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GOLAZO #1

 2002年。失恋して仕事も失った30歳の東野紅深ひがしのくみと妻に先立たれた65歳の速水草輔はやみそうすけは、近所に住む犬の散歩仲間。犬同士が仲良くなったことをきっかけに親しくなり、いつしか互いに大切な存在になっていく。病を得て、一緒に最後の旅をして欲しいと言う速水に戸惑う紅深。旅は実現しないものの、紅深は旅の計画をきっかけに出逢った男性と付き合いはじめる。彼は優しく善良なのだが、紅深は彼との恋愛にいまひとつ踏み出すことができない。
 横浜を舞台に、2002年と2022年のサッカーワールドカップとコロナ禍、20年の時を行きつ戻りつする物語。

1.2002年 ランドマークタワー


 みなとみらいの「動く歩道」にはいつも横風がふいている。
 海からの風なのに、海の匂いはしない。紅深くみは髪をかきあげるようにして、観覧車の真中についた時計に目を凝らした。
 少し寒い。春のコートを着たが、まだ冬のコートでもよかった、と後悔した。
 午後1時25分。待ち合わせに間に合うことを確認する。と同時に、変な遠近感、と思う。
 海に突き出た形の人工島に遊園地があり、観覧車がある。何年か前に手前のホテルの前に船舶が出現してから、観覧車を見るたびに「変な遠近感」だと、いつも思うようになった。
 なぜ同じ思考を繰り返すのだろう。ばかばかしいと思うのだが、必ず考える。船の帆のせいだろうか。月の形のホテルのせいだろうか。
 今紅深が歩いている「動く歩道」も、変なスピードだ。景色を楽しむためのスピードなのだろうが、歩いたほうが早いし、誰もが空いている右側を追い越していく。紅深も足早にそのゴムの道をでこでこと妙な音を立てながら歩いていた。
 斜めになったベルトコンベア状の坂道を、お喋りをする外国人の観光客のカップルの脇をすりぬけて先を急ぐ。ランドマークタワーの1階に入っていくと、ベンチで寛いでいる人の姿をみつけた。待ち合わせの時は必ず、本を読んで待っている。いつもそうなのだ。
 65歳。かなりの高齢とは言えないけれど、もちろん若くはない。髪の毛は少し、ある。その少し残った髪の毛は、耳の後ろから後頭部にかけて生えている。つまり頭頂は美しいほどに禿げ上がっている。シャツにジャケット、チノクロスのパンツといういでたちで、清潔感のある颯爽とした格好はしているが、髪の毛だけはいかんともし難い。そのため、帽子をかぶっていることが多い。4年前に妻を亡くしてからは独身だが、身の回りはいつも小奇麗だ。
「お待たせしました」
 声をかけると「ああ」と言って、彼は眼鏡を取って本を閉じた。隣を指差す。座れ、という合図だ。
「結構待ちましたか?」
「うん」
 と、彼は言い、「時間は間違ってない」と続けた。
「常務はいつも早過ぎなんですよ」
 紅深は軽く言った。それに対し彼は、早く来るのは世代と仕事柄、そして性分なのだと言った。
 彼は5年前まで紅深が勤めていた会社の常務だった。名前は速水草輔はやみそうすけという。5年前、26歳の時に紅深は会社を辞め、同じ年に速水は妻の病気を理由に会社を退職した。
 紅深は速水の顔を知っていたが、彼のほうは紅深のことを知っていたどうかも怪しい。紅深は一般職の事務だったし、仕事は末端の末端で、常務と口をきけるような立場ではなかった。
 そのふたりが、なぜ今待ち合わせなどをしているのか。話せば長いのだが、今は割愛する。
「近所に住んでるんだから、わざわざこんな、こじゃれた場所で待ち合わせなくても」
 紅深は言った。
