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生きることへの捉え方

半年近く社会をおやすみして、悩んで迷って苦しんで、これまでの自分のままでは生きていけないように感じた。
私はとにかくネガティブで、ネガティブであることにアイデンティティすら見出していた。
多分元を辿ると否定されることが多かったから予防線を張るために自己否定を繰り返してきたとか、謙虚さを心から持ちたいと思ってきたのが行き過ぎてただの徹底的な自信のなさに繋がったりとか、自分に厳しくありたいと理想を掲げてきたことが自分にも他人にもとにかく厳しくその上で表面上は穏やかなふりばかりする不調和を生み出したりとか、紐解こうとすればするほど、糸のほつれが目立つばかりだった。

本も読んだし、webメディアの記事もたくさん読んだし、noteで色々な人の考え方や捉え方にも触れた。
それから少しずつ、やっと生きることがわかってきたように思う。

人は思い込んでいる自分があって、その理由を拾い集めている。
「私はできないやつだ」
その証拠にこれもあれもそれもできない。
この証拠集めが"できること"に対して行われることは、私が自分をできないやつだと設定している以上、ほとんどない。
自分のフレームへの証拠集めは、それなら少しでもプラスに働くものにした方がいい。

同じ状況にいて相手の機嫌がたまたま悪くて脈絡もなく強い言葉を向けられた時、その理不尽さに笑いがこみあげてしまう人と自分に非があるわけではないのに自分のせいだと思い込んで泣き出してしまう人の差は、現実の受け止め方だ。
そこで勝手に落ち込んでも、自分と関係ないと割り切っても、結局何も変わるわけではない。
それならここで落ち込むことは、本来であればしなくてもいい落ち込みになる。

うまくはまだ言えないところも多いけれど、きっとこういうことの積み重ねが生きることの捉え方に影響して、楽しく生きられるか生きることを怖く感じながら進むかの違いになってくるのではないかと、最近はやんわりと思っている。
どの感情を掬いあげて眺めるか。
どういう受け止め方をして現実と対峙するか。
自分を大切にして守れるのは、根本的な部分では結局、自分自身しか存在しない。
それなら一体どうしたら、自分を大切にしていけるだろうか。

思考が少しずつまとまってはきても、それを実際に当てはめていくのはやっぱり難しい。
これからまた社会に復帰したら、こんなことを考えたことなんて頭の片隅かからも追い出されてしまうかもしれない。
それでも少しだけ、ことあるごとに捉え方を見つめなおせたら。
また駄目になってしまいそうになった時、もう一度考え直して持ち直せる力に、なれるだけの何かを。
まだ触れるだけで壊れてしまいそうな新しいフィルターを通して見た世界なら、私は前よりもう少し、無理せず「大丈夫」といえるかもしれない。

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