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【主要部分無料】「児童の保護」に関して、踏み込んで考える。 ①

(元々有料の記事でしたが、この問題についての関心が以前より高まっている為に緊急で無料にしました)

子供と性犯罪を取り巻く状況は、もはや魔女狩りのように思う。
「子供を性被害から守る」それ自体は良い事だが、大義名分ばかりが暴走していると感じる。

記事の無料化にあたって ~保守化する国際社会~

2024年7月9日執筆
私がこの記事を無料化する決断に至った経緯は、至ってシンプルである。
社会が不安定化したが故の舵取りとして全面的に保守化し、それはアメリカのトランプ大統領候補や彼の信者による議会襲撃事件とそれからの横着裁判、ブラジルのボルソナロ元大統領が関与したと云われる三権議会襲撃事件、アルゼンチンのミレイ大統領によるリバタリアン保守主義的な政策だけでなく、欧州議会でも移民問題やさまざまなことを巡り、右派が大勝した事で裏付けられる。

ロシアによるウクライナ侵攻や、パレスチナvsイスラエルvsハマスの三つ巴の戦闘も、社会の不安定化と保守化という両義性(アンビバレント)を加速させるのだろう。

https://x.com/patobullrich/status/1774547062849175620

例えばアルゼンチン治安相のパトリシア・ブルリッチ氏は自らの「お手柄」として児童ポルノやドラッグでの逮捕事案をXに掲げている(そしてそれを賞賛しているのは、アルゼンチンの若者である!)。それが社会的カルトにより造られたイデオロギーであることも知らずに。

私は如何なる犯罪も肯定しないが、こういう思想を述べたり、言える事こそ真に民主主義が行使されていることではなかろうか。



序章

私がこのnoteを書いたきっかけは、ほんの些細な事だった。
知的に高いASDであり、尚且つ早熟だった私は、インターネットにのめり込んでいた。
当時話題になっていた東京都青少年健全育成条例改正案や、児童ポルノ禁止法に単純所持の処罰規定を加えるかで言論大戦争が起きていた。
2010年代前半の事である。

その時からか、子供だった私は、大人が「見てはいけない」というのが何故か理解出来ず、一方的に保護を押し付けるばかりだと認知していた。

性の事は、寧ろ面白い領域なのに。

はじめに

以上は、私の幼少期の話ですが、何故この有料マガジンを書くに至ったかと言うと、この2020年代はソーシャルメディアとスマートフォンの普及でそれ迄日陰者だった性の領域が浮き彫りになり、主流なマスメディアで取り沙汰される機会が増えました。

私はそれを最初こそ歓迎していたものの、次第に違和感を感じざるを得なくなりました。
人々が性について議論するようになったのは良い事とします。然し、性暴力や避妊、中絶と言った個別性が高いものまでコンテンツ化するのは如何なものと感じます。
例えば、低容量ピルを推進する記事は多いものの、35歳以上の女性には相対禁忌であることや、避妊目的がなく、月経困難症の治療目的でのみ服用するとメリットよりデメリットが多くなる事は書かれていません。

また、性暴力についても然りです。報道や、マスメディアが挙って取り上げる事による精神的苦痛(フラッシュバック)の問題も存在しますし、それらを無視して報じるマスメディアは未成年者の性被害の申告件数は減っているという結果は報じないのです。
全ては日本のフェミニストが悪いのです。

「子供の保護」の話をしますと、世界中で子供の無謬性が強く盲信されているように感じます。ですが、子供はJIS規格に沿った工業製品ではありません。早熟な子供も居ますし、その逆も居ます。

私は子供時代、子供の保護という風潮に傷付けられましたし、納得出来ません。然し今は2023年です。スティーブ・ジョブズが世に解き放ったiPhoneが存在します。それを武器にし、この巨大な怪物と立ち向かうのです。

第1章

「子供は自己決定権がない」という嘘

21世紀の現在、子供に自己決定権がないという言説は支配的である(特に性関連に於いては)。
しかし、その言説は嘗ての優生学や、今話題のトランスジェンダリズムと同様、ある部分(この場合子供の成長と性的同意能力の関連)が未解明である所に漬け込んだ物に過ぎない。

