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GOLAZO #3

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 2002年。失恋して仕事も失った30歳の東野紅深ひがしのくみと妻に先立たれた65歳の速水草輔はやみそうすけは、近所に住む犬の散歩仲間。犬同士が仲良くなったことをきっかけに親しくなり、いつしか互いに大切な存在になっていく。病を得て、一緒に最後の旅をして欲しいと言う速水に戸惑う紅深。旅は実現しないものの、紅深は旅の計画をきっかけに出逢った男性と付き合いはじめる。彼は優しく善良なのだが、紅深は彼との恋愛にいまひとつ踏み出すことができない。
 横浜を舞台に、2002年と2022年のサッカーワールドカップとコロナ禍、20年の時を行きつ戻りつする物語。

3.2020年 コレットマーレ



 あの日と同じデジタル時計が見える。でも同じなのはあの時計だけだ。それ以外は何もかも変わってしまった。何もかも。
 紅深はマスクの位置を直した。
 年明けから騒がしくなっていた新型のウイルスが2月末には深刻さを増し、世界中に広がってパンデミックになった。高校生の息子にいよいよ塾の勉強も本格化するから部活ばかりしてるんじゃないよと言っていた矢先の自粛、全国一斉休校で、何が何だかわからないまま、季節は夏を迎えようとしていた。
 桜木町駅は改札が増えて綺麗になった。ランドマーク側にはファッションビルができて、映画館も近くなった。
 10年くらい前にコレットマーレに横浜ブルグ13ができてから、この映画館にはよく足を運ぶようになったが、パンデミックになって以後、足は遠のいている。
 本来は今頃の時期からは、大学入試説明会などがパシフィコ横浜あたりで開かれているはずだったが、すべて開催中止となり、大学の説明会などはオンラインに切り替わった。
 世界が変わったのは、紅深にとっては今に始まったことではない。9年前の震災も世の中を変えた。しかし紅深にとっては、やはり18年前の出来事も大きかった。
 人生が劇的に変わって以来、紅深は、綾部紅深あべくみという平仮名はシンプルになったが漢字の姓名の画数がやたらと多い名前になり、母親になった。
 額にじんわりと汗がにじんでくるのを感じながら、ランドマークタワー方面に歩いた。この道は最近、通ったことがない。地下鉄の新しい駅ができて、いつもは地下鉄でランドマークの下まで行ってしまう。それで、横風に油断した。
 温風だ。日本は年々、暑くなっていく。顔をしかめながら、黙って黙々と歩く人の、ソーシャルディスタンスを保つ粛々とした列に続く。
 6月から不規則に子供の学校も始まって、オンライン授業の圧迫からは少し解放された。子供にまともにオンライン授業を受けさせるのは至難の業だ。ゲーム機を隔離してなんとか授業に集中させたくても、自分の部屋ではオンライン授業を流しながら、机の下のスマートフォンで別の動画などを見ていたりするから始末に負えない。仕方がないからパソコンをリビングに移した。オンラインだと先生の負担が増すのか、学校に行っているのと同等の時間を授業に費やすことはなく、一日2、3時間が限度だった。これなら動画配信でも良かったのではないか、と思ったりもした。
 7月に入ると普通授業と定期考査も始まったが、ろくに勉強などしていないから悲惨なものだ。一応、今は夏休みだ。8月の声を聞くまで、ほぼ毎日雨が降った。天気までが家にいろと言わんばかりの長梅雨だった。
 夫は旅行会社勤務だったので、今回の騒動では打撃をもろに受けた。はっきり言って紅深のパートが大黒柱にすり替わったといっても過言ではない。在宅時間が長く、出勤しても仕事がない夫は、息子と一緒にゲームばかりしている。最初の頃は、それなりに休校措置が終わった後の需要を考えたりもしていたようだが、次第にそんなに楽観的な話ではないと気がついたらしい。しかし、転職しようにもこの時世で転職先など見つかるとは思えない。
