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可愛い体操服入れを持っている友達が羨ましかった。

バイト先の女将さん。帰り際、貰い物なんやけどね、と言いながらこの手提げいっぱいにお菓子を詰めて渡してくれた。えっと、手提げは、と言いかけたわたしに、手提げいっぱい持ってるから、貰って。ちょっとお買い物に行きたい時にいいのよこれ。と微笑んでくれた。ありがとうございます、お疲れ様です。と頭を下げて店を後にした。しばらく歩いて、ふと手提げを見た。本を読む象の親子。本に書かれているのは、KYOTO CITYの文字。あとは、京都はぐくみなんとか。自分の母も、こんな貰い物の手提げをよく持ち歩いていたことを思い出す。

どうしてどこの物かも分からない、時には恥ずかしい名前の入っている手提げを母は平然とした顔で持ち歩けるのか、幼い頃のわたしには不思議だった。可愛い服屋さんのショッピングバッグを持っている友達や、ハイブランドのバッグを片手に授業参観に来る友達の母が羨ましかった。わたしの母はというと、人々が羨ましがるような価値ある物に全くと言っていいほど興味がない。いつも、丁寧に畳んだ体操服を、ポイントと引き換えにスーパーで貰ったエコバックに詰めて渡してくれた。わたしは母と同様、平然とした顔で家を出て、家が見えなくなるところまで歩いたら、急いでランドセルの中に体操服を押し込んでいた。スーパーのエコバックを誰にも見られたくなかった。体育の授業が始まる頃には、わたしの体操服はシワだらけだった。

そんな幼い頃の経験からなのか、いつのまにかわたしはブランドに固執するようになってしまった。ブランドの服を買った時は、ブランドのロゴがわざわざ見えるように袋を持つ癖がついた。この癖は今も直らない。いつだってブランドの物を持つ自分が好きで、たった一部を持っているだけで自分自身が“すごい”気がして、悪く言えばブランドに固執した自分に振り回され続けている。

女将さんに貰った象の手提げが、幼い頃、母が体操服を詰めてくれたスーパーのエコバックと重なって、今の自分がとても恥ずかしく、また情けなくなった。

家に帰って、手提げに詰まったお菓子を、ブランドのロゴが入ったバッグに詰め替えた。空になった手提げに財布を入れて、もう一度家を出た。

昨日までのわたしは絶対に使わなかったであろう手提げが、今わたしの左手の中で嬉しそうにユラユラ揺れている。

わたしは象が描かれている面を見せびらかすように、手提げを持った。通りすがりの人が象と目を合わせるたびに、わたしの心の中の蟠りがスーッと解けていくような気がして、とても心地よかった。


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