「愚かもの。俺は退職してから毎日家でつっまんないの」
 つっまんない、と幾分強調して、速水は口を尖らせた。
「今はカミサンもいないし。ヨーコもいないし」
 ちなみにヨーコというのは、2年前に死んだ犬の名前だ。
 速水は言い訳するように言った。
「まあ、とにかく大船で会うのもなんじゃないか」
「ルミネがありますよ」
東野ひがしのはルミネが好きなのか?」
「いや別に」
 紅深はバッグを抱えて立ちあがった。
「とりあえず、常務の好きなスターバックスに行って、コーヒーでも飲みましょう」
「俺はローファットラテ」
「聞いてないっすよ」
 最近馬鹿のひとつ覚えのようにローファットラテにはまっているので聞くまでもなかったが、あえて自己主張する速水に紅深は小声で独り言を言った。
 エスカレーターで地下に下り、スターバックスに入る。
 何年か前に日本に上陸し、急激に店舗を増やしているスターバックスは、速水のお気に入りだった。この前赤坂に100店舗目ができたとニュースでやっていた。
 相変わらず混んでいて、速水は席を取るからとさっさと中に入ってしまい、紅深は注文する列に並んだ。
 姿勢のいい背中を見ながら、紅深は会社の廊下で常務を見かけたときのことを思い出していた。あのころは、まさか彼とこんなふうに外で会うとは夢にも思わなかった。
 会社では、速水常務は上背があり顔立ちも整っているので、実は西欧の血が入っているなどとまことしやかに囁かれていたものだった。物腰はジェントルで、てきぱきとした仕事の出来る人だと部下にも慕われていた。だが紅深は、それ以上のことを知らない。会社での速水常務と、今会っている人は、まるで別の世界の人のような気がする。
 散々待って、ラテと自分のカフェモカを手に速水の陣取った席に向かう。速水はまた本を読んでいた。
「今は何を読んでるんですか」
 ラテに嬉しそうな顔をしながら、速水は本を閉じて、律儀に340円をテーブルに置いた。
「たまにはおごりますよ」
 というと、速水はふん、と言った。
「30すぎて独身、ひとり暮しの東野ひがしのにおごってもらうほど俺は年よりじゃないもんね」
 勝気で、負けん気だけは人一倍なのだ。
「30過ぎて独身、ってとこは余計です」
「ほんっとうに」
 と速水は言って一度ラテを舐め、それからまた言葉を続けた。「東野は男がいないのか」
 うんざりするほど直裁な言葉だった。でも、嫌味が全然ない。
「いませんよ、いないから常務につきあえるんでしょうが」
「信じられねえなあ」
 素直に首を傾げる速水を、紅深は少し可愛いと思う。
「俺が言うのもなんだけど、東野は別に悪くないよ。いい女かって言われると困るけどな」
「すみませんね、気を使ってもらって」
「俺のいい女の範疇のレベルが高いってのもあるけど」
「常務のいい女レベルはどれくらいなんですか?」
「グレース・ケリーくらい」
「まさかその名前が即答されるとは思いませんでした」
 紅深は呆れて言った。
「ハリウッド女優、アーンド、王妃じゃないですか。誰も太刀打ちできませんね」
「うちのカミサンはグレース・ケリー以上だ。なにしろ皇室だって断ったくらいなんだから」
 彼の奥さんは旧家の出で、なんでも昔、かつて皇太子の花嫁候補に上がっていたことがあったとかなかったとか。年齢が合わないような気がするし、まあ、真実はうやむやなのだが、速水にとってはいつもの自慢話のひとつだった。
「本当に話があったかもわかんないのに」
 そう、紅深が冷静に言うのは、いつも気に入らないのだった。
「うるさいな、この小娘は。とにかくカミサンは美人で才媛で、知的でユーモアがあって」