 唯一、救われるのは、彼が文句を言わない人だということだ。もともと多弁ではないが、この状況でテレビや家族に向かって文句ばかり垂れ流されたらこちらのほうが参ってしまう。我が家はとりあえず、やるべきことをやった後は、3人で黙々とゲームをした。
 家族3人、仲がいい。それは確かだ。私たちは、ちょっと内側に引きこもり気味な家族だった。どこにも行かなくていいなら、喜んで仮想世界に行くような。しかし紅深は彼のメンタルの状況を常に心配していた。何も言わないが、きっと内心では仕事がなくなるかもしれないことや今後のことに胸を痛めているのに違いない。収入は途絶えてはいなかったが、四割減、だった。四割減なんてどうかしている。やはり普通ではない。
 そんなわけで、紅深は働きに出なければならない。
 紅深は幸いにも、新型ウイルスの影響をあまり受けない業界で働いていた。というよりむしろ、忙しい部類だった。通販会社のテレオペで、四年前に勤め始めたときは服装が自由なのが魅力だった。昔の職場はオフィスカジュアルといいながら、制服がなく接客を含む仕事だったのでひとり暮らしにはスーツ代がバカにならなかった。
 出産してからも、産後比較的早いうちから、仕事はしていた。ずっとパートかアルバイトだったが、夫が協力的だったし、何よりかつて、仕事がなくてラルフと速水だけが生活のすべてだったあの日を、もう二度と繰り返したくないだけだった。収入のためが第一目標ではなかっただけに、今となってはもう少し将来を見据えた就職活動をすべきだったと悔やまれる。派遣やパートで仕事は途絶えることなくしてきたので、それなりに職にはつけるものの、正社員にはなれるはずもなく、ただただ、そのときできる仕事を淡々としてきた。いまも、必ずしも自分の収入が家計を支えているとはとても言い難い。夫の精神的負担を軽くしてあげられるような額ではなかった。

 ラルフは、14年前にこの世を去った。夫と紅深に看取られて、最後は眠るように亡くなった。息子はまだ2歳だったから彼にラルフの記憶はない。ラルフの天寿を全うさせてあげられたことだけが救いだった。
「速水さん、きっと今頃迎えに来てるよ」
 と、涙をこぼす紅深の隣で、夫が言った。それがとても胸に沁みた。
「ハヤミさんてさ、僕のおじいちゃんだったの?」
 息子は小学校にあがると、居間に飾ってある写真を見ながらとんちんかんなことを言った。
「違うよ。お母さんの友達だったんだ」
 夫が静かに息子に教える。
「友達?お母さんの?こんなおじいちゃんが?」
 息子は心底不思議そうだった。
「お世話になった人だったの。恩人、っていうんだ、そう言う人のことは」
 紅深は家事をしながら、息子にそういう夫の声を遠くに聞いた。
「ラルフの奥さんの、ヨーコちゃんのお父さんなんだよ」
 紅深がそう言うと、息子はにっこり笑った。
「ヨーコのお父さんか」
 まるで漫画のキャラクターに言うように親しみを持った声でそう言って、ラルフとヨーコの映っている写真を見た。
「ヨーコちゃんも天国から佑真を見てるよ、ラルフと一緒に」
 夫が言った。
 夫は優しい人だ。
 こんなに優しい人に、紅深は会ったことがなかったし、今生この世でこれ以上の人に会うことはないだろうと思う。今も彼が好きだ。結婚して18年、息子が高校生になった今も。そして、速水がいなければ、彼と会っていなかった。

 速水の話をしなければならないだろう。
 速水の具合が悪くなり、ランドマークで映画を途中にして帰ってきた後、彼は本当に旅行会社に行こう、と言ってきた。
 どういうわけか、彼は戸塚の大手の旅行会社に行くと言った。
「なんで戸塚ですか」