事実、優生学が流行りだった20世紀初頭は、遺伝学が未発達であったのもあり「親の障害は子供にそのまま遺伝する」と考えられていたし、トランスジェンダリズムも、「性ホルモンは心理に何かしらの影響を与える」という「何かしら」がはっきりとは解明されておらず、かつ「性同一性障害の確定診断の手法」が未だに開発されていない事に端を発するのだろう。

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/7172783/

上は医学的な治療法の意思決定に基づく論文であるが、14歳は大人と変わりがなく、9歳では恒久的な影響を齎す医療的な決定を下す能力は成人と比べて低いようであるが、治療に関しての選好を示すことは高齢者と変化はないという。

こういったことがあるので、ジェンダー肯定医療であるような「思春期前期の子供に思春期ブロッカー(リュープリン)を注射する」行為を正当化する事は難しい。だが、性的な好みを示したり、同意する事は別では無いかと私は思う。


更に、子供の身体が未発達な状態で性行為をする事は禍根を残すのだという説もあるが、これも怪しい部分がある。

2004年から2005年に掛けてアイルランドでなされた調査であるが、成人と関係を結んだ未成年者は、その後の適応度が低いと言うことはなく、そうでない者に比べて適応の差は殆どが小さい上、寧ろ適応は良好であった事が示されている。

また、専門知識ではあるが出産などを想定せず、身体機能のみに着目するとなると平均的な体格の女性の腟に陰茎を挿入し射精する行為が出来る年齢は6歳8ヶ月とされている。

それ以外にも現代の風潮と相反する調査はあるのだが、それらは暫く紹介を控える。

これらを見ても分かるように、「子供に自己決定権がない」という推定は、子供の発達段階を十把一絡げにしているし、全く建設的ではないとすら思う。

もし、noteを見ている方には親御さん達も居るだろうから、親達がそういった考えをしている事は理解出来るし、唯私が言いたいのは、それらはコメニウスやルソーの影響を受けた自然主義や(教育者やPTAがエログロ排除に走るのはこれ)、メタ倫理学で言う所の強固な実在論(これはAI児童ポルノ規制論や、他称「表現の自由戦士」の一部にもみられる)に過ぎないし、それを押し付けないでもらいたいのだ。その考えから自らを解き放って貰いたいのだ。

一般的な見解とその批判

子供の保護に対する見解は人により異なるが、一般論から見て行きたいと思う。

Spencer.A.Rathus先生他共著の『Human Sexuality in a World of Diversity (paper) (9th Edition) 』の児童性的虐待の記述ではこうある。一部を和訳する。

多くの人は、ジェリー・サンダスキー(少年に対する性的虐待で有罪判決を受けた大学ラグビーの元コーチ)が犯したような子供への性的暴行を、最も凶悪な犯罪と見なしている。性的虐待を受けた子供たちは、社会的・感情的な問題を抱えることが多く、それが大人になるまで続くことで、自己肯定感や人間関係に影響を及ぼす。

研究者のデビッド・フィンケラー(2012年)は、その数を約20万人から30万人と推定している(フィンケラー(2012)は、性的嫌がらせを経験する子供の数を100万人から200万人と推定している)。性的虐待を受けた子供たちの多くは女児であるが、サンダスキーの被害者を含め、4分の1から3分の1は男児である(Edwards et al., 2003)。22ヶ国の65の研究を分析した結果、男児の7~8%、女児の19~20%が性的虐待を受けていると結論づけられた(Pereda et al., 2009)記憶の誤り、羞恥心、当惑などのために事件を報告しない人が多いため、実際の割合はもっと高いかもしれない。

子供への性的虐待は、性器の露出、キス、性的なタッチから、オーラルセックス(フェラチオ、クンニリングスなど)、肛門性交、そして女児の場合は腟性交まで広範囲にわたる。着替え中や入浴中に子どもの性器に触れる、子どもと一緒に寝る、子どもの前でヌードになる事は解釈の余地があり、多くの場合無害である。

