思想が取りこぼしがちなもの If people were like me
高校生の時分に世界史などを学んで、そこからも、人間関係がうまくいかない自分の人生の規範となるものを探そうとしたが、当時の私もすっかり混乱していた。
歴史の話の中には様々な社会思想やその実装である社会制度が登場する──とはいってもそのほとんどはキャッチフレーズ程度にしか知らない──そしてそれらの長所、短所、誰が得して誰が損するか(抑圧されるか)、国家の経済や外交や存亡にどれぐらい寄与したのかが、ごくごく簡単に歴史の教科書には書かれている。
実証主義的な研究によって歴史上の個別の事実(例えば古代ローマのラティフンディウムは実は無かったとか)も歴史観(〝産業革命〟は無かったとか)も次々にアップデートされているから、私の頭の中にあるデータも、きっと相当に旧いものばかりになっただろう。
ただ、昔から社会思想について持っている感想として、とりわけそれがうまくいかないときはその思想の提唱者たちが自分たち自身の境遇を基準に思想をこさえているからではないか?というものがある。
例えば今となっては私は発達障害者であり、その行きがかり上、他の障害者の方と接する機会も多くなった。よく接すれば同情的になる(相手が私などに同情されたいかはともかく)。そうした中、例えば知的障害や言語障害を伴う方に接すると、インテリがつくった社会思想の中でこうした人々は無視されていて、しかしそれはインテリに悪気があってのことではなく、彼らはインテリであり健常者であるが故にノーマルでない人に想像が及ばなかったからだと予想するのである。
あるいは、例えば共産主義の失敗にしても、「人間の見栄や欲望にあまりにも逆らった体制だったから失敗したのだ」という話はよく聞くところであり、共産主義を考えた人々のように〝社会正義〟や〝平等主義〟に人民はさほど関心を持たなかったためだろうと推測している。
資本主義(市民社会)やリベラリズム(法の支配・個人主義)はどうだろうか。これらもかつて失敗した諸思想に比べれば、私個人が共感する面もあり、マシに思えてしまう。
しかし、やはり市場経済や法の支配においては「強い個人」が前提される。そこで個人は、抜け目のない商人のように商品や自分自身を高く売りつける交渉力を持っていなければならないし、役所が出してくる情報をうまく取捨選択して節税したり、あるいは福祉サービスを受けるための手続きができて当然だとみなされる。例えば、もちろん鉄道の切符を恥ずかしがらずに券売機で一人で買えて、お医者さんにも自分の症状を一人で分析して説明しなければならない(これは十代の私には実際、できなかったことでもある)。
今後、日本国や世界がどのように変わっていくのかはもちろんわからないが、誰かの思想が社会に実装されるときは、その人物が〝できて当たり前〟だと思っているのが何なのか、知っておきたいものだと思う。
(1,156字、2023.09.15)
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