 紅深は顔をしかめた。別に戸塚が嫌いなわけではなかったが、大船にも旅行会社はあるし、大船が嫌なら藤沢でも、あるいは横浜でも、上大岡でもいい。戸塚はアクセス至便な主要駅ではあるが、あまり開けているとは言えなかった。昔ながらの商店街が広がる、むしろ無秩序な、どちらかというと夜飲みに行くような街だと思っていた。会社員時代も会社の飲み会ではたまにいくが、友達とランチや飲み会に選ぶ場所ではなかった。
「大船は嫌なんだよ」
「わかってますけど、だったら藤沢のほうが」
「なんだってそう、戸塚を嫌う」
 だって地味じゃないですか、という言葉は飲み込んだ。彼のすることにあまり意義を唱えないようにしようと思った。
「ペコちゃんが嫌いなんですよ」
「何を言う。戸塚のペコちゃんはな、雨の日も晴れの日もあそこで頑張って、ついに丸井の中の屋内に行けることになったんだぞ」
「なんか、再開発でごちゃごちゃしてますよね」
 だからいいんだよ、と、彼は言った。何がいいのかわからなかったが、別に遠くもないので行くことにした。
 体調はいいんですか、と、なかなか聞けなかった。
 あの日速水は、がんとは告白したが、どこの、と言うのは言いたがらなかった。渋々、軽い感じで、まあ、松田優作と同じようなとこだと早口で言っていた。
 松田優作は好きな俳優さんだったが、彼が亡くなったことは記憶にあっても何が原因でだったかは知らなかったから、帰宅してから調べてさらに動揺した。インターネットには膀胱がんだと書いてあった。
 実際のところ、病名がわかっても実態が想像もできない。詳しく調べるのは怖かったが、手術ができないわけでもないようで、ひょっとしたら、と淡い希望も持った。が、速水は「もう余命いくばくもない」と、自分で言っていた。冗談好きな人だから、どこまで信じていいのかわからない。
 暗澹たる気持ちのまま、戸塚の橋上改札で待ち合わせた。そのまま旅行会社に向かうのかと思いきや、もうひとり待つ、と言う。聞いていなかったので抗議しようと口をひらきかけた瞬間、若い男性が現れた。
「ああ。どうもどうも」
 と、彼を見つけて速水は言った。
「すみません。お待たせしてしまいましたか。遅れて申し訳ありません」
 と、丁寧に彼は言った。
「ああいや。それよりわがまま言いまして、申し訳なかった」
 速水は彼に言った。
「とんでもございません。ご事情がご事情とのことですので」
 そう言って彼はようやく、紅深の方を見た。
「お話していた、東野紅深さん。東野、こちらは旅行会社のアベミチトシくん」
「はあ。どうも。こんにちは」
 何のことかわからず不満だったが、挨拶を返した。
「実は俺の知り合いの紹介でさ、妙齢の女性を頼んでたんだが、残念ながらミチトシくんがいろいろ、手配してくれることになったんだ」
「あ、そうなんですか」
 紅深は間抜けな返しをした。人を紹介するのに「残念ながら」はないだろう、と思う。
「社の方が再開発で仮設店舗に入る前に一時休業しておりまして」
 と、そんなことを意にも介さないような笑顔でアベミチトシくんは言った。速水が「アベくん」と紹介したので、紅深の中で、彼は「アベさん」ではなく「アベくん」として収まった。
「今日は申し訳ありませんが特別に外で対応させていただきます」
 へえ、そんなことってあるんだ、と紅深は思った。速水を見ると、どうだ、という顔をして威張っている。人脈だけはあると言っていたから、色々無理を通したのだろう。
「戸塚の再開発も本当になったんだな」
 と、速水は軽口をたたいた。確かに再開発の噂や計画は相当昔からあったが、本当に始まるとは周辺の誰もが思っていなかった、というのはある。
「そうですね。始まるとあっという間で。商店街の店が無くなってビルが建って。ああでもあのビルの隣は、またビルが立つらしくて」
 アベミチトシくんはそう言うと、そんなわけで西口は大変だから東口に行きましょうと言った。
「一号線沿いには和食のいい店があるんですが、ちょっと歩くので」
「ああ。きじまだろ。昔、かみさんとよく行った」
 速水は言いながら、アベミチトシくんと歩き出した。その後ろを、紅深はついて行った。