子どもは法律上、同意することができないため、大人と子どもの性的接触は、たとえ子どもが望んでいたとしても虐待となる。同意年齢は州によって異なるが、同意年齢未満の成人と児童の性的関係は、どの州でも犯罪である。

Spencer.A.Rathus Human Sexuality in a World of Diversity (paper) (9th Edition) (Pearson, 2013), p.550をDeepl先生の手助けを得て和訳

この本は米国の本なので、当然ながらアメリカの事情に沿って書かれている。2013年とほぼ10年前の本だが(執筆時点では2023年)、この風潮自体は大きく変わっておらず、寧ろインターネットの普及で正義感を振り翳す口実になっているとすら思う。

例えばアメリカのZ世代の間では、年の差カップルに冷たい視線が向けられる事があるという。合意の元の年の差カップルまで「グルーミング」と言うのだ。創作、リアル関係なく。
この事について、私が敬愛している宮台真司氏の言葉を借りれば「クズ」の佇まいだと思うし、実際にそうだと思う。
Z世代の間で「感情の劣化」が著しくなっていると実感する。
ここら辺は宮台真司氏の連載を見てもらいたい。

さて話を冒頭に戻すと、子供は法律上同意出来ないなんてものは予めざっくりした基準を定める法学の性質の問題で、実際の発達心理学やら、医学的な問題からはかけ離れていることが多い。
そういった科学から見た言及は次の章に回したいので、ここでは成年年齢に関する話をしたい。

第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害することの重大性に鑑み、あわせて児童の権利の擁護に関する国際的動向を踏まえ、児童買春、児童ポルノに係る行為等を規制し、及びこれらの行為等を処罰するとともに、これらの行為等により心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置等を定めることにより、児童の権利を擁護することを目的とする。
(定義)
第二条 この法律において「児童」とは、十八歳に満たない者をいう。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=411AC0100000052


第二節 定義
第四条 この法律で、児童とは、満十八歳に満たない者をいい、児童を左のように分ける。
一 乳児 満一歳に満たない者
二 幼児 満一歳から、小学校就学の始期に達するまでの者
三 少年 小学校就学の始期から、満十八歳に達するまでの者

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000164

(児童虐待の定義)
第二条 この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=412AC1000000082_20230401_504AC0000000076

第1条

 この条約の適用上、児童とは、18歳未満のすべての者をいう。ただし、当該児童で、その者に適用される法律によりより早く成年に達したものを除く。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html


成年年齢が18歳に引き下げられた事もあり、殆どの法律が「児童」の定義を18歳としている。ここで注目したい所が一つある。先程紹介した「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」という法律名の「買春」は、ふしだら侮蔑(性的に奔放である事を理由にした性差別)を内在化した日本のガラパゴスフェミニストが1980年代に唱えたものだ(https://ja.m.wiktionary.org/wiki/買春 の項目では、1970年代には「買春」の使用例があるとしている)。

彼らは概ね「男女に性差は無い」教の信者なので、必然的に攻撃的な側面を持つ男性ジェンダーが批難される事になる。

私は、それらの主張は間違っていると思う。序に言っておくと、児童ポルノ禁止法は主に「わいせつ」の側面で規制されている趣があり、「これらの行為等により有害な影響を受けた」という文言から垣間見えることは、日本が前時代的な価値観から何ら変わってはいないという事だ。

法律の根本となっている強固な実在論や、「子供は大人に守られるべき」という思想は場合によっては確かにそうなのかもしれない(3歳児などを見れば、明らかにそうだろう)。しかし、子供本人は守られる事を良しとしていないのではないか。

子供の能力と、児童ポルノ規制の起源

子供の能力について暫く述べる。京都大学の研究によれば、赤ちゃんは、善悪の振る舞いが既に分かるというのだ。


調査内容は、14ヶ月の赤ちゃんを対象にし、黄色い三角形がオレンジ色の円を助けてあげる場面と、青い四角形がオレンジ色の円の邪魔をする場面を見せた後に、それぞれの図形がイチゴを他の図形に分配する場面を見せたというもの。

その結果、赤ちゃんは、善人は公平に分配することを予期している事が分かったとある。

赤ちゃんには、人間として生きる倫理観が備わっているように思う。

発達心理学ではどうなのか?



