運命を引き受けること -映画『大いなる自由』について

映画の中では直接的に自由という言葉が発言されることはなかったはず。あったとしても僅かであり、主張するようには言われていない。自由という言葉がクローズアップされるのは、エンディング間近のバーの店名だけだ。そのバーの名前こそ「大いなる自由」である。

自由という言葉が直接的に使われていないにしても、やはりこの映画のタイトルである「大いなる自由」という言葉は、映画の中で通奏低音のように響いている。

自由の他に、もう一つ主題があると思う。もしかしたらそれを「愛」と呼ぶ人がいるかもしれない。でも僕は「愛」と呼ぶことに違和感がある。
これはハンスとヴィクトールの関係についてだ。僕は二人の間にある情を「愛」と決め付けることに違和感がある。2人の関係や情を言葉にするのであれば、「愛」ではなく「親密」としたい。
2人の親密さの中で何が生成されているのか。それはすごく複雑で繊細なものだろう。それを「愛」の一言で済ませてしまうのは、多くのことを取りこぼしてしまうのではないか。あまりにも抽象化し過ぎているのではないか。
ハンスはゲイでヴィクトールはヘテロだ。しかし2人は恐らくセックスをした(直接は描写されていない)。確かにヘテロの人が同性とセックスをすることは不思議かもしれない。
ただし、それはセックスという行為の動機を、性欲と捉えてしまっているからだろう。セックスで満たされるのは、性欲だけではない。セックスという行為へと至る欲望も性欲だけではない。例えば抱えきれない寂しさや、悲しさ。それらを委ねて受け取ってもらいたいなど。
親密は愛に先立つ。親密の中で何が生成されようとしているのか。生成されるものではなく、生成そのもの、つまり生成というプロセスに目を向けるべきなのかもしれない。

生成するとは、決して模範することでもなければ、何かのようにすることでもないし、たとえ正義や真理であったとしても、ひとつのモデルに合致することでもない。人がそこから出発する項もなければ、人がそこへと到達したり、あるいは到達すべき項もない。出発点と到着点のどちらにも入れ替わる二つの項もない。「君は何に生成するのか」という問いはとりわけ馬鹿げている。というのも、何かに生成するにつれて、その人が何に生成するのかは、その人自身と同じように、変わっていくからである。

ジル・ドゥルーズ/クレール•パルネ  訳 江川隆男/増田靖彦
『ディアローグ』(河出文庫)
11頁


自由という主題に戻る。この映画において「自由とはなにか」というのは、観る人に委ねられる。では、僕はこの映画を観て、自由とはなんだと思ったのか。僕は自由を「運命を引き受けること」だと思った。

ヴィクトールがハンスに「自制」という言葉を投げかけているシーンがあった。しかし、ハンスは自制できていないのではない。同性に好意を抱き、同性を性的に欲望するという自分の運命を引き受けているのだ。
それは法を受け入れることではない。むしろ、運命を引き受けることは、法に対する抵抗となる。自分の運命を引き受けて、法を逸脱し続けることは、法への一番の抵抗ではないだろうか。
そして法だけではなく、運命に翻弄されないための、運命に対する抵抗ともなる。

ヴィクトールが発した「自制」という言葉だが、その言葉を発したヴィクトール本人は全く「自制」ができていない。彼はドラッグ中毒者だ。釈放を判断する面談の前に、緊張感からドラッグを使用してしまうほどに。
ヴィクトールはハンスとは違い、自分の運命を引き受けられなかった。ドラッグ中毒という自分の運命を。ヴィクトールがその運命を引き受けていたら、ドラッグを断ち、釈放は叶っていたかもしれない。しかし、ヴィクトールは運命を引き受けることができず、運命に翻弄されていた。運命に蹂躙されていたと言ってもいいだろう。もちろん、ドラッグ中毒という運命を引き受けるのは、非常に困難であろうことは承知だ。

ハンスにとって自由とは法に従うことではない、同性に好意を抱き、同性を性的に欲望するという自分の運命を引き受けることが自由なのだ。ヴィクトールはドラッグ中毒という運命に蹂躙され、ドラッグを使用し続けた。ヴィクトールにとってそれは自由ではない。

ヴィクトールは自分の運命を引き受けられなかった。しかし物語の後半では、その運命をハンスが引き受けた。ハンスは自分の運命だけではなく、他者の運命をも引き受けた。正確にいえば、他者の運命を自分の運命として引き受けたのだ。
ヴィクトールがドラッグの症状で嘔吐を繰り返すなど、最悪の体調になっているところを親身に介抱し、ヴィクトールが隠していたドラッグをこっそりと使おうとしたときには、そのドラッグを奪い、トイレに流し捨てた。そして刑法が改正され、ハンスは釈放されが、ハンスは窃盗という罪を犯し、再び刑務所に戻ることを選択した。これはヴィクトールの運命を引き受ける選択をしたのだと、僕は考える。

しかし、ハンスは元々他者の運命を引き受けることができた訳ではない。自分の運命を引き受けることはできたが、他者の運命を引き受けられることはできなかった。ハンスが他者の運命を引き受けられるようになったのは、ヴィクトールがハンスの運命を引き受けてくれたからだ。ヴィクトールはハンスとは逆で、自分の運命を引き受けられなかったが、他者の運命は引き受けられたのだ。

ヴィクトールはハンスのことを、最初は同性愛者であることから嫌悪していたが、ハンスの腕にナチスの強制収容所で掘られた刺青を見つけ、強制収容所から引き継いだ刑期を終えるために刑務所にきたことを知る。その事実はヴィクトールに心境の変化をもたらした。そしてヴィクトールはリスクを犯して、ハンスの強制収容所で彫られた刺青の上に、別の刺青を彫った。
そしてハンスが2回目の投獄のとき、想いを寄せ、お互いに親密な仲だった人(刑務所に入る前から親密だった)が刑務所内で自殺してしまっときのことだ。ハンスはその運命を引き受けることができず、深い悲しみにおちた。その運命をヴィクトールは自分の運命のように引き受けた。ヴィクトールはハンスを抱きしめた。看守から妨害され、殴打されても抱きしめ続けた。懲罰房に入れられることになろうと抱きしめ続けた。もちろん、その時は先のことは考えていなかったもしれない。しかし、ここには不自由を超越した自由がある。

そもそも運命というものは不自由なものだ。確かハンスとヴィクトールの会話の中で「運命のいたずら」というような言葉がでてきた。ハンスが同性に好意を抱き性的に欲望する運命も、ヴィクトールのドラッグ中毒という運命も、それらの運命は意志で選んだものでない。運命は意志とは関係なく、どこからともなくやって来る。

不自由を超えて運命を引き受けること。これが「大いなる自由」ではないだろうか。

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