 この人、愛想がいいけれど、自分のことをちゃんと聞いているのだろうか、と内心では訝しく思っていた。
 戸塚にはあまり来たことがなかったので、いまひとつ勝手がわからない。
 速水とアベくんは、世間話をしながら丸井のほうに歩いて行った。
 久しぶりに入った丸井は以前とずいぶん変わっていた。前はもっとファッションビル風で、若い人向けのものも多かったが、なんだかより一層、庶民化しているような気がした。
 速水は迷うことなく7階のレストランフロアにある西洋卵料理の店に入った。まあ確かに昼時ではあるし、丸井でお茶だけなら地下に行くほうがいい。アベくんと紅深は諾々と従い席に着いた。速水の隣に紅深、その前にアベくんが座る。
「ここは俺が持つから、ふたりとも好きなの注文して」
 速水は言った。確かに紅深はこの店が好きで、渋谷の店にはよく行く。速水にそんな話をしたことがあったか、と思ったらみなとみらいの店に一緒に行ったことがあるのを思い出した。アベくんの好みは知らないが、アレルギー持ちだったら可哀そうなことになるから、最初に聞けばいいのに、などと父親に思うような気持ちを速水に抱いた。
 先日、あんな姿をみたばかりなのに、元気に食事をしようとする速水を、気づかわしいような気持ちで見たが、速水はさっそく注文している。結構量があるので心配だった。
「ほら、東野。何にするんだ」
 言われて、自分が待たれていることを知った。慌てて、いつも注文するコースを頼む。
 食事をしたら、机がいっぱいになってしまうから、書類などは出せない。いいのだろうか、と思っている間にも、速水はどうでもいい話をしていた。
「あ。すみません。申し遅れまして」
 と、急に改まってアベくんは、名刺を出して紅深に差し出した。
「こちらこそ、すみません。私今、名刺ってなくて。といいますか、仕事してなくて」
 受け取りながらそういう紅深に、はい。と、彼は微笑んだ。びっくりした。素敵な笑顔だった。
「うかがってます」
 と、人を安心させる表情で、彼は言った。なんとなく、雰囲気がラルフに似ている気がした。
 そして、速水はどこまで話しているのだろう、と、速水を振り返った。
「ん。ああ。東野のことは、ちゃんと話してある。アベくんは、俺の昔の同僚の息子さんでさ、割と前から知ってるんだよ」
「そうなんですか」
 硬い声でそう言うと、速水は破顔した。
「あれ。常務の昔の同僚ということは、私、知ってますか」
 おい、常務って呼ぶなって言ってるだろ、と彼は言ったが、
「そうだな。知ってるかもな」
 と、そらっとぼけた。紅深は急いでアベ、という名前を脳内でサーチして思い出した。
「もしかして、専務?綾部専務?アヤベって書いてアベって読む」
「あ。そうです」
 改めて、名刺をよくよく見たら、本当に綾部と書いてある。そして、続く名前にも驚いた。三千年、と書いてミチトシと読むらしい。
「綾部三千年、さん」
「はい。大袈裟な名前ですよね」
 綾部くんはそう言って、にっこり、笑った。
「あの、私、平社員でしたけどあの会社にいたことがあって」
「はい。うかがってます」
 綾部くんはにこにことうなずいた。
「社長さんと、僕の父と、速水さんは三人であの会社を立ち上げられたんですよね」
「俺は違うよ」
 速水は苦笑した。
「ふたりにくっついてただけ。かみさんがいい家の出だったから」
 速水はそう言うと、ああ来た来た、と、言った。直後に、テーブルに料理が並んだ。
「あの、それじゃあ、綾部さんは、速水さんの奥様とも会ったことが?」
「はい。子供のころ、何度か」
 彼は素直にそう言うと、速水におしぼりを渡した。
「おお、サンキュ。そうなんだよ。三千年くんは俺のかみさんのお気に入りでね」
 速水は紅深にそう言った。
「あの会社に入らずに、旅行会社に入った、って聞いてたから、今回無理を言って頼んだんだ。戸塚に転勤になって何年?」