「なんか重複してますけど、わかりました。最高の人なんですね」
「わかればいい」
 速水は、奥さんのことを思い出したのか、少ししゅんとなってしまった。一度写真をみたことがある。新婚当時の写真と、亡くなる前年の写真だった。確かに彼が言うとおり古風な正統派美女で、そして朗らかで優しそうな人だった。
「それで、今はなんの本を読んでるんですか」
 紅深は話題を変えた。
「ああ。今は森博嗣だ。なかなか面白いぞ。俺は好きだ」
 速水は、こんな風に「好きだ」「いまいちだ」としか、本の批評をしない。それでもだいたい、彼の読書傾向は掴めて来ていた。かなりの濫読派なのでいかなる本でも活字さえ書いてあればたいていは読むのだが、それでも嫌いな本はあるのだった。
「ミステリーですか。この前は時代モノだったのに」
「時代モノは永遠の定番だ。今はちょっと浮気って感じ」
 ときどき、妙に若い言い回しをするが嫌味がなく、むしろ愛嬌と思わせる何かが、この速水と言う男にはあった。
「ラルフは元気か」
 いきなり、思い出したように速水が言った。ラルフは、正式な名前をラルフローレンという。紅深の飼っている犬の名前だ。
「うーん、ちょっとまだ元気ないっすね」
 紅深は少し、声のトーンを落した。
「そうか」
 速水の声も少し、トーンダウンする。
「バーバリーが生きててくれればなあ」
 速水はしんみりと言った。
 紅深は犬好きで、高校生の頃はトリマーになりたかった。専門学校に入ろうと思ったが親が短大以外には進学させてくれず、どうしてもなりたければ短大を出てからにしろ、と言われた。それで結局トリマーは諦め、速水のいる会社に就職したのだ。
 会社を辞めたのは夢をあきらめきれずに専門学校に行くため、などではない。自己都合で辞めてからは、ずるずると派遣で働いたり働かなかったり。今はあまり身の入らない就職活動をしながら、貯金を食いつぶしている。
 平塚の実家に近い大船で、犬OKのアパートを見つけて、ゴールデンレトリバーのラルフと同居してから7年になる。ラルフと同じ犬種のヨーコを、速水が散歩させていたのが出会いだった。
 よくすれ違うので顔見知りになり、いろいろと話すようになり、というのは犬の散歩仲間ではよくあることだ。たまたま、ラルフとヨーコは同じような年齢で、同じ種で、しかも非常に近所だった。
 彼らはひと目会ったそのときに恋に落ちたらしい。しかしその頃は、速水は妻を亡くした直後で、紅深は振られたばかりで再就職先も見つからないというかなり悲惨な時期だった。だから当時は速水も紅深も、公園のベンチに座りこんで、ぼうっと犬を眺めていることが多かった。ラルフとヨーコは一緒にいるだけでも楽しいらしく、当然子孫繁栄も望んでいたようだ。が、それらしい仕草をすると、「じゃあ、また」と飼い主同士が円満に去る、ということをしばらく繰り返した。
 あるとき紅深が、何の気なしに「前勤めていた会社の常務に似ているんですよね」と速水に話したのが発端で、初めてふたりが同じ会社にいたことが判明した。長い間、紅深は「常務に似た人」だとしか思っていなかったのだ。なにしろ常務とは話したこともないし、スーツ姿を遠目に見たことがあっただけだ。それにふたりは、それまでは名前も名乗りあわなかった。とりあえず、「ヨーコのおじさん」と「ラルフの姉ちゃん」。それが、ふたりの名称だったのだ。
 それ以後、速水と紅深は急速に近づいた。
「ラルフとヨーコを結婚させないか」
 と言い出したのは速水だ。
「でもうちは子犬をもらえるような甲斐性がないんですけど」
