋がっているのです
そのことを順に説明したいと思います

■自由
在る時、天使に同化したことがあったのですが、
もう他に何もいらないと思わせるほど、愛で満ち、足りていて、
愛で満たされていることの心地いいことと言ったら
だから愛さずにはいられない
実はそんな単純なことなのです
そして彼らは例外なく私たちを愛していて
私たちを助けるために働いていました
私たちも人生を充足と喜びのあるものにすることもできます
ただ、私たちにはエゴがあります
エゴは「わたし」と対極にあります
ただ、「自由」はエゴと(わたし)の間に立たせます
自由は「大いなる」と同じ性質です
それは愛の性質そのものです
そのスピリット(性質)が私たちの中にもあります
そこで自由ですが
1制限がないこと、
2恐れがないこと、
3条件がないこと、
4何を選んでもいいことなどがあると思います
私たちは際限なく広がり続けることができます
なんにでもなれる、できる可能性を秘めています
また自由の中には恐れなく、結果にも拘らず、何が現れてもそれに惑わされることなく、より純粋な「わたし」を生きる自由もあるでしょう
その時、何をするにも源に愛があり、炊事さえ愛する機会となって、そういう意味で苦は現れなくなります
そうでなくても構わない無条件の自由もあります
例えネガティブに反応してしまってもモーマンタイです
そこには機会もあります
また、そこにも「知性」は宿ります
「知性」は痛みも知っています
ネガティブも知っています
エゴも知っています
そして許可して抱きとるなら「知性」は愛となります(共感、理解など)
今も、多くの人が自らの体験を告白し、私たちに勇気や癒しや気づきを与えてくれています
また機会は当事者だけではありません
誰かのネガティブな反応を通して、私たちにも様々な機会は与えられます
それは自分の中にもそれがあることを気づかせるかもしれません
あるいは「わたし」を表現する機会もあり、
ゆえにどのあり方もギフトなのです

また、「LION/ライオン〜25年目のただいま〜」という映画では、迷子になった子供が自分の生まれ故郷を探すのですが、
そこで主人公は感情を通って、真の欲求にフォーカスしていました
そのことがきっかけで社会問題を浮き彫りにしています
なので人生はsuckだでも構わないのです
自分の感情を通って、
例えば嫉妬という感情から、
選ばれないということが浮き彫りになったとします
多くの人はそのsuckなはずの現実に沿って選ばれる人になろうとするか恨みに任せるかだと思いますが、いずれにしろ、私たちはそこから観念を見出せます
選ばれないとどんな恐れがあるのか
そこには集合意識と社会の在り方が関わっているかもしれません
もし平和の内に見出そうとするなら、嘘も必要としない開かれた場にすることもあるでしょう(台湾の政府がそれを試みようとしていますね)
恐れは責めますが、愛なら耳を傾け、それは正直にさせます
そうして物事は変化し、
私たちが自由になるほど、
人は喜びに向かいますから、
「わたし」を活し、そして他を生かし、
その環は飢えさせることがなく、
どのあり方も許可されるでしょう
中にはただ別れを経験したい魂もありますし、誰かに何かの経験をさせるために生まれてきた魂などもあります
そして本来、そのどれもが愛に繋がっています
恐いという経験でさえ
だから経験そのものを恐れなくてもいいのです
そしていよいよ感情を大切にしながら、人生を気づきと愛と創造に使えば、それこそ、現象として現れるものが、自由と愛と創造の渦になるのです
そうなってもおもちゃは取り上げられることはありません
完璧ではあっても完全尽くしではありませんから
そこで人生を気づきと愛と創造に使うよう、反応についてお話したいと思います

■ポジティブな反応、ネガティブな反応
私に明るい見方を教えてくれたのは父でした
どこかで事故があってたまたま渋滞になって、それにはまった時、父は「お、歌の練習ができるな」と歌を歌います
そうすることで父は意図的に私たちを和ませてくれようとしていました
そして車中はカラオケ場となります
するとあっと言う間に時間は過ぎ、むしろ、もっと乗っていたいという気にさえなっていて
時間はあってないようなものだと言うことも教わり、
父のお手本は、今では私の財産となったのです
このように人生と状況を使って「わたし」を表現する道具に変えることもできます
たとえ誰かがみんなのモノを持ち逃げしたとしても、
中には素晴らしいアイデアで、それの代わりをどこからか調達する人もいるでしょう
その人は自分たちには計り知れに力があること教えてくれます
なにが現れても大丈夫であることも教えてくれます
その時、思考(知識)は「わたし」を支える役目を果たします
中には信頼という愛を経験したい魂もあるかもしれません
それは相手が盗まないという期待を元にした信頼ではありません
どの道を通ってもいい 本人に任せると言う信頼です
愛がそうさせます
それは自身への信頼でもあります
何があっても大丈夫な私がそこにいるから
その信頼が私を自由にさせ、相手を自由にさせる
その上でわくわくしながら「わたし」を表現します
そうして所有というネガティブな反応を支えている観念が、愛を源にしたものに変われば、泥棒という観念もなくなり(つまり泥棒はいなくなり)、赦さねばならないことも何もなくなるのだと思います