 さっそく食べ始めながら、速水は綾部くんに尋ねた。
「三年です。その前は平塚にいました」
「塚ばっかだな」
 速水はくだらないことを言って笑った。綾部くんはにっこりしたが、紅深は笑わなかった。
「あの。それで」
 はっきりさせないことにはどうもおさまりが悪く食欲も湧かないので、紅深は思い切って綾部くんに尋ねた。
「私と速水常務が旅行に行くって、あの、それはどうなんですか」
 変な質問になった。
「ええと、綾部さんのお父さんとか、変に思われませんか」
 真剣な顔をしていたらしい。後で速水に笑われた。
「事情をお聞きしたので、全然、変に思っていません。少なくとも、僕と父は」
 と、彼は言った。
「むしろ、ご同行願えるなら良かったと思います。僕だけでは、不安ですし。色々、気がつかないこともあると思うので」
「ええと、そういうことじゃなくて……」
 紅深が言いよどむと、隣で速水が笑った。
「お前、俺の愛人になろうなんて百年早いよ。誰もそんな風に思わない、って。自意識過剰だぞ、それは。俺とかみさんの熱愛は周知の事実だからな」
「そう?そんなに有名なんですか」
 綾部さんは、またにっこり笑うと、有名ですよと言った。
「それなら、いいんですけど」
「それより、羨ましいです。年齢をこえて友達になれるなんて、すごいことですよね」
 綾部三千年くんは、おぼっちゃまなんだろうか。専務の息子だし、当然なのかもしれない。とても素直で人が良くて、善良で、そして優しくて、びっくりするほどだ。
「常務がすごく読書家で、博識なんです。私に話を合わせてくれるんです」
 紅深が速水を立ててそう言うと、速水はまんざらでもないようにうなずいた。
「まあ、そうなんだけどな。うちのヨーコとラルフが仲良くなって、それからなんだよ」
「ああ。ヨーコちゃんは、残念でしたね」
 綾部くんも犬好きなんだろうか。本当に残念そうに、彼は言った。
「三千年くんはヨーコに会ったこと、あったよな。いい子だったからなあ。寂しくてね。でもラルフがいるから、俺はラルフのために、東野に話を合わせてやってるんだ」
 速水は言った。
「ラルフくんはおいくつなんですか」
「7歳です、たぶん。保護犬なので、正確には」
「どんな子なんですか」
「おとなしいんですよ。ほえないし。マンションで飼ってても、全然気を遣わなくていいくらい。盲導犬でも立派に働けた、って盲導犬協会の人に言ってもらったことがあります」
 この時とばかり、犬自慢をした。
「写真、見せてもらえますか」
 いいですよ、と携帯を出そうとしたら、速水がすかさずポケットから写真を出したので驚いた。持ち歩いているとは思わなかった。
「ほら。これ、ヨーコ。ヨーコのとなりがラルフ」
「ちょっとこのあたりの毛が長くてかわいいですね」
 綾部くんはそう言って、嬉しそうに写真を見た。
「ヨーコの方が美人」
「それはそうだけれども、ラルフだって」
 思わず口を出すと、速水はにやりと笑った。
「犬、お好きなんですか」
 綾部くんに話を戻すと、はい、と言った。
「できたら飼いたいんです。でも僕今家を出てて、犬を飼えるところじゃないんで。実家では飼ってます。トイプードルです」
「わあ」
 トイプードルは実はお気に入りだ。
「男の子?女の子?」
「正確には姉の犬なんで、僕が自慢すると怒られるんですが。女の子で、名前はラブです」
「可愛い名前ですね」
 これです、と、彼は懐から携帯を出して写真を見せてくれた。
 すっかり犬談議に花が咲き、旅行の話など少しもしない間に食事が終わった。コーヒーを飲みながら、では改めて、と綾部くんが言った。
「行先はスペインだけで良かったですか」
 そう言いながら、鞄から見積もりの書類とパンフレットを出した。
「期間は一応、お話があった5月の連休明けということでお見積もりを出してきましたが」
「うん。それでいいよ。俺も東野も、どうせ暇だから」
 速水は言った。
「ちょっと俺、トイレに行ってくるから。東野と話してて」
