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雑記 幸福とは、楽しさを感知できる状態のことである

 鬱々としておったところから所用で遠くの町へ行き、そこで買いものやらメシを食うやらしてだいぶ復活した金井です。暮らしている町から離れるとおもしろいもんで、ほれ、町によって道をゆく人々の服装って違うでしょう。たとえばそれを眺めるのでもおもしろい。この町は社会人多めだとか、ここは遊びに来てる人が多めだとか。いい服着てるなあとか。見てて妙に楽しかったんですけど。

 買いものというと本二冊とノート十冊、食ったメシはチェーン店のレバニラ定食と、つつましいもんなんですが、これで十分楽しかった。おもしろそうな本を選ぶにもじっくり本屋の中を歩くじゃないですか。そこでその吟味がまた楽しい。ノートを買うのなら雑貨屋、そこでも目的以外の視線の移ろいはある。これ便利そうだなとか。これあったら嬉しいだろうなとか。目的の買いものはすぐ終わるから、せっかくなので他のものも見ておくのである。そしてメシ、いや金井が食うんだから安いメシですよ、ひさびさに入った店でレバニラ定食をいって、いやあこれがうまかった。レジでは店員のおばちゃんの弾ける笑顔。なんかいいことあったのか、百万円とか拾ったのかってくらいの。後味のよい昼飯でした。

 そうやってよその町を歩き回って気づいたのがタイトルのことであります。あ、楽しいなこれ、と気づいたときその人は幸福であると。なんか鬱々としてると気づきにくい、というかわからないんですね、世や暮らしの楽しさとか妙味とかが。メンタル面を整えて何かをしてみたらばけっこういいぞこの世は。そのあたりが経験として昨日わかった。細かく見るというのかよく見るというのか、発見すること、気づくこと、そのあたりに幸福に生きる条件があるような気がする。充実だとか。

 例を挙げると、盆栽って一見地味じゃないですか。少しずつ育っていく鉢植えの小さな木を手入れしつつ眺めるというあの趣味、あれのおもしろさがわかるというのはよほどの発見なんじゃないか。やる人はすごい味わいとして楽しんでいるでしょう。幸せなんだと思うぞ。盆栽の例が極端なら、他の趣味、創作するとか鑑賞するとかありますわな。そういう芸術方面でなくても、スポーツをやったり見たりするのが楽しいとかさ。ゲームなら将棋からチェスから囲碁からドラクエからスプラトゥーンからとある。それぞれにファンがいるってことは、みんなどこかしらで楽しんでいて、楽しさに気づいて、それをやってたら幸福なんだってことじゃないの。

 坂口恭平はこういった。「なんか楽しみ見つけて楽しむ以外に生きる目的ないよね」。実はこの一文を引けばこの記事でのいいたいことなどは終わるのであったが、雑記をダラダラ書くのもあたくしの楽しみなものでね。頭から考えを引きずり出してすっきりだ。

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