知恵とは、誰かのマウントに立ち蔑み優越を感じるために使うものではない
自分はずっと陰謀論について話してきたが、陰謀論を全て鵜呑みにして信じてはいない。
陰謀論に思想が変えられたり染められるのは拒否する。自分の思想は独自のもので何者かの影響を受けてきたわけじゃないし、誰か特定の思想主義を持つ著者が書く政治論や陰謀論には賛同していないし、そういったものはまともに読んだこともない。
重視するのは実際にあったこと、出来事、歴史的な背景と事実とされるもの。誰かの思想主義で主張される歴史と政治、プロパガンダのために使われてきた陰謀論は鵜呑みにしない。何者も拝まないしリスペクトなどしないのでこの人物の主張が絶対とはしない。
中国共産党に賛同などしないが、中国人を嫌ってるわけでもないし、北朝鮮も同じで金正恩を良く思ってはいないが北朝鮮の人々を憎んだりはしない。それは韓国もロシアもイスラエルもパレスチナも、イランでも何処でも同じで、たとえ統一教会のようなカルトでも、それに属している信者の人々を嫌ってるわけでもない。
イスラエルとネタニヤフを批判、指摘してもイスラエルの人々を批判してるわけでもないし、ハマスを良く思わないがパレスチナの人々を良く思っていないわけでもない。
イスラム教を信仰するのは自由だが、その中にある女性蔑視や男性優位の考え方は許容しない。それはユダヤ教でもキリスト教でも同じで、そういった偏見的な部分は賛同できない。
自民党議員が統一教会と関与していようが、裏金問題のようなことが発覚しようが自民党全体として人を見ているわけではなく個人を見ている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いをやっているわけではない。
右翼や左翼に属しているわけじゃないので、どんな思想主義でもその主張が間違っていないと認識するなら納得するし、逆にそれはおかしいと思うなら迷わず指摘する。
誰でもそうだと思うが、まず自分の思想主義が何処から来たものか、植えつけられたものなのかを考えればやはり答えは自分以外の何者かに植えつけられたものでしかない、といった答えが出る。
例えば憧れる人物がそう話した、深く考えずに、ただ憧れる人物が話した事だから間違いないと認識する、その考えに賛同しその考えを迷わず広める、とするのはその時点で宗教が始まったのと同じ。
好きな芸能人、有名人だから、その人が言っていることは間違いないと思い込む。その人物がナチスヒトラーが素晴らしい、と言えば迷わずそれに賛同。一度それを植えつけられると払拭するのは難しい、その人物を正当化させるための陰謀論をエコーチェンバーし、迷わず信じてしまう。
重要なのは誰が話したか、ではなく何を話したか、であり人物への崇拝とリスペクトをした時点でそこに思想主義の植えつけが発生する。結果的にその人物に反する者は皆敵であると認識するようになる。
一度信じた人物を疑い始めると、そのシーソーゲームは極端に偏り一気に過激な批判者へと転換する。ドナルドトランプを信じたが、後にそれが間違っていたと認識し、逆にトランプを徹底的に批判する側に感化する。
そうやって賛同者を増やし、左右の思想主義に属しては無重力のシーソーゲームに参加して騒ぎ続ける。
そのシーソーゲームこそソドムとゴモラ、ゴクマゴクであり、いずれに属しても結果は同じ。お互いを喰らい合うウロボロスに成り下がるだけ。
自分は親や兄妹、学校の先生にすら従うことはしなかった。たとえ学校の先生に、こういった歴史があると話されても、それが真実の歴史であるとは認識しない。これが普通や当たり前の道徳心と教えられても、素直に信じてそれには従ってはこなかった。なぜなら普通や当たり前、道徳心は人それぞれ違うので、その人物の道徳心に従うことはその人物の思想主義の支配下になるのと同じだから。
その思想主義に属せとするのはマインドコントロールになり、洗脳になる。野球少年が熱血先生の指示に従い、怒鳴られても罵られてもそれが道徳心だと植えつけられたなら、大人になってもその思想主義のまま生きる事になる。その逆も同じ。
本人だけがそういった考え方を持って生きるだけならかまわないが、それを他者にも押しつけようとする、それが絶対だと思い込み頑なに曲げずに主張し続ける。
その積み重ねが極右や極左といった思想主義を次から次へと生み出し続けてきた。
野球少年が上達するのは指導者の努力ではなく本人の努力。指導者が怒鳴ったから、失敗を罵ったから上達するわけじゃない。怒鳴られながら100球投げるのと、何も言われずとも100球投げるのとでは結果も変わる。
罵られながらの場合過度なプレッシャーの重圧がかかり、人の目を気にして大事な場面で失敗してしまう、みたいなことはよく起こること。指導者が見ていればなお失敗してはいけないプレッシャーがのし掛かりやはり失敗してしまう場面は度々起こる。
その一方では自分自ら上達したくて、独自に100球投げる努力を続けた人物は、どんな場面でも滅多に失敗することはない。しかし自分に自信がつき過ぎれば、カッコ悪い所を見せたくないとするプレッシャーが、やはり失敗を招く結果を生み出す。
では、何が間違っているかと言うなら失敗や間違い、ミスを恐れること、それを過度に揶揄したり怒ったりすること、それが間違っている。人は完璧ではないので絶対にミスをしない人間など存在しないし、完璧な思想主義を持って何かの活動をしている人もいない。
勘違いや認識間違いを恐れる必要はないし、それが勘違いや認識間違いだったなら素直に認めて改めたらいい。我々の脳ミソはコンピューターではないので何もかも全て把握できているわけではなく、自分の知ってることを他者が知らず、他者の知ってることを自分は知らない場面など頻繁にあるもの。
知らなくて当然であり、知ってて当たり前なんてことはなく、そんな羞恥心を刺激する悪魔の囁きから成るパラノイアなど気にする必要など微塵もない。知恵とはこうである事実について説明するものであり、誰かのマウントに立ち蔑み優越を感じるために使うものではない。
だから、自分が間違っているのかもしれない、なんて考える必要もなく、そう信じているなら少しの勘違いや認識間違いなど気にせず意識を高めることに専念する。その勘違いや認識間違いなどすぐに正せる、逆に指摘されたらありがたい、それを知らぬままでいる方が問題であり、知ることができて良かったと思うことが大事。
それによって今まで信じてきた思想主義の完璧さは崩れるかもしれないが、臨機応変柔軟な思考で考えを改めて0から作り直す気持ちで整理をする事ができる。そうやって物事はより完璧な理想に近づき、他者の偏見的なものではない、左右の何かの思想主義に閉じ込められない考え方、思想がそこに生まれる。
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