 紅深は一度は断った。繁殖はいろいろと取り決めなければいけないことも多いし、問題も多いと聞いていた。紅深はいつかはラルフを去勢しようと考えていたし、ラルフに繁殖させるつもりはなかった。なにより、大型犬二匹は飼えない。ラルフだって、そうとうな「ごく潰し」なのだ。そのときは前の会社での貯金があったのでなんとか犬との暮らしをしていられたが、その継続さえ危ぶまれるような状況だった。
「子供たちは全部、俺が引き取る。うちは子供がなかったしな。カミサンが死んでからは、家が広くて広くて」
「でも、常務。いくら広いって言ったって、大型犬は何匹も飼えないですよ」
 紅深は冷静に言った。
「会社じゃないんだから、常務ってのはやめろって。東野は冷静だな。あんたみたいな優秀で有能な部下がいるって、現役のときに知ってたら出世させたのに」
「何ばかなこと言ってるんですか。会社にいる間に知合っていたら、全く逆のことを言ってましたよ。だいたい犬繋がりで出世とかあり得ないし」
「とにかく、もったいねえなあ。若いのに仕事がないなんてよ」
 速水という人は、冗談好きだが非常に素直で実直だった。
「繁殖はさ、考えてみてよ。だってほら、ラルフもヨーコもお互いに恐ろしく好感度は高いみたいだ。こんなこと、案外ないんだってよ。見合いさせても興味なしとか、性格合わないとか、結構聞くぞ」
 確かにその通りだった。ラルフはヨーコが好きだった。散歩中にヨーコに会うのを楽しみにしているような節があった。
「何匹、産まれますかね」
「さあなあ。レトリバーって普通、2、3匹じゃねえのか?」
「里子に出せますか」
「まあ、やってみよう」
 という、わけで。
 近所の犬仲間だったブリーダーさんのアドバイスを受けながら、ラルフとヨーコはめでたく夫婦になった。ヨーコはすぐに妊娠し、三匹の子犬を産んだ。オスのグッチ、バーバリー、メスのエルメスだ。
 グッチとエルメスはすぐに貰われて行った。仮につけた名前の高級な順だと速水は言った。どこまでブランドに詳しいのかわからない。名前は速水がつけた。
 バーバリーはちょっとひ弱な犬で、速水が引き取ることになった。別の名前を考えようとしたのだが、いつのまにか定着してしまい、バーバリーはヨーコの乳を飲んで大きくなった。
 散歩で会うと、発情期以外のラルフはヨーコよりバーバリーに興味を示した。自分の息子だとは露ほども思っていないようだった。それでもやっぱり、バーバリーはラルフにもヨーコにもちょっと似ていて、面白かった。
 ところがある日、バーバリーは突然死んでしまった。
 予防接種にも交通事故にも気をつけていたのに、可愛がって大事に守って育てたのに、産まれて3ヶ月で、感染症であっけなくこの世を去ってしまった。
 速水と紅深は大泣きに泣いた。そしてバーバリーの埋葬をした。ちゃんとお骨にして、速水バーバリーという名札をつけて、共同墓地に納めた。
 あのとき、半狂乱だったのは速水のほうだった。
 自分が育てていたということもあっただろうし、とてもショックだったらしく、それ以後は二度と繁殖のことは言わなかった。ヨーコもラルフも去勢した。
 グッチとエルメスのその後は時々、聞く。とくにエルメスは、近所でブリーダーをしている風間さんの家にもらわれた。繁殖の時にもお世話になった人だ。色が白っぽかったのでもらわれてからゆきちゃんという名前に変わり、ゆきちゃんはヨーコとラルフの孫を何匹も産んだ。グッチは港北の方にもらわれて、名前はそのままグッチだった。
 バーバリーを亡くしたときから、速水と紅深は家族的に親しくなった。もともと、年齢も離れていて、単に犬好きというだけでは埋められない世代の溝があったし、こうまで親しくなるとは予想外だった。ふたりとも寂しかったし、それにものごとの好みや思考も似ていた。親子ほどの年齢の開きがあったが、言ってみれば性格が合ったのだろう。
