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自分自身にとって楽な説明を与える

「常識」に関する社会学者ダンカン・ワッツ氏の本(『偶然の科学』)を少々読んだ。

例えば、我々は金銭的な報酬が従業員の作業の量や質に影響を与えることを直観的にも受け入れているのだが、一方で金銭的な報酬を引き上げれば従業員は高品質な仕事をするか、満足度が高くなるだろうとか、反対に引き下げれば仕事の品質は下がり満足度も同じ程度に下がるだろうというのは、他の条件も複雑に絡んでいるため必ずしも正しくないという。学者によっては金銭的なインセンティブは労働の量や質にまったく無関係だという人もいるという話もあり、研究者の間でもこの複雑な論点に関してコンセンサスのある結論は導かれていない。

ただ、仮に金銭的な報酬というインセンティブ(誘因)の操作が従業員に思ったように影響しなかったとしても、我々は相変わらず「インセンティブ設計が間違ったのだろう」という信念を持ち続ける。つまり、インセンティブ設計をどうにかすれば従業員の労働をコントロールできるはずだという大きな仮定(常識)は相変わらずキープされてしまう(疑われない)。しかし、そもそもその常識が実は間違っていたとしたら、我々は気まぐれにインセンティブ設計をやり直すばかりで、実際に労働を左右する要因にたどりつくことはできないだろう。

常識を疑わないまま、それを前提とした小手先のパラメータを触る方が、どう考えても常識を疑おうとするよりも楽である。あるいは、常識というのは疑うことが困難なことをそもそも指す言葉である。なぜならば、常識を部分的にでも否定・廃棄するとしたら、代わりに何でその穴を埋めるのか思いつかなければならず、その負担は常識を維持したままパラメータを調整するよりも大きいからである。

別の言い方をすれば、常識を前提に作業仮説や実験方針を立案することは部分最適に陥りがちであるということである。なぜならば、確かに常識から派生し得る範囲内の可能性の空間を探索して、その中で最も良い解を得ることはできるかもしれないのだが、実際には現在の常識の外側から観察結果が大きく影響されていたということもあり得るわけである。その場合は全体最適の解を得ることができないばかりか、そもそも解(=結果を大きく左右する真の原因)がみつからない可能性もある。

比喩で言えば、それはあたかも、暗い夜に自動車のカギを紛失したときに、照明で照らされた範囲だけを探すようなものだ。当然、カギは明るいところにあるとは限らず、暗いところにあるかもしれない。ここで「明るいところ」とは我々が常識から想像可能な可能性の空間や因果関係である。しかし、実際の客観的な可能性の範囲や因果関係は「暗いところ」にあったり、あるいは明暗両方にまたがっているかもしれない。仮にそうだとしたら、とりあえず明るいところを探すより前に、全体を照らせるような照明を持ってきたり、太陽が出るまで待ってみてもいいかもしれない。なぜならば、もしそうせずに、明るいところでたまたまカギを見つけてしまったら、私たちは「とりあえず明るいところを探せばいい」という誤った学習・誤った合理化・狭い説明をしてしまうことになるからである。

同じ常識をキープしたまま、同じ誤りを反復することはどのみち幾らかは回避できないことだろうが、自分自身の常識をズラしながら本当に新しい観点から物事を予測してみたり、計測することはどの程度可能なのだろうか? そんなことを考えながら本を読み進める。

(1,421字、2024.05.15)

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