 そう言うので、紅深は一度立ち上がって席を譲り、速水は店を出て行った。
 改めて座ると、綾部くんは、それでは、と見積もりと日程の紙を紅深に渡した。
「あの」
 受け取りながら、紅深は言った。
「大丈夫だと思いますか」
「速水さんのご体調のことですか」
「はい。私この間、見ちゃって。辛そうなところ。私には、詳しいことは何も言ってくれないんです。病院には行ってる、と言うだけで」
「そうですね。速水さんには、病院の診断書がいるかもしれません、とお伝えしています。病状次第では、難しいこともあるかもしれません」
「そうですよね。途中で何かあったら大変だし。せめて今どういう状況なのかわかればいいんだけど」
「速水さんは、わかっていらっしゃると思います。たとえば病院からストップがかかったら、無理はしない、とおっしゃっていましたし」
「そうなんですか。それならいいんですけど」
「東野さんに迷惑をかけられないから、不測の事態があれば諦めるとおっしゃってました」
「そう、ですか」
 なんだか、胸が痛んだ。一緒に楽しみにしてあげることが、どうしてもできない。外国で何か起こったらどうしよう、とばかり考えてしまう。
「あの。綾部さんも、一緒に行ってくださるんですか?旅の間ずっと?」
「はい。そのように伺ってます」
「私、行かなくてもいいんじゃないかなぁ」
 ついに、本音を口にしていた。
 それを聞いて、綾部は少し、ほんの少し、黙った。それからおもむろに、また微笑みを浮かべた。
「そうですね。ちょっと、きつい話ですよね」
 ふっと、胸のつかえがとれた。誰かに共感されたのが、とても嬉しかった。ずっと、ずっと、速水の命に責任があるのではないかという気持ちに押しつぶされそうになっていた。
「きつい、ってほどじゃあ、ないんですけどね」
 思わず、そう言ってしまう。本心ではなかった。きつかった。
「このお話は、実は速水さんから直接僕に来たわけではなくて、父親からの話だったんです。うちの父親と速水さんって、まあ、なんて言うんでしょうか、戦友みたいな感じで、そんなにしょっちゅう会ったりしないんですが、いつも気にかけてるような、そんな感じなんです。速水さんは基本的に頼み事ってしたことがないそうなんです。父親の方が、結構速水さんに無理をいったことが何度もあるみたいで。そんな速水さんが初めて頼みごとをしてきて、これは大変なことなんだ、というんです。そもそも、行けるかどうかもわからない話だろう、でもできれば、お前付いて行ってやってくれ、その東野さんというお嬢さんのことも、すごく気を遣ってる、変な関係ではないと思う、だから頼む。って。僕、父から頼まれたことなんてなくて、これも初めてだったので、本当に面食らってしまって。確かに、僕の仕事的には美味しい話です。速水さん、お金に糸目はつけない、とまでおっしゃってたみたいなので。だからできれば僕は、東野さんに一緒にいっていただけたらと思います。こんなこと、言いたくないですが、最後の頼みなんだ、って父親が言っていたので」
 彼の言葉を聞きながら、気づくと涙があふれていた。
 そうだ。知っていた。速水もそう言っていた。最後の頼みだと。お前と旅がしたいんだ、と。
「わかり、ました」
 涙を拭き、やっと、紅深は言った。
「すみません。よろしくお願いします。私、海外旅行も初めてなんです」
「あ。そうだったんですね。それは、確かに慎重になりますよね」
「役に立たないんです。きっと足をひっぱります。常務のことを助けてあげなくちゃって思うけど、私じゃ役に立たない。だからすごく心配でした。ラルフのこともあるし」
「ああ、ラルフくんのことなら、僕の実家で預かってもいいって、父が言っていました」
「えっ」
 驚いた。それこそ、びっくりな話だった。そもそも、ホテルの手配などを自分でしなければと思っていたのだ。近所の懇意の動物病院ではペットホテルもやっているし、何度か預けたこともあるので、そこに預ければいいだろうとは思っていたのだが、まさか見ず知らずの女のペットを預かってもいいと言うなんて驚き以外のなにものでもない。
