不浄には「狂気」という救いがある。 ー映画『君たちはどう生きるか』について

※『風の谷のナウシカ』(原作)のネタバレもあります。

「君たちはどう生きるか」という問いは、不浄であるからこそ成立する。
清浄と不浄。これは『風の谷のナウシカ』の原作と通じている。
『君たちはどう生きるか』は世界について、『風の谷のナウシカ』は人間についての清浄と不浄を描いている。

『風の谷のナウシカ』は、一見世界についての清浄と不浄を描いているように思える。しかし、それは物質的な世界のことで、人間的な世界のことではない。それよりも人間の清浄と不浄に重点を置いていると私は思う。物語の終盤で、清浄な人間が産まれてくる卵をナウシカは破壊する。そして、トルメキア国王のヴ王は、その卵から産まれてくる清浄な人間を「そんなものは人間とはいえん」と否定する。『君たちはどう生きるか』の主人公に与えられた名前、「眞人」ではないということだ。

『君たちはどう生きるか』においては、大おじから悲しみなどがない世界を創造し、そこで生きるか、それともいずれ滅びゆく実世界に戻るかというような選択を与えられた。そして眞人は実世界に戻ることを選択した。これは人間的な世界においての、清浄と不浄の選択だろう。
人は不浄であり世界も不浄である。だからこそ私たちは「どう生きるか」ということを考える。

映画として楽しめたかどうかでいえば、序盤は最高の体験だった。全てが心を離さなかった。
例えば眞人がベッドで眠りに落ちてから、夢の中で母が火事で燃えているまでの映像と音楽の流れについて、映像と音楽が織りなす表象に圧倒させられた。アオサギを中心に、不気味さが常に潜んでいるのもよかった。
美しさも、不気味さも、宮崎駿としてのアニメーション表現を極めていると思った。
だけど異世界に入ってからは、正直徐々に飽きてきてしまった……
現実界での不気味さのドキドキは楽しめたけど、異世界の「何が起こるのだろう?」というワクワクは、段々と「何が起こっても不思議ではない」という気持ちに消されてしまった。
また、異世界での映像は美しくはあったのだけど、芸術としての美しさのように感じた。序盤は表現されたものが美しかったのに対し、異世界に入ってからは、美しさを表現している、そのように思えた。

しかし、大団円でうんこまみれになったシーンについて、あのシーンは最高だった。うんこなんてまさに不浄を象徴するものだ。宮崎駿監督も、あのシーンはすごく楽しみながら作っていたんじゃないかと思う。すごくニタニタしながら作っていそうだ。この映画には集大成的なものも感じたけど、最後(かもしれない)に排泄物を残していくなんて、本当に狂っている。でもこの「狂気」は、不浄であることと、不浄を生き抜く救いとなるはずだ。

仮にこの映画に、宮崎駿監督の最後(かもしれない)のメッセージがあるとするならば、「人は、世界は美しい」ではないだろう。この映画は確かに美しさも感じた。しかし、残したもの、もしくは残したかったものは「楽しさ」ではないだろうか。
立つ鳥後を濁さずなんてとんでもない。きっと悪童のように無邪気に笑いながら、こう伝えてくるだろう。「人は、世界は、狂っていて楽しい」と。

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