 速水の家に紅深が、紅深の部屋に速水が来るようなことはない。繁殖のときに1、2度速水の家にお邪魔した程度で、お互いに一線を引いて踏み込むことをしなかった。その代わり、散歩以外にもときどき外で会うようになった。家の近くで会わないのは、近所の目がある、というのもある。速水は一応、独身男性だし、紅深も嫁入り前だ。その辺は年の功か速水は対応が素早く、非常にスマートに立ちまわっている。
 それに、速水は街が好きだった。華やかな場所や、芝居や映画が好きだった。紅深と連れ立って歩く速水は活き活きと楽しそうだったし、紅深もいいことをしているような気になる。
「俺は、東野に恋愛感情はないよ」
 と、速水は言う。
「だけど、若い子と歩くのは楽しい」
「そのスケベオヤジみたいないい方」
 紅深が言うと、速水は意外な顔をする。
「なに言ってんのかな、この娘は。俺は立派なスケベオヤジだ」
「偉そうに言わないでくださいね」
「俺のスケベは高尚なんだ。年端もいかない東野なんぞに、俺がまいるわけがない」
 自身満々に、言う。
「年端も行かないって言われたのは、恐ろしく久しぶりっすね」
「なになにっす、っていうの、やめろ。もうちょっと女らしくしないと男は寄ってこんぞ。まあ、俺に子供がいたら、東野とこうして会ってるかどうかはわかんないな。同じ年くらいの子供がいたら、こんなふうに会ったりするのは気が引けるだろうな」
 それは、確かだろう。速水には生活感がない。だから会っているのは不思議なほど、生臭くないのだ。親がなく、子供がなく、孫がなく、そして妻がなく、今は仕事もない。頼みのヨーコも、去年死んでしまった。今、彼を繋ぎ止めているのは、ラルフと……そして、自分なのだと紅深は思う。
「何にもなーい、ないないなーい」
 速水は適当なフシをつけて歌った。
「それ、何の歌ですか?」
「作詞作曲、俺。なんにもない俺の歌」
「なんにもなくないじゃないですか」
「複雑な言いまわしをするな。じゃあ、俺に何がある?」
 ぐっと詰まる問いかけだった。
「嫁でももらえばいいじゃないですか」
 紅深は困って、苦し紛れに言った。
「ヤダねったら、ヤダね。嫁がくれば、嫁と俺のどっちかは先に死ぬ。俺はもう、身のまわりの者の死にはあいたくないし、俺が先に死ぬのも本意じゃない。だから犬も、もう飼わねえよ」
 普段は調子がよく軽口ばかりの速水が、少し改まった言い方をしたので、さすがの紅深も黙って聞くより他なかった。
「東野は特別席」
 と、速水が言った。
「なんだかわからん。色気もサービスもないホステスってとこかな。まあ、結構何気にボインだけどな」
「なにげ、っていうのはいいとして、ボインは死語ですよ。気をつけましょう。まあ、ケアサービスとか言われるよりましですかね。でも、色気とサービス精神があったら、こんなにしてらんないっすよ」
「まあな」
 切り返すかと思いきや、速水はすっと引いてしまった。
 このごろ、速水は少し元気がない。そのことには、気がついていた。風邪をひいてから元気がないラルフの心配ばかりしているのも、気になっていた。
「あのですねえ、ラルフは元気ですよ」
「あん?」
 話が急に戻ったので、速水が顔を上げた。
「ちょっと風邪ひいただけなんですよ、ほんとに」
 実際、すでに回復期にはいっている。
 速水がこんなに重く受け止めてしまうとは思わず、気軽に具合が悪いなどと言ってしまったことを後悔していた。
「ラルフに会いてえな」
 ぽつんと、速水が言った。