「これも、速水さんが、あなたを一緒に連れていく以上、ラルフに責任があるから、ラルフをなんとかしなくちゃいけない、っておっしゃっていたそうで。父が預かろうかと言ったら、ラブちゃんが可哀そうだからそれもだめだって。それがいちばんの気がかりだって言っていたそうです。そしたら父が、ラブを姉に預ければいいだけだから、大丈夫だって説得したらしくて」
 周囲が一生懸命になればなるほど、速水がもうどうにもならないくらい悪いのだと、突きつけられるような気がして、心が沈んだ。
「あの。それはあまりにも悪いです。ラルフも、懇意にしてる動物病院があるので、そこで預かってもらいます。そのほうがラルフもいいと思います。知らないうちだと、きっと不安になってしまうと思うので」
「そうですか。そうかもしれませんね。でも、それでしたらペットホテル代も心配なさらないでください」
「そんな。そこまでは。とても」
 と、言いながら、彼らの本気が、速水の死を確定しているようで本当に気がめいった。
「僕は今回は、速水さんに甘えた方がいいと思ってます」
 綾部くんは言った。
「速水さんは、そうしたいんです。あなたに感謝しているし、その気持ちを伝えたいんだと思います。こうした形で。だから、速水さんの気持ちを無碍にしないであげてほしいと思います」
「綾部さん。綾部さんは、あの、もしかして、常務の病状を知っているの?常務は、ひょっとして、あなたのお父さんには詳しく話したの?」
 綾部はちょっと黙って、それから頷いた。
「僕たちで、速水さんを楽しませてあげませんか」
 そしてそれから、そう言った。
 少しの間、互いに無言が続いた。速水が遅いな、と思い始めた頃、ようやく、速水が帰ってきた。
「混んでたよ」
 と、聞いてもいないようなことを言う。おそらく、また痛みが出て薬か何かを飲んでいたのかもしれない。そんなことをおくびにも出さず、速水はちょっと太ったんじゃなねぇか、と言いながら深紅の隣に戻った。
「どうだ?話できたか?」
「綾部さんに、全部お任せしました」
 と、紅深は言った。
「どれどれ」
 と言って、速水も胸から老眼鏡を出し、日程表をとって眺めた。
「うん。いいよ。これで、いいと思う。じゃ、話進めてください」
 眼鏡をしまいながら、言った。標準的な、ガイドブックやパンフレットに載っているスペインの旅の見本みたいな日程表だった。比較的、時間がたっぷりとってあるのだけはわかった。速水は内容について、ここに行ったら次の場所は近いの、とか、ここ面白いの、とか、何がみたいとか食べたいとか、具体的な話なんかなにもしない。何だっていいんだろう、と思った。旅に行くことそのものが目的で、何が観たいとか、何をしたいとか、そういう旅行ではないのだろう。
「東野は、どうだった。行きたいところは網羅されてたか」
「はあ……だいたい」
 紅深も適当に言った。自分自身も、そんなことはよもや、どうでもいい。
「ありがとうございます。では、早急に手配します。念のため、東野さんのご連絡先をうかがってもいいですか」
「あ。じゃあ、ふるふるで」
 そう言って携帯を振ってアドレスを交換するふたりを、速水が苦笑いしながら見ていた。
「いまどき、って感じがするな。俺はこれだけはいまひとつ、ついていけないよ」
 そんなたわごとを無視し、じゃあ、よろしくお願いします、と紅深は言った。綾部くんは、はい、とにっこり頷いた。速水はそれを見て、満足そうにうなずいた。そんな速水を見ただけで、今日は良し、と思った。
 その後、綾部くんと紅深はたびたびメールを交換することになった。今日はありがとうございました、というメールが綾部くんから来て、それに返信して、それに綾部くんがまた返信して、と、最初は事務的なメールだったのに、気がつくとエンドレスになっていた。綾部くんはマメなタイプのようで、メールのチェックも頻繁だったし、紅深も綾部くんのメールを気がつくと楽しみにしていた。