ピアジェとエリクソン、フロイトを示した。詳細はリンク先を見て頂きたいのだが、これらを見ても、先の「子供に自己決定権など無い」というのは言い過ぎである事や、大人たちが政治的に決めた屁理屈である事が分かると思う。

自然主義的な「子供は同意出来ない、自己決定権がない」という理屈は、大人たちが政治的に決めた屁理屈という私の主張に対し、不快感を示す人は少なくないだろう。然し、アメリカの児童ポルノに関しての厳しい取り締まりの歴史を見るに、1960~70年代当時のアメリカでは少年少女のヌードが出回っていた事があり(あっと驚くな、アメリカの話である!)、それによりモラル・パニックが生じたというのが本当の所である。

NBCニュース(アメリカの放送局の一つ)特派員のロビン・ロイドが"Money or Love: Boy Prostitutes in America (金銭と愛:アメリカの少年売春)"という本を1976年に出版し、書籍内で当時のアメリカでは、児童ポルノが成長しつつあるビジネスだと報じた。薬物依存症の治療施設であるオデッセイ・ハウスの設立者であったジュディアンヌ・デンセン・ガーバーはそれを何処かから焚き付け、この問題について言及した。

この騒動はCBSの"60 Minutes"、"ニューヨーク・タイムズ"で取り上げられた事もあった。

その頃下院では、民主党議員のデイル・E・キルディと、ジョン・M・マーフィーにより、児童ポルノの売買を禁止する法案が提出された。この法律は、性的行為に従事した子供の写真や動画の撮影を行った人間に対し、最大で50000ドルの罰金と、20年の懲役を課すものだった。
米国下院議会はこれを満場一致で承認した。

これがアメリカの児童ポルノ法の起源である。それでも、当時の児童ポルノに出演していた子供達が「搾取である」と認識していたか、実際に性的虐待が行われていたかはグレーな領域である。
第2章では、それらの問題について取り上げたいと思う。

第2章

「私は搾取されました。但しその時には言ってませんが」

世の中には、客観的に見れば明らかに搾取だろうが、本人は搾取と認識していないという中動的な状態が確かに存在する
1971年に初版が出た『ルポ・精神病棟』でもそれらは明白だ。
『ルポ・精神病棟』の内容を簡潔に紹介すると、1969年に朝日新聞社の記者であった大熊一夫氏が宇都宮病院に潜入し、そこでの実態を赤裸々に描いた本であり、潜入した先では「作業療法という建前で内職をさせる」「病院公認で「汚物部屋」という看板を保護室に付ける」などの行為が行われていたという。

この書籍が一つのきっかけとなり、現在の精神科病院ではそのような事はなされなくなった。現在ではビジネスホテルにも劣らない環境の病院もあるくらいである。

なぜこのような事が許されたのか?1969年当時は、精神障害者に対する差別は今よりも激しい物だった。
今でもベトナムなどの国では、障害者全般への理解が発展途上だったりするが、嘗ての日本もそうだったのだ。

現代日本でもたまにこう言った事件があるが、昔の差別は現代よりも激しかった(大事な事なので二回言いました←古い)のもあり、行く宛てがない精神障害者はぞろぞろ居た。昔の精神科病院はそういった人たちのセーフティネットという側面もあったのだ。

本人に搾取という自覚は無いという点においては、一部の極悪な監理団体(技能実習生を受け入れたい企業の依頼に基づき、技能実習生の募集や各種調整などを行う団体)にタダ同然で働かされているベトナム人技能実習生達も当てはまるのかもしれない。

この問題について詳しく知らないなら、監理団体の大半は真っ当であるが、一部の搾取的な所だけが悪さをしているという認識で良い。
彼らの出身国では、出稼ぎにはお金が必要という慣習なのだ。歴史を紐解いても、妓生観光の存在した1960年代の韓国や、東南アジアの児童売春(買春という言葉は使いたくないのであえてこう書く)でもあったことで、発展途上国では屡々ある事だ。