 簡単に、会えばいいじゃないと、なぜか紅深も言えなかった。
「ヨーコの時もそうだったんだ。元気がなくなって、あんまり散歩にいかなくなったなあって思ってたら、食欲が落ちてきて、そんで医者に見せたら心臓が弱ってるって言われて、ある朝起きたら死んでた。ヨーコは性格の穏やかな、いい女だった」
「うん。そうだね」
 ほんとにそうだった。ヨーコの娘、エルメス改めゆきちゃんも、性格のいい犬だと評判だった。きっとヨーコがいい子だからね、と、風間さんも言っていた。ヨーコは無駄に吼えず、甘えるときと、こっちを甘やかすときを心得ている犬だった。ヨーコはいい飼い主に育てられていたのだ。速水が、そういう飼い主だったのだ。
「なあ、東野」
「はい?」
 カフェモカも底をついていた。もう一杯何か飲もうかな、と思っていたときに速水が言った。
「一緒に、旅行に行ってくれないかな」
「いいけどお金がありません」
 紅深は即座に言った。
 旅行について深く考えた返事ではなく、現実的な問題のほうが先だった。
「金はいい。おまえはそういうの、嫌いだろうけど、俺が出す。俺が誘ったんだ、俺が出すよ。……けどなあ、東野。俺と旅行なんて、いいのかな」
 自分で誘っておいて、意外と小心だった。
「なんか、火曜サスペンスみたいですね。殺人事件にあっちゃったりなんかして」
「広川太一郎か。カミサンが好きだった」
「へえ。奥さん、趣味いいですね。あたしと気が合うかも」
「まあな。カミサン、東野と旅行に行くなんて知ったら焼餅やくかなあ」
「焼かんでしょう。第一、常務はあたしのこと、女じゃない、好きじゃないって散々言ったじゃないですか」
「あれ、信じてんのかあ?」
 にやにや笑いながら、速水は言った。
「マジで信じさせてもらいます」
 紅深は言った。
「東野の親父さんにばれたら、怒られるかなあ?」
「たぶん。自分より年上だし」
「東野の親父さんいくつだ?」
「62歳」
「親父が俺より3つも下か。参ったな」
「別に参ることないじゃないですか。事実は事実で」
「東野は飄々とし過ぎだよな。なんでも達観して淡々としてるんだな」
「いきなり人物評しないでください。あたしだって、熱ぅい恋愛したことくらいあるんだからさ」
「信じられねえなあ」
 そうだ。そんな恋愛があったのだ。結婚まで考えていたのだ。
 でもあれからさっぱりぱったり、自分の人生に熱い季節が訪れない。目の前にいるのはどう考えても、親より年上の、立派なシニア男性だ。しかもその男と、愛人でもなんでもないのに、旅行にまで行こうとしている。実は今、かなりやけっぱちなのだろうか、と紅深は自分を疑った。
「ま、とにかく湯煙旅情殺人事件、行ってみましょうよ」
 紅深は気を取り直して言った。なぜだか速水に対して、自分は責任があるような気がしてならなかった。
「火サスじゃねえんだよ。俺が行こうとしてるのは、スペインだ。エスパーニャ」
「は?」
 サスペンス、とスペイン、は似ている。そんなことを思いながら、紅深は速水を見つめた。
「実はな、俺はスペインの血を引いてるらしいのだ」
 と、照れもあるのかいきなり説明口調で速水は言った。
「マジで?」
 紅深は内心信じていながら、いかにも胡散臭いという声を出してみた。
「本当だ。どのあたりでそんなラテンの血が入ったのかわからんが」
「ああ、確かに入ってるならラテンでしょうね。ゲルマンとかフランクとかベネルクス三国とか、あり得なさそう」
「愚か者。ベネルクス三国はミックスだし、フランクはすでに時代とカテゴリーが間違ってるだろ。とにかくだな、黙って聞けよ。俺は死ぬ前にその、俺の血の中に流れてるって言うスペインをだな、見ておきたいんだ」
