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観るということの徹底とその不確かさ - 『悪は存在しない』について

観るということの徹底とその不確かさ - 『悪は存在しない』について

映画は人を感動させたり、興奮させたり、夢を見せたり、希望を与えたり、メッセージを伝えたりする。しかし、映画にとってプリミティブなことはなんだろうか。それは「観る」ということではないだろうか。

『悪は存在しない』

この映画で私が感じたのは、観るということの徹底と、その不確かさだ。

また、観ることの徹底については感じただけではなく、実際に私が映画にそうさせられていたことでもある。

この映画は常

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セックスは怪物 ー 映画『哀れなるものたち』について

セックスは怪物 ー 映画『哀れなるものたち』について

私たちは人間なのだろうか?それとも獣なのだろうか?いや、そのどちらでもないのかもしれない。
私たちは現実と現実的なファンタジーのキメラ。獣という肉体に人間という概念を拡張したもの。獣でもなく人間でもないものであり、獣でもあり人間でもある。つまり怪物という哀れなものたちだ。しかし、私は怪物であることの肯定をこの映画に見た。
ベラ。母であり子であり、大人であり子供であり、死者であり生者であり、自己であ

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運命を引き受けること -映画『大いなる自由』について

映画の中では直接的に自由という言葉が発言されることはなかったはず。あったとしても僅かであり、主張するようには言われていない。自由という言葉がクローズアップされるのは、エンディング間近のバーの店名だけだ。そのバーの名前こそ「大いなる自由」である。

自由という言葉が直接的に使われていないにしても、やはりこの映画のタイトルである「大いなる自由」という言葉は、映画の中で通奏低音のように響いている。

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レオを追いかけて/ただ親密であることはありえないのか -映画『CLOSE』について

映画『CLOSE』は、予告やメディアのコメントなどで「感動」や「涙」といった、いかにもな言葉が溢れていたので、正直どうなのかなーと思っていた。あまり期待していないどころか疑っていた。
しかし、今のところ今年観た映画の中で、特にいい映画の一つだと感じた。

観る前の思い込みというか、こういう映画なのではないだろうかという予想として、マイノリティをテーマにした映画なのかと思っていた。
もちろんそういう

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不浄には「狂気」という救いがある。 ー映画『君たちはどう生きるか』について

※『風の谷のナウシカ』(原作)のネタバレもあります。

「君たちはどう生きるか」という問いは、不浄であるからこそ成立する。
清浄と不浄。これは『風の谷のナウシカ』の原作と通じている。
『君たちはどう生きるか』は世界について、『風の谷のナウシカ』は人間についての清浄と不浄を描いている。

『風の谷のナウシカ』は、一見世界についての清浄と不浄を描いているように思える。しかし、それは物質的な世界のことで

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人間であることの苦悩、人間であることからの解放、あるいは逃走 ー 映画『怪物』について

誰が「怪物」なのか。「怪物」とは何か。この映画は怪物を巡る問いに覆われている。「怪物」とは一体何だろうか?
一つだけはっきりしていることは、「怪物」は「人間」と対立する存在だということだ。非人間である存在を、人はときに「怪物」と呼ぶ。

「豚の脳の人間は人間か?」
冒頭でこのような問いがあった。
湊の母である早織は「人間じゃないんじゃないかな」というように答えた。
「人間」ではないのであれば一体何

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限りなく窓に近いスクリーン ー 映画『アダマン号に乗って』について

窓の外をぼんやりと眺める。そこには意図のない、「あるがまま」の風景がある。
スクリーンに映る映像、即ち映画はどうだろう?人がカメラで撮影し、編集する以上、何かしらの意図があるだろう。恐らく意図から逃れることはできない。それは『アダマン号に乗って』も同じだ。
しかしこの映画は、まるで窓の外を眺めているように感じた。意図がほとんど感じられず、そのスクリーンは、限りなく窓に近かったように思える。
映画は

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「異なるもの」と「他なるもの」 ー『食客論』から観る、他者と出会うことの葛藤としての『戦場のメリークリスマス』

映画『戦場のメリークリスマス』を、私は「他者と出会うことの葛藤」というパースペクティブで観ている。
そして、星野太さんの『食客論』(講談社)を読み、このパースペグティブでの『戦場のメリークリスマス』と非常にリンクすると思った。

『食客論』で論じられているのは、「友でも敵でもない、あるいはいずれでもありうるような曖昧な他者」、「傍にいるもの」、「中間的な他者」、「不審者」という存在だ。

例えば、

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