時々読解力が無い人がいるので誤解を生まないように口を酸っぱくして言うと、私は「技能実習制度は搾取である」とか「ベトナム人は帰れ」という事を言いたいのでは無い。ましてや「慰安婦は売春婦だ!」と言いたい訳でもないし、それらを肯定も否定もしない。ただ、世の中には「本人が搾取とは思っていない」状態があるだけなのだ。

今現在お茶の間を騒がせているジャニーズ事務所や、ホスト、宗教2世などの問題も然りである。それぞれが抱えている事情は違えども、共通するのは中動態的な側面を持つことである。それが現代では批難される事が多い。

何故なのだろうか?理由は様々あれど、ソーシャルメディアの影響はそれなりにあると思う。

ジャニー喜多川にレイプされたジャニーズJr.たちと、ホス狂いや技能実習生が同じはずはないと問題視している人間は言うだろう。私に言わせれば「明示的になる前の時代の事を、現代の価値観で裁くな!」と言いたい。

1960年代に制作されたアメリカの児童ポルノも、恐らくそうだったのだと思う。これは一種の文化戦争で、現在進行形なのだから。

Color Climaxの真実

アメリカだけでなく、1960年代のデンマークでも、児童ポルノは制作されていた。例がカラー・クライマックスである。

カラー・クライマックス社は最初に児童ポルノ映画を作った会社であり、1969年から1979年に掛けて比較的大規模な児童ポルノを頒布していた。
1971年から1979年に掛けて、ロリータシリーズの10分間の映画を制作していたこともあった。
映画には若い少女が登場し、主に男性と共演することもあったが、女性や他の子供と共演することもあった。女の子は7歳から11歳の間だが、これより若い子も存在した。一部のタイトルを挙げると、Incest Family, Pre-Teen Sex, Sucking Daddy, and Child Loveなどである。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Color_Climax_Corporation より和訳

日本でも、かの有名なレズビアン活動家の清岡純子(『私はまゆ13歳』『プチトマト』など)や、過去にロリータ写真を多く撮っていた近藤昌良などもあるが、ロリコンブームの火付け役である『リトルプリテンダーズ 小さなおすまし屋さんたち』という少女ヌード写真集もあり、一時期は実際ブームになっていたようだ。

凡そ10年前に「G8で児童ポルノを禁止していないのは日本とロシアだけ!」と吹き上がっていた人間達が生優しく思えるが、彼らはアメリカで児童ポルノビジネスが盛り上がっていた時期があったことや、1960年代のデンマークで、Color Climaxというポルノ会社が児童ポルノを嘗て製造していた事実など知りもせずに言っていたのだろうか?

現在進行形の事象を、もう一つ挙げたいと思う。過剰なソフトパターナリズムだ。
ソフトパターナリズムというのは、現代社会で自己決定権が不十分とされる属性(子供や、ある種の障害者など)への保護を名目に、制限を課すこと全般を指す言葉である。
先程も、「子供は自己決定権が不十分である」という言説は政治的に決められた物と述べた。
もし仮にこれらが政治的に決められたものでなくとも、おかしな例を紹介す

こども家庭庁の「子供は大人に守られるべき」という過剰なパターナリズムは、「こども」の定義を18歳未満だけでなく、「サポートが必要な人」とするこども家庭庁の方針にも現れている。
この定義では知的/発達/精神障害者や、認知症の老人迄「こども」とされかねない。
それは逆に差別となり得るのではないだろうか?
少しこれを見て頂きたい。