 数日後、結構な頻度でやり取りした後で、綾部くんがついにメールでたずねてきた。
「東野さんは、僕が個人的なアドレスを交換しようと言ったことに、なんにも思わなかったんですか」
 もちろん、とっくにわかっていた。会社のアドレスからメールするなら、紙に書かせるなりなんなり、というのがセオリーだろう。
「思いましたよ。この人、私に気があるんだな、と思いました。(笑っているマーク)冗談です。ただ、速水さんのことがあるので、個人的なメールの方がいいんだろうな、と思ったの。私、そこまでうかつじゃないです」
 そう返信すると、ちょっと時間を置いて、彼から返事が来た。
「個人的に会ってもらえますか」
 紅深は承知した。それが、速水に関することや旅行のことではないことくらい、さすがにわかった。
 綾部くんとの会話が深まっていくその間、速水とは特別に連絡は取らなかった。2、3日に一度、様子をうかがいあうメールはしたが、次の映画を見に行く話にもならなかったし、ラルフのことで写メを送ることもなかった。ラルフも元気を回復して、昔のように散歩をせがむようになっていた。具合が悪いのに人に預けるのが心配だったが、このくらい元気なら大丈夫だろうと思うくらいには、元気だった。
 綾部くんと初めて外で会ったのは、4月の終わりだった。少し汗ばむくらいの陽気の日で、横浜の元町に行った。
 なぜ初デートで元町だったのか、というと、綾部くんが野球好きだったからだ。その後、関内に行って野球を観戦した。彼は筋金入りの横浜ベイスターズのファンだった。チケットはちゃんと用意してあった。
「どうして野球を観ないか、って誘わなかったの」
 と聞くと、デートの途中でまったく野球に興味が無かったら、誘うのをやめようと思っていたから、と彼は言った。
「チケットがもったいないじゃない」
 そう言うと、
「でもチケット持ってても結構並ぶし、待つし、嫌かもしれない、と思ったから」
 と、彼は言った。人に気を遣う、優しい人なのだと思った。
「それに今年は開幕から低迷してるから、負け試合を見せてしまいそうで、心配で」
 と、彼は変な持論を付け加えた。大好きなチームだけに雄姿を見せられないのが不満だったのだという。正直、そのあたりはよくわからなかったが、その試合もベイスターズの負け試合だった。
 帰り道、監督が良くないようなことを言っていたが、紅深は野球のことはよくわからないけど、負けたらやっぱり悔しいんだね、と言うと、悔しいけど今日は紅深さんがいるから大丈夫だ、と言った。思わず、面白くて笑った。そのあと、ちゃんと送るからもう少し飲まないか、と彼が言った。
 軽く飲みに行って、その帰り道でキスをした。
「旅行に行く前にこんなことになって、速水さんに悪いかな」
 と言うので、
「その前に告白してほしいんですけど、一応」
 と言うと、あっ、ごめん。と、綾部くんは言った。年下なのはメールのやり取りの間に知っていた。あまり気にならなかった。たぶん、すっかり好きになっていたからだろう。
 速水さんには自分が言います、と宣言するので任せたら、翌日、速水からメールが来た。
「おめでとう、東野。ついにお前にも春が来たな。俺はカップルのお邪魔をしながら旅行は嫌だよ。残念だけど、旅行は取りやめだ」
 そしてその文面を見た瞬間、紅深ははっとして恋も冷めそうになった。
 これは、本音ではない。と、心臓が告げていた。
 たぶん、医者の許可が降りなかったのだ。速水は悪いのだ。悪くなっている。自分がうかうかと恋などしている間に。

つづく

※「GOLAZO(ゴラッソ)」サッカー用語。
  スペイン語で「最高のゴール」。


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