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「いただきます」と「ごちそうさま」をもういちど【八百屋から見た“食”no.27】

気になる情報が安易に入手できるようになった昨今。
逆に画面から得られる情報が多すぎて何が正しいのかわからなくなっていませんか?
店頭に立つ感覚としては、作り手・売り手・買い手がそれぞれ好き勝手に、主張ばかりの発信を繰り返すだけで相互理解のギャップは年々拡がるばかり。断絶に近い距離感にも思えてしまいます。

農や食の分野に限ったことではありませんが、賛同者を囲い込むだけのコミュニティは外敵(仮想敵)を作り出します。標的があると自らの地位や正当性を説明しやすくなるのは世の常。
最近は、閲覧数という貨幣交換を狙うバズりや煽りにザワつくことも見聞きします。反響を大きくするためだけの煽り。ここでも外敵は作られがち。

かと思えば、食べることそのものにまったく興味を示さない人もいます。

農や食に対して、相互理解が進まないのは
おそらく、いつでもあると思っているから。
食べ物が当たり前に作られ売られ買えて食べれる現在に慣れていて、
売場に並ぶ食品食材が望むように手に入るから、届くまで買うまで食べるまでの経緯を意識しなくてもよいのでしょう。いつでも在る・いつでも買える時代が過ぎたことも気づかずに。

(※前置き:アレルゲン回避は最優先)
栽培方法とか
特定の栄養価が多いとか少ないとか
添加物使った使わないとか
苦労や丁寧のストーリーとか
アレがキケンでコレがアンシンとか
○○の生産拡大・消費拡大とか
世界が危機とか
持続するとかしないとか

ひとまず、いいから。(よくないかもしれないけど)

今食べたモノ頼んだモノ届いたモノ出来たモノが
誰かの尽力で目の前にある。
その尊さ(≒あって当たり前じゃないコト)を、
もう少しだけ、日常に落とし込んで欲しい。

【いただきます】【ごちそうさま】というコトバは
そのために、毎日気づくためにあるんじゃないかなーと思ったりしてます。
※コトバの意味は各自調べてください

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誰が作ったかがわかって美味しい。
そう思える野菜・くだもの・食品を仕入れ、私は皆さんにお渡ししているつもりです。八百屋に「ごちそうさま」と声をかけてくださるお客様がいらっしゃいます。心からうれしいです。

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