江口聡先生の記事であるが、奇妙な空想事例ばかり載っている。
一度引用する。

【チャットルーム】
33才のAは、14才のBとインターネットのチャットルームで出会った。彼らはモーテルで会ってセックスすることに合意した。
【恋人】
15才のAと15才のBは高校生の恋人どうしである。彼らは頻繁にセックスしている。
【Spur Posse】
Aは17才の若者グループSuper Posseのメンバーである。このグループでは、少年たちができるだけ多くの女子とセックスすることを競争していた。Bは14才の高校新入生で、そのグループのことは知らない。BはAに目をつけられ誘いをかけられる。
【子供】
Bは11才の女の子である。Aは18才で、Bの兄の友達である。AはBに「ぼくのペニスを君のヴァギナに入れたら気持ちいいの知ってる?試してみたいかい?」と言い、Bは「OK」と答えた。
【子供同士】
AとBは11才で小学6年生の友達である。AはBに「ぼくのペニスを君のヴァギナに入れたら気持ちいいの知ってる?試してみたいかい?」と言い、Bは「OK」と答えた。
【ベビーシッター】
Bは14才の女子で、Aの子供のベビーシッターをしている。BはA (34才) に対して思春期特有の猛烈な片思い(“adlescent crush”)をしている。ある晩、AがBを車で家に送っていくときに、Bは「私はバージンなんだけど、年上の男のひとと経験をすませるのがいいって聞くわ。セックスを教えてもらえないかしら?」と言った。

https://yonosuke.net/eguchi/archives/14546 より

Aは男性、Bは女性と思って頂いて構わない。どれもグレーなケースである。

これをどう思うかについては敢えてここでは言及しないが、個人的には面白い問題提起だと思う。
皆も考えて、もし良ければコメントなどで教えて欲しい。

「児童ポルノは児童虐待」論は政治的な理由で定められた物である


警察庁のサイト「なくそう、子どもの性被害。」には、こう書かれている。

児童が性的虐待等を受けている姿の記録そのもの
児童は、性的虐待や性的犯罪の被害を受けただけでなく、その姿が記録され、形として残されてしまいます。
児童を性の対象とする
風潮を助長する
児童を性欲の対象としてとらえる風潮が助長され、児童一般を他の様々な犯罪に巻き込む危険性を高めます。
将来に渡って
児童を苦しめる
一旦流出すると、インターネットを通じて世界中に広がり、完全に消し去ることは困難となり、児童に消えることのない苦しみを与えます。

https://www.npa.go.jp/policy_area/no_cp/prevent/caution.html


現代の価値観では一見まともなように思えるかもしれないが、「児童ポルノは児童が虐待を受けている姿態その物」という主張は、1982年のニューヨーク対フェーバー判決で示された歴史ある物である。

1995年8月18日の資料写真。カルバンクライン・ジーンズの広告に出演する2人の若いモデルであるが、1995年9月8日付のウォール・ストリート・ジャーナル紙によれば、FBIは若者を扇情的なポーズで広告に起用したとして児童ポルノとして調査した。広告自体は親や保守的な児童福祉団体からの要求により8月28日に撤回された。画像引用元 https://firstamendment.mtsu.edu/article/new-york-v-ferber-1982/

ニューヨーク対フェーバー判決の概要を示す。ニューヨーク州と他の9つの州は、児童ポルノを「性的行為に従事する児童の描写」と定義し、それを広めることを禁じていた。書店オーナーのポール・フェーバーは、若い少年が自慰行為をしている場面を映した映画2本を覆面警察官に販売し、同法違反の罪で起訴されたのであった。米国最高裁判所はこの法令とフェーバー氏の有罪判決を支持した。

この訴訟で問題になっている内容に関しての最高裁の投票は9対0であったが、法廷は7対2に分かれ、最もリベラルな2人の判事が児童の特定の芸術的または文学的な描写が合衆国憲法で保護されるかどうかについてを別々に執筆した。バイロン・R・ホワイト判事は法廷に宛て、自らの考えを寄稿し、1973年のミラー対カリフォルニア事件で定められた「わいせつ」の罪の適用を拒否した。
(この裁判は平たく言えば「普通の人がわいせつと看做す場合にのみ、その作品をわいせつとする」という物であった)
ホワイト氏は児童の性的搾取(とされたもの)は別の部類と考えていたため、ミラー基準は適用されなかったのだ。

ホワイト氏は児童ポルノの定義を「特定の年齢未満の児童による性行為を視覚的に描写したもの」としており、ホワイト氏の私見によれば、内容は児童の性的搾取と密接に絡み合っているため、憲法修正第1条で保護されないとし、更に「作成された資料は子供の関与を示す永続的な記録であり、それらが広まる事で子供への害は更に悪化する」と説明した。