一方、ネガティブな反応ですが、
ネガティブな反応というのは恐れを源にした観念に支えられたものを指します
そしてこういうことがありました
田舎の町でお店がOPENすると最初の一か月くらいは行列ができます
それである時、田舎の私道のような一本道の公道が人と車で溢れてしまいました
それである人はイライラし、かつ「人を守るため」と正しさでもってして、政治家に苦情を訴え、政治家は調査なしにそれに対応し、片側にポールを立て、歩道と車道をわけるということがありました
ただ、ポールを立てたところで人は歩道を使うことなく道の真ん中を歩くので、道が狭くなったことでいよいよ渋滞もひどくなって、嵐が去るとただの邪魔でしかないものとなってしまいました
そのように、ネガティブな反応を支えている観念により正しさができると、それがイライラもさせますし、その後の行動もそうです
そうして私たちはこれまで何かが現象として現れる度、力づくて完全尽くしにしようと鍵を掛けたり、ルールや正しさを設けたり、人には罰を与えたりしてきました
そのどれもが恐れを源にしているのがわかると思います(それがいよいよ人に警戒心を与えることになるのですが)
そしてそのどれも外側をコントロールしようとしているのもわかると思います
このようにネガティブな反応により構築された社会においては、他者も含め外側をどうにかしようとして、いよいよ複雑になり、正しい正しくないの思考で生きるようになり、
その観念に基づいた正しさが泥棒をよしとしないでしょうし、愛すらエゴの上に基づいてもいます(それは愛ではないのですが)
ただ、ネガティブな反応であっても、それを気づきに使うこともできます
駐禁のキップを切られた時、損したと思うことはあると思います
ネガティブに反応する時、どこだどこだぁとわくわくしながら恐れに支えられた観念を見出します
私たちの「深く」は現象がそのように働いていることを知っています
現象を意図して見るようになれば、
その瞬間、それはギフトとなります
■解放
いろいろな方法があると思いますが、私の場合、一旦、片隅に置いて(どうしようもないですからwwただ、ないことにしたりするのは抵抗になりますから、放って置く感じで、)自身の情熱に心を砕きます
夢中な時は一種のトランス状態のような軽やかさになり、
その状態に長くとどまり続けていると、どうしてそう思っていたんだろう、何にしがみついていたんだろうと思える瞬間がやってきて、
それが新たな信念を齎し、巡り巡って片隅に置いていた観念を昇華させるということもあります(観念の上書き)
また、背が高いことが嫌だったのですが、ヒールを履いて颯爽と歩く背の高い女性と遭遇して「いいんだ」と思え、古い観念が音を立てて崩れる出会いもありました 
■創造
誰もが、私と言う豊かさです
その豊かさのどんなにすばらしいことか
多くの人が才能やなんかにフォーカスしていて、その豊かさに気づいていません
子供のように、ただ泣いて笑って喧嘩して
うれしくなって踊り出せば、花も一緒になって揺れます
目から涙をこぼせば、猫がそっと寄り添ってきます
ごめんねって言われれば、私のつまらない意地もちっぽけに思え
そうして体いっぱい溢れる豊かな言語をシェアする
それだけで目を覆いたくなるような出来事は現れるほうが困難になってきます

世界を見渡してみると、ある社会は十分に足りていることを知っていて、至る所に幸せを見出すことができるので、ないという信念形態もありません
この世には心を豊かにしてくれるものが至る所にあるのだと彼らに気づかされます
私も四季を通じて永遠に誘ってくれる虫の音が大好きです
その心もまた豊かさです
私は木漏れ日という言葉が好きで、なんて美しい言葉なのだろうと思っているのですが、その言葉を現す外国語がないと知った時、どんなに驚き、また、日本人の感性にときめいたことか
五月雨、小雨、穀雨、氷雨 ・・日本にはたくさんの雨があるのもその豊かさ(ゆとりや感性や自然を愛でる心や)によるものだと思います

そして望みを口にしたら誰かしらによって叶えられる世界では、
誰かがアイスが食べたいと言えば、誰かが「よし、僕が隣村の誰々さんに牛の乳を分けてもらってくるから」と言いい、「なら、私が作るわ」と近所のお姉さんたちが作ってくれます
皆、誰かの望みを叶えてあげることが大好きだからです
僕が「牛乳が手に入らなかった」と村に帰れば、知恵者のおじさんが、牛乳に変わるものを教えてくれます
あるいは「~でアイスを作る」と言った動画が僕のところにやってくることもあります
そうして心もお腹も満たされてみんな生きる喜びを噛みしめながら豊かさを経験し合い、
そしてそれが社会となり、
愛だからする
それに強制はどこにもないのです

創造はいかようにも


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?