 死ぬ前に、というのが気になった。
「しっかし、いきなり海外っていうのも」
 さすがに、紅深は躊躇った。
「だよなあ」
 速水は言った。
「常務、現役の時に出張で行かなかったんですか?」
「ヨーロッパには仕事で何度も行ったし、カミサンとも旅行で何回か行った。でもスペインだけは行ってねえんだ。なんだか、そういう気になれなかったんだな」
「スペインね。ふうん。ドン・キホーテ、フラメンコ、ガウディ、そのくらいかな。思い浮かぶのは。オランダだったらねえ」
「なんでだ」
「フェイエノールトの小野が見られる」
「何言ってる。スペインリーグがあるだろうが」
「ジダンにロベルト・カルロスにフィーゴに。勢ぞろいですね」
「今年はワールドカップで、サッカーなんて飽きるほど見られるだろ」
「スペインねえ」
 本当は、速水との旅に興味があった。けれど、どこかで「いいのか?」と思う。愛人でもなんでもないのに、ふたりで旅行に行くなんて、クレイジーだ。
「東野はなにか釈然としないんだろう」
 速水は紅深の心の中を覗いたかごとくにそう言い放った。
「こんなジジイと、なんでスペインくんだりまで、とな」
「だって、そうでしょう?ふたりの関係はなんですか?」
「ボランティアじゃねえかな」
 速水は言った。
「俺は、男がいなくて寂しい東野の日常の、隙間を埋めてやってる」
「おいおい。そっちがボランティアか?」
「無償の、美しい行為さ」
「そうだろうか」
 紅深は眉間に皺を寄せた。
「東野はさ、ここ最近、楽しいっ!とか、わくわくっ!とか、そういうの、ないだろう」
 楽しいっ!とか、わくわくっ!とか、ずいぶん若い女子に偏見がある。まあ、彼と比べたら紅深も若い女子の範疇に入るのだろう。紅深は勝手にそう解釈した。
「別に、普段そんなふうに感じて生活してませんよ、誰も」
「そうかよ。なんかこう、眉間に皺寄せて、難しい顔ばっかりしてるぞ」
 多少、思い当たることがあるので黙っていた。
「なあ。ボインが死語だったら、今はなんて言うんだ?」
 急に、速水が話を蒸し返した。
「ナイスバディとかじゃないですか」
「はあ、そうか。ナイスバディね」
「なんですか、今更」
「東野はナイスバディ。なんか、こっちの方が嫌らしくないか?」
「あたしはナイスバディではございません」
 紅深はきっぱりと言った。
「そんなもの、自分が決めるんじゃねえ。目の錯覚だろうが何だろうが、見たもんが勝手に思うんだ。世の中の男がそう思うなら、それでいいのだ」
「天才バカボンか」
 速水は紅深が茶化した言葉をさらりと流した。
「とにかく東野は、人生を楽しまなくちゃいかん。そう、眉間に皺寄せて難しいこと考えたりしてちゃ、青春を棒に振るぞ」
「青春、っていうのもいまや死語です」
 紅深の言葉に、速水は苦笑いした。
「ああ言えばこう言う。まあいいや。そんな話をしたかったんじゃない。美術館に寄っていくか?」
 ここで待ち合わせるときは、たいてい、美術館に寄ることにしていた。
「たぶん、混んでると見ましたね。レオナルド・ダ・ヴィンチ展の真っ最中です」
「あ、そうか。んじゃ、映画でも見るか。ロード・オブ・ザ・リング」
「押さえておこうってわけですね。よろしいでしょう。あそこの映画館なら、並ばないし」
 席を立ち、店を出るときに、入り口近くのスタンドのようなテーブルで話をしていた女性の2人組みが、ちらりと速水と紅深を見て一瞬口をつぐんだ。
 紅深は、「また何か言ってる」と思った。
 あの人たちは、親子か?不倫か?ボランティアか?教師と教え子か?
 まさか、恋人か?