既視感を感じやしないだろうか。先程の警察庁「なくそう、子どもの性被害。」というサイトにも言えるが、児童ポルノを巡る理論は少数の人間により政治的に決められたものだったのだ。

何を言っているのかと思うかもしれないが、国連の分担金を払いたくなかった米国が小手先の手法を駆使し、ILGA(国際ゲイ・レズビアン協会)にNAMBLA(北アメリカ少年愛協会)を政治的な理由で除名させた事実も実際あるので、私がこの主張をすることも無理はないのかもしれない。

私はこれらの主張が社会に引き起こす影響を理解しているので、これを発表した。
次項では、かなり踏み込んでいくことにする。

「自画撮り被害」という言葉の差別性

https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/524240.pdf

https://www.yomiuri.co.jp/national/20230309-OYT1T50080/

行政批判を再度させて頂くと、彼らは内面化したふしだら侮蔑(Slut Shamingの訳語。性的に積極的である事を理由にした性差別。尚この訳語に関しては私の造語ではなく、ピルとのつきあい方(公式)氏による物である)に気付かず、それらを広めているのである。

「自画撮り被害」を防ぐ方法として、行政は屡々「裸や下着姿の写真を送らない」などとしているが、それは根本的解決にならず、寧ろ性差別を流布しているという訳だ(性差別かは実際はもっとグレーゾーンではあるが)。

ではどうすればいいのだろうか?私は「撮った/送った」事実に終始するのではなく、男側の教育(こう言ったことをするのは、大抵の所男性であり、それは生物学的事由に由来している)と安全な方法(アルコールや薬物などの精神作用物質(ブロンやメジコンなどの市販薬も含む)の影響を受けた状態でやらない、背景に映り込むものに注意するなど)を教える事であろう。
セクスティングの安全な方法については拙noteでも書いているので、見て頂きたい。

我々の直感と相反する調査を添えておくと、

https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/1461444820931091

クロアチアの中学校に通う女子生徒859名を対象にした20ヶ月にわたる調査。セクスティングの頻度と心理的な健康の変化に直接的な関連はみられなかったが、家庭環境の問題や同年代の友人の影響がより多い頻度でのセクスティングと心理的健康の低下に関与しているという結果が出ている。

何でも、中期から後期の思春期の女子にとって、セクスティングは病的でない性的発達の一部である可能性があるらしい。

世界にはこんな調査があること自体もまた事実であるのだが、子供を巡る風潮自体が一種の政治なので、それらの調査は重箱の隅で埃を被る運命にある。そもそも当事者である中高生は行政の啓発なんて見ないだろうし、これは子供に寄り添わない行政の不手際が大きい。こども家庭庁も片手落ちだろう。なんせ、

https://archive.md/wip/n3diB

こんな変な事を言う団体でも東京都と国から5000万円も貰えちゃうんですからね( ´灬` )?と皮肉のひとつでも言ってみる。

https://archive.md/wip/EjEY6

また、これは個人で活動している方だが、このような方でもふしだら侮蔑を広めているのである。

「グルーミング」という言葉の濫用反対!

子供を上手く言いくるめて騙し、セックスにこじつける行為をこの地球ではグルーミングと言うらしい。

偽タコピー

グルーミング。この言葉は本来ならn番部屋事件(女子高生コンクリート詰め殺人事件や、名古屋アベック殺人事件と同じくジェンダーフェミニズムに利用されている事件でもある)なんかのあからさまな性的虐待事案に適用すべきものだが、この用語は甚だしく濫用され、成人女性にまで適用の幅を広げている。

私も外国人の夫がいる当事者なので言っておくが、年の差婚はグルーミングでは無い。寧ろ年の差婚や年の差恋愛を「グルーミング」と看做すことは「穢多」や「チョンコ」「つんぼ」と言った言葉と同じく、差別用語だとすら考えている。

私が思うに、これは明示的な意思決定しか認めない昨今の風潮もそうだが、女性はおろか(日本のフェミニズムの問題であるが)子供の意思決定能力/判断能力/(性的)同意能力に関する研究が進んで居ない事の証左であると思う。

長々しいが、どうかもう少し付き合って欲しい。

終章(第3章)

「子供の安全」の為と欺罔させる政策

宮台真司氏を挙げるまでもなく、日本性教育協会の『第8回青少年の性行動調査』では青少年の性経験率は減っている事が示されている。

https://www.jase.faje.or.jp/jigyo/youth.html

このような状況で性的同意年齢が16歳に引き上げられても、説得力に困るのである。なんせ彼らは、批判すると「小児性愛者!」のレッテルを貼り、社会的に抹殺しようとする。
過激な活動家により事前に打合せされた政治的運動に緩く賛同したのは、他でもない母親達や、市井の人間だった。

事実、「子供を守る為」と言えば大抵の人は反論し辛い。それを活動家は理解し、焚き付けていたのだ。
批判者を「在日韓国人!」と決め付けたのは、平成のネット右翼だった。然し現在はそれと同じ事を活動家がしているのだ。私は彼らは差別主義者であると思う。

自分のしている事が理論的にどのような結果を齎すか、分かっていないのだから。

日本版DBSにも同じ匂いがする。民間の学習塾も含むかどうかで話が纏まっていない状況だ。
本国イギリスのDBSは社会学者からの批判があるにも関わらず、フローレンスら利権NPOはそれらを取り上げることは無い。
仮に取り上げれば、自分たちのチューチュースキームが台無しになるからだ。

https://note.com/0q0/n/nf9eadd3bddc1

この件については私のnoteでも少し書いたが、拝見して欲しい。文字数は少ないのでスマホでも読みやすいと思う。
話を戻すと、これらの(ほぼ無意味な)法改正に対して「子供の安全の為」という大嘘を吐き、モラル・パニックを加担させている責任は誰も取らない。

「子供の保護」という政策が転換されなければならない理由

これを言わない事には説得力に欠けるが、「子供の保護」という風潮は滅びるし、「子供の保護」という政策は転換されなければならないのだ。
ジェンダーイデオロギーも、子供の保護も、偽科学に端を発している。

ジェンダーイデオロギーなら性同一性障害の鑑別診断や、70年当時の医療水準を元にした「男女に性差はない」論や、性分化疾患に関する認識の間違いや未解明であった時代(今はほぼ解明されている)の名残に過ぎないし、先程から申し上げた通りであるが子供の保護も子供の性的同意能力に関する研究が倫理的な観点から成されず、結果として圧倒的に不足している事(法律や社会慣習の問題も無くはないが)に由来している。

これは偽科学問題なのだ。無論各国が「子供の保護」政策を止めるのは10年後かもしれないし、20年後かもしれない。これは未来を見据えての事なのだ。
下手すれば、トランスジェンダリズムに乗っかった国連も「子供の保護」に便乗する程だ。
この世界は巨大なモラル・パニック禍に見舞われている。
誰もこの問題について積極的に議論しようとしないし、議論しようとすれば我々が内在化している近代の子供観が揺らぐ為に糾弾される。
私はそのような状況を改善したかったのだ。徐々にではあるが、ジェンダーフェミニズムに関する批判も目立ち始めた。これから、子供に関する政策も改善されて行くであろう。

それから学ぶか、学ばないかは君次第なのだから。

おわりに

この記事を読んで下さり、誠に有難う御座います。2万字にまでは惜しくも到達致しませんでしたが、書きたいことは書けたと思います。
書きたいことを書きすぎたので、ここでは特に何も言及致しませんが、次はジェンダーイデオロギー(トランスジェンダリズム)とグルーミング、包括的性教育こそ子供を真に脅かしているという観点での批判などジェンダー関連に倒します。
年内に書けたので大満足ですし、私もここまで書けるとは思っておりませんでした。

次のマガジンは年が明けてからになると思います。
また書きたいことが纏まりましたら告知する予定です。告知出来ない、筆が進まない時はお知らせ致します。

それではまた。2023年年の瀬。

出典元と感謝のメッセージ

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