 ふたりで連れ立っていると、そういう疑惑の目で見られることが多い。
 友人の奈緒子の言葉を思い出した。
「ええ~っ。信じられない。それ、彼氏じゃん、ほとんど。65歳?65歳?65歳?」
 奈緒子は速水の年齢を三回も繰り返して叫んだ。
「そんなの、彼氏のお父さん、より上じゃん。ジジイじゃん!紅深、悪いことは言わないから、その人とあんまり会わないほうがいいよ。そんな老人と恋愛しても未来ないからね。高齢者同士の結婚だって、財産狙いだって言われて、親戚中から迫害されるんだよ」
 奈緒子には、恋愛じゃないと説明しても、信じてはもらえなかった。
「30代になって、のんきな付き合いしてちゃだめ」
 というのが、最近の奈緒子の口癖だ。短大の同級生の仲良しグループの中では、唯一彼女と紅深だけが、まだ結婚していない。奈緒子はただ単に結婚をしていない、というだけで、付き合った人の数は星の数だ。それなのに、彼女は30代になったら急に結婚、結婚と言い出した。
「そんなにあたし、結婚したいわけじゃないし」
 と紅深が言っても、本気にしてはもらえない。
「恋愛は自由だけどね、65歳はやめな」
 奈緒子は聞く耳を持たなかった。でも、自由な恋愛から遠いのは、奈緒子のほうじゃないだろうか、と紅深は思った。本当に自由だったら、相手が65歳でも女でもサルでもいいはずだ。だからこの世には、自由な恋愛なんて、ないのだ。存在しない。
 そもそも紅深には、今現在、恋愛をしたいという欲求がない。前の恋愛でへとへとになってしまった。今は時々仕事をして、やめたら探して、そしてラルフと一緒にいるだけで、結構満たされている。かえって、今の平安を邪魔されたくないとすら思う。その中で、速水がどう機能しているかは、あまり考えないようにしていた。確かに、彼が言うようにボランティアなのかもしれない。どちらにしろ、寂しいもの同士が肩を寄せ合っているだけで、それは恋愛とは異質なものだ。紅深には、その辺の区別がつくくらいの分別はあった。
 速水と話しているのは楽しい。それは確かだった。これほどまで話が弾む人には、今まで会ったことがない。レスポンスも迅速だ。戦前生まれとはとても思えない。
「常務は、若いですよね」
 いきなり、紅深は切り出した。汽車道をてくてくと歩いていた。夕方に近づきずいぶん風が冷たくなって、やはり冬のコートにしておけばよかったと思っていた。
「身体と心と脳みそは柔軟にしておいたほうがいい。自分の中に備蓄がないと、精神が死ぬ」
「哲学の教授みたいですね」
「そうだな。本当は、大学教授になりたかった」
「常務、大学どこですか?」
「立教。長島茂雄と一緒だ。東大を、落ちた」
「マジで?東大受験したんですか?」
「うん。俺には、そのコンプレックスがある。つまり、学歴コンプレックスだ。この世の俗なヒラエルキーに対して、卑屈だ。結局、俺はずっと営業。この通り、ラテンの血が流れているからな。営業は性に合ってた」
「常務は、なんでもできる人なんですよ。出世も、赤子の手をひねるようなものだったでしょう」
「ああ、それに関しては、カミサンの功労賞だ」
「奥さんの?」
「言っただろう、カミサンの家柄がよかったから、出世しただけ。社長と知り合いだったんだ。俺の実力なんかじゃない。まあ、それもたまたまだったけどな。退職金がよかったから、常務になって良かった」
「会社の人には言えませんね」
 速水は笑った。その話は謙遜だと思った。
「とにかくインプットとアウトプットだ。インプットしたことは、アウトプットしないと定着しない。運動もそうだ。身体動かしてみないとルール知ってたって何にもならんだろう。東野なんか、ぼーっとしてるからな。そのうち俺に置いて行かれるぞ」
「え?やめてくださいよ」
 紅深は内心感心しながらも、少し憤慨してみせた。

つづく

※「GOLAZO(ゴラッソ)」サッカー用語。
  スペイン語で「最高のゴール」。

#創作大賞2023 #